過去からきた幼なじみ 4 お買い物Ⅱ
「そういえばさ、あんたの部屋のハンガーにかけてあるマフラーなんだけど」
ふいにひかりがそんなことを言った。かえでとひかりはチョコ売り場から離れ、今は生鮮コーナーを歩いていた。二人は戻りきらないひかりの記憶のことよりも、まずは夕ごはんの材料のことを考える方が重要であるという結論になったのだ。
「なにを勝手に俺の部屋に入ってるわけ?マフラーが何か?」
そうは言っても、ひかりのことだ。どうせ勝手に入ってるだろうと思っていたので、かえでは特に驚きもせず、腹も立てなかった。
「使わないの?あれって手編みでしょ?」
ひかりはかえでの最初の問いかけを無視して話を続ける。
「まあね」
かえでは歯切れの悪い返事をしながら、複雑な表情を浮かべる。
「使ってあげればいいのに。マフラーが悲しんでるでしょ」
「使えないんだよ。もったいなくて」
それは嘘ではなかった。もしあのマフラーを外に身につけてどこかで失くしたり、汚したりでもしたらと思うと、かえではいよいよ立ち直れなくなりそうな気がしていた。
「ふーん」
ひかりは何か思い出すように天井を見上げ、スーパーの照明を見た。そういえば、スーパーの照明をわざわざ見たことなんてないかもしれない。そう思い、かえでも照明を見てみた。
「今どき珍しいわよ、手編みなんて。作るのものすっごくめんどくさいし、何より気持ちが重いし」
ひかりは、マフラーの製作者を褒めているのか、けなしているのかわからない口調だった。
「俺はうれしいけどね」
もしけなされているのなら、かえでとしても楽しくはない。思わずマフラーの製作者をかばうような言い方になってしまった。
「誰からもらったか聞かないの?」
かえでは勇気を出して恐る恐る聞いてみた。まるでこの質問がひかりの記憶を呼び覚ますきっかけになるのを期待するかのように。
「べつにー。興味あるけどむかつくから聞かない」
ひかりは顔を正面に戻し、かえでを見ないようにさらりと言った。
「素直でよろしいな」
かえではひかりの横顔を見ながら苦笑する。うれしくて苦笑することもあるとは思わなかった。
「ーーあ、シャケでも焼くか」
かちんこちんに凍らされた鮭の切り身を見たひかりが思いついたように呟いた。この鮭も、まさか人間に捕まって解体されたあげくにかちんこちんにされるとは思いもしなかっただろう。人生(この場合は魚生か)、何が起こるかわからないものだ。
それはかえでにも、ひかりにも同じことが言えた。本当に、何が起こるかわからない。まさかかえでも鮭の切り身に親近感を覚えるとは思わなかった。いやはや。
「しぶいな。そういえば、晩ごはんで魚は焼いたことないな」
「いいでしょ?味噌汁は私がつくってあげる。調理実習で作ったし」
「あー、作ったな。そういえば」
あの時はおにぎりも作ったっけ。班の子たちでおにぎりを作ったのだけれど、かえではひかりの握ったおにぎりを何とか食べられないものかとどきどきしたのを覚えている。
結果として、「あんたは私の食べてね」と、ひかりが有無を言わさず自分の握ったおにぎりをかえでに渡してきたのだった。かえでは「なんでだよー」と文句をたれながらも、心の中では「やったぜ!」と内なる天使がとんでもない勢いで喜びの和太鼓を叩いた。
あの頃に帰りたいな、と今でもかえでは思っている。それは単なる懐かしさや郷愁感のようなものではなく、もっと切実な思いだった。
「あんた、いつも味噌汁は作らないの?」
「味噌汁ってわざわざ作るまでもないんだよな」
しかも意外と作る手間がかかるのだ。その割にメインのおかずにならない。かえでの母は当たり前のように作っていたが、一人暮らしをしている今となってかえでは母のささやかなすごさを知ることになった。
「あ、そんなこと言うから、あそこで味噌が泣いてるわよ」
ひかりがみそ・調味料コーナーに並んでいる味噌を指さす。
「ひかりってちょいちょい何かを擬人化するよね」
「日本は八百万の神が、うんたらかんたらだからよ」
「うんたらかんたらだからかぁ」
かえでは目についた味噌を手に取ってみる。値段にばらつきがあるが、かえでにはその違いがわからない。やはり高い方がおいしいのだろうか。
「よし、決めた。今からひかりのあだ名は鳥獣戯画だ」
「あらやだ不本意。決めるのは味噌の種類にしなさいよ。あと、買うなら味噌はだし入りにしてね」
少し悩んだ末、かえでは平均的な値段の合わせ味噌を買うことにした。地元民としては赤味噌を買うべきなのだろうが、赤味噌の独特なしょっぱさがかえではあまり得意ではなかった。
ひかりは味噌のチョイスについて何も言わなかった。そもそも味噌の種類に興味がないのかもしれない。ただ味噌汁を作りたいだけなのだろう。
「あとは朝ごはん用のパンとサラダかな」
かえでは買い物リスト(手書き)を見ながら買い物かごに入っている商品を確認する。
「カットサラダにしよ。あとヨーグルトとカップスープね」
「俺は朝ごはんはバナナと目玉焼きとそれを乗せるお皿があればそれでいい」
「私はそれに加えてヨーグルトとスープがいるのよ。もちろんジャムも、フォークもスプーンもね。あんたは素手で食べなさい」
「鳥獣戯画が好きなのはジャムじゃなくてピーナッツバターでしょ」
「あだ名で呼ぶのはやっ。私の中ではピーナッツバターもジャムの分類なのよ」
「ああ、なんとなく言いたいことはわかる」
昔は小学校の給食にピーナッツバターが出ていたらしいけど、アレルギーの関係でなくなってしまったとのことだ。かえでもひかりも親が買っていなければこいつを好きになることもなかったし、そもそも食べることもなかっただろう。
かえでとひかりは食パンとカットサラダ、そこそこ値の張るピーナッツバターを買い物かごにぶちこむと、行列ができているレジに並ぶ。二人で他愛のない話をしていただけで、あっという間に自分たちの番が来た。
これなら毎日買い物してもいいな、とかえでは両手に食料品が詰まった大きなレジ袋を提げながら、自分が浮かれていることを自覚した。こんな気分になったのは久しぶりのことだった。
しかし、かえでの心の中の天使は沈んだ表情で、「そう浮かれてばかりもいられませんぜ、旦那」と、この先に起こるであろう不穏な流れを案じていた。