内政改革の萌芽
捕虜解放から2週間が経過したが、その影響は王国内に深い傷跡を残していた。
「姫様、また新たな問題が発生しています」
ガレスが深刻な表情で報告に来た。
「ジェームズ軍曹の件ですか?」
「はい。軍曹が新しい建設プロジェクトの監督を拒否しています。『敵に慈悲をかけた王女の命令など聞けない』と」
アリアは予想していた反応だった。捕虜への慈悲は必要だったが、それが新政策への信頼を損なうことも避けられない現実だった。
「他にも、石工ギルドが『捕虜解放のような判断ミスをする王女の技術改革は信用できない』と公言しています」
「捕虜解放が判断ミスでないことは説明したはずですが」
「理屈では理解していても、感情的に受け入れられないのでしょう。ライアン伍長の母親も、『息子を殺した敵への慈悲より、息子のための改革を』と涙ながらに訴えています」
アリアは深いため息をついた。「完璧な決断は存在しない」という現実が、新たな挑戦として立ちはだかっていた。
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その夜、アリアは執務室で一人考え込んでいた。机の上には建設計画書が広げられているが、彼女の心は別のところにあった。
「批判や反発は避けられない。それを前提として、最善策を打たなければ」
戦闘を通じて、アリアは統治者としての新たな覚悟を固めていた。全員を満足させることは不可能だが、それでも前に進まなければならない。
「ルーファス」
執事が静かに現れた。
「明日、建設現場と職人ギルドを視察します。そして、改革方針について重要な発表を行います」
「どのような内容でしょうか?」
「段階的アプローチです。一度に全てを変えようとしたから失敗した。少しずつ、着実に進めます」
アリアの声には、以前にはなかった静かな決意が込められていた。理想と現実のバランスを取ることの重要性を、身をもって学んだのだ。
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翌朝、アリアは建設現場を訪れた。そこで目にしたのは、想像以上に深刻な状況だった。
「姫様、工事が予定より3週間遅れています」
建設責任者のウィリアム・ストーンが、泥まみれの作業服で率直に報告した。
「しかし、それは技術的な問題だけではありません。作業員たちの士気の問題です」
「捕虜解放の件ですか?」
「はい。『敵に甘い王女の命令に従って良いのか』という声が現場で広がっています。特に、息子を戦争で失った職人のロバート・ハンマーフィールドが強く反発しています」
ロバートは50代の熟練石工だった。息子のデイビッドは先の戦闘でガルディア軍の弓矢に倒れていた。
「ロバートさんとお話しできますか?」
「...分かりました。しかし、おそらく厳しい言葉を聞くことになります」
現場の奥で、ロバートは一人で石を削っていた。アリアが近づくと、彼は作業の手を止めた。
「王女様、何の御用でしょうか?」
「貴方の息子さんのことを聞きました。心からお悔やみ申し上げます」
ロバートの目に涙が浮かんだ。しかし、すぐに怒りの色に変わった。
「お悔やみだけでは息子は帰ってきません。そして、息子を殺した敵兵たちが今、温かい食事を食べて故郷に帰っている」
「それは必要な判断でした」
「必要?誰にとって必要だったのですか?王女様の理想のためですか?」
ロバートの言葉は痛烈だった。
「では、お聞きします。息子さんなら、何と言うでしょうか?」
「デイビッドは...」ロバートは言葉に詰まった。「デイビッドは優しい子でした。敵にも情けをかけるような」
「それが答えです。貴方の息子さんの死を無駄にしないためにも、憎しみの連鎖を断ち切らなければなりません」
ロバートは長い間沈黙していた。そして、重い口を開いた。
「...理屈では分かります。しかし、心が追いつかない」
「それで構いません。今すぐ理解していただく必要はありません」
この対話を通じて、アリアは改めて現実の重さを感じていた。
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午後、アリアは緊急予算会議を開催した。財務官のアーサー・ペニントンの表情は、これまでで最も深刻だった。
「姫様、建設費用が当初予算の3倍に膨らんでいます」
「3倍?」
「はい。まず、特殊な石材の調達費用。遠方から取り寄せる運送費だけで800金貨。さらに、職人の特別訓練費用、失敗による材料の損失。この3週間だけで石材の破損157個、木材の切り損じ89本。総額432金貨の損失です」
一般農民の年収の10倍以上という数字に、アリアは愕然とした。
「しかし、最も深刻なのは別の問題です」
ペニントンが声を潜めた。
「捕虜解放への批判が、改革予算への反対に発展しています。『敵に慈悲をかける王女の浪費』という声が貴族院で高まっている」
「具体的には?」
「オズボーン公爵とランカスター伯爵が連携して、改革予算の削減を提案しています。『国民の血税を無駄遣いするな』と」
アリアは深いため息をついた。捕虜問題の余波が、予想以上に広範囲に影響していた。
「しかし、改革を止めるわけにはいきません。方法を変えます」
「方法を?」
「一度に全てを変えようとしたから問題が起きた。段階的に、職人たちと協力しながら進めます」
完璧な解決策など存在しない。しかし、それでも最善を尽くすしかない。
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王都郊外のガラス工房を訪れたアリアは、予想以上に深刻な状況を目の当たりにした。
「姫様、もう限界です」
ガラス職人の親方、マスター・ハンフリーが煤で汚れた顔で訴えた。彼の手には包帯が巻かれ、工房の奥には爆発で焦げた炉の残骸が見える。
「昨日の爆発で職人3名が火傷を負いました。その中には、息子を戦争で失ったばかりのトーマス・グラスマンもいます」
アリアの心に重いものが落ちた。
「トーマスは『王女様のために頑張る』と言って新製法に挑戦していたのに、結果は火傷です。彼は今、『捕虜への慈悲はあっても、国民への慈悲はないのか』と嘆いています」
「費用対効果はどうですか?」
「2週間で12枚のガラス板を製造、使用可能は3枚のみ。材料費84金貨、人件費156金貨、設備修理費93金貨の計333金貨。従来法なら同じ費用で80枚製造できます」
効率は10分の1以下という惨憺たる結果だった。
「しかし、最も深刻なのは職人たちの心です」
ハンフリーが続けた。
「『王女様は敵兵の命は大切にするが、我々の命は軽視するのか』という声が広がっています。これは技術の問題ではなく、信頼の問題です」
アリアは捕虜解放の判断が、予想以上に複雑な影響を与えていることを痛感した。
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夕刻、アリアは職人ギルドの緊急集会に出席した。会場には石工、木工、ガラス職人ら100名以上が集まっている。空気は緊張に満ちていた。
「皆さん、まずお詫びします」
アリアが立ち上がると、会場がざわめいた。
「私の改革により、多くの方が負傷し、生活に困窮させてしまいました」
石工ギルドの代表、マスター・ロックフェローが立ち上がった。
「王女様、お詫びだけでは済みません。我々は代々受け継がれた技術に誇りを持っています。それを否定されたも同然です」
「技術を否定するつもりはありません」
「しかし、結果はどうでしょう?新技術による事故で12名が負傷。若い職人35名が離職。従来の注文は半減しました」
会場から憤りの声が上がった。
「王女様は敵兵には慈悲をかけますが、我々には厳しい現実を押し付けるのですか?」
ガラス職人のトーマス・グラスマンが包帯を巻いた手を挙げた。彼は息子を戦争で失った上に、工房の爆発で火傷を負っていた。
「私の息子は戦死しました。その敵兵たちは元気に帰国しました。そして今度は私が王女様の改革で負傷しました。一体誰のための政治なのでしょうか?」
会場が静まり返った。
アリアは深呼吸した。完璧な答えはない。しかし、向き合うしかない。
「トーマスさん、貴方の痛みは理解しています。息子さんの死、そして貴方の負傷。私の判断によるものです」
「では、どう責任を取られるのですか?」
「まず、改革の方法を根本的に変更します。皆さんの技術を否定するのではなく、それを基盤として段階的に改善していきます」
「具体的には?」
「新技術の全面導入を中止します。代わりに、従来技術の部分的改善に集中します。皆さんが理解し、安全に実行できる範囲での変更のみ行います」
会場がざわめいた。これは実質的な改革の大幅な後退を意味していた。
「それでは、改革の意味がないのではないですか?」
若い石工が質問した。
「小さな進歩でも、進歩です。一歩ずつでも前に進むことが重要だと学びました」
この答えには、アリアの深い経験が込められていた。
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一方、ガルディア帝国内では、アリアの政策が予想外の波紋を広げていた。
首都ガルディアの軍本部では、セルゲイ・モロゾフ大尉が上層部に報告していた。
「諸君、アーテミス王国の脅威は我々の予想を上回っています」
セルゲイの左腕の傷跡が、照明の下で生々しく見えた。
「王女の『慈悲』は巧妙な戦術です。我が軍の兵士を心理的に操作し、戦意を削ごうとしている」
「具体的にはどのような影響が?」
参謀長のヴォルコフ将軍が尋ねた。
「釈放された兵士の一部が、不穏な発言をしています。『アーテミス王国は思っていたより複雑だ』『敵とは言えない』などと」
セルゲイの報告を聞いていた兵士たちの中に、ミハイル・ペトロフがいた。彼は複雑な表情を浮かべていた。
会議後、ミハイルはセルゲイに呼び止められた。
「ペトロフ、お前もアーテミス王国で何かを感じたのではないか?」
「はい、大尉。しかし...」
「しかし、何だ?」
「あの医療兵の目を思い出すのです。本当に心配してくれていました。戦術だったとしても、あの優しさは本物でした」
セルゲイの表情が険しくなった。
「それこそが敵の罠だ。人間の心の弱さにつけ込む、最も卑劣な戦術だ」
「でも、大尉...もし我々が間違っていたとしたら?」
「間違っている?」セルゲイの声が荒くなった。「私はエルドラン公国で地獄を見た。敵の慈悲がどれほど恐ろしいものか身をもって知っている」
「それは15年前の話です。時代は変わったのではないでしょうか?」
この言葉に、セルゲイは激怒した。
「時代は変わらない!戦争は戦争だ!」
ミハイルは黙り込んだ。しかし、心の中では疑問が膨らんでいた。
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深夜、アリアは財務会議を開いていた。改革の方向転換には、厳しい経済的現実が伴う。
「姫様、段階的アプローチでも課題は残ります」
ペニントン財務官が分厚い帳簿を開いた。
「改革費用が税収の40%を占めています。軍事費と通常の行政費用を圧迫している状況は変わりません」
「軍事費の削減は?」
「危険です。セルゲイ大尉の報告によると、ガルディア帝国内でアーテミス脅威論が台頭しています。軍事費削減は安全保障上のリスクとなります」
アリアは深いため息をついた。捕虜解放の判断が、ここでも影響している。
「では、改革予算を半分に削減します」
「それでは多くのプロジェクトが中止に」
「優先順位をつけます。最も効果的で、職人の安全を確保できるプロジェクトのみ継続します」
この決断は、VRと戦闘の学びに基づいていた。完璧な解決策はない。制約の中で最善を尽くすしかない。
「それでも、国民の不満は残るでしょう」
「承知しています。しかし、トーマス・グラスマンさんのような犠牲者を増やすわけにはいきません」
アリアの言葉には、統治者としての重い責任感が込められていた。
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改革方針の転換を受けて、アリアは農村を訪問した。温室プロジェクトの失敗を直接謝罪するためだった。
「王女様、申し訳ございません」
農民のトーマス・ウィートフィールドが土下座をしようとした。
「いえ、謝るのは私の方です」
アリアは農民を立ち上がらせた。
「不十分な技術で皆さんに損失をかけました。温室プロジェクトは私の判断ミスでした」
「しかし、王女様の気持ちは理解しております」
農民の妻、メアリーが口を開いた。
「ただ、正直に申し上げれば、村人の中には不満もございます。『捕虜には優しく、農民には厳しい』という声も」
アリアは予想していた反応だった。
「それは正当な不満です。私は皆さんの立場を軽視していました」
「新しい提案があります」アリアが続けた。「温室技術は一度中止し、代わりに従来農法の改善に集中します。土壌改良剤の開発、種子の品種改良、灌漑システムの部分的改善。大きな変化ではなく、小さな改善の積み重ねです」
農民たちの表情に希望の光が戻った。彼らが理解できる範囲での改善なら、協力も得やすい。
「ただし、一つお約束ください」アリアが真剣な表情で言った。「今後も率直な意見をお聞かせください。国民の声を聞けない統治者は、統治者とは言えません」
この言葉に、農民たちは感動した。王族がここまで低姿勢で接することなど、前代未聞だった。
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1ヶ月後、アリアは改めて現状を評価していた。執務室には、改善された報告書が並んでいる。
「進歩は遅いですが、着実になってきました」
ガレスが報告書を読み上げた。
「石工技術の部分改善により、建設効率が15%向上。ガラス製造は従来法に新要素を加えることで、品質が向上し事故も激減。農業では土壌改良により、収穫量が8%増加しました」
数字は地味だった。しかし、これが現実的な進歩だった。
「何より重要なのは」ガレスが続けた。「職人と農民の信頼が回復していることです。トーマス・グラスマンさんも、『王女様は我々の声を聞いてくれる』と評価を変えています」
「無駄ではありませんでした」アリアは微笑んだ。「しかし、人々の心との調和が不可欠だということを学びました」
「姫様は大きく成長されましたね」
「捕虜解放の経験が大きかったです。『完璧な決断は存在しない』『全員を満足させることはできない』。それでも、できるだけ多くの人々が納得できる道を探し続けることが、統治者の役割なのだと理解しました」
アリアの言葉には、深い経験に裏打ちされた重みがあった。
「理想と現実のバランス、技術的可能性と人間的制約、経済的効率と社会的安定。すべてを考慮しながら決断することの困難さを身をもって知りました」
「それでも、諦めてはいけないのですね」
「ええ。小さな改善でも積み重ねれば、やがて大きな変化になります。異国には『急がば回れ』、という言葉もあります」
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改革のペース減速は一定の安定をもたらしたが、新たな問題の芽も生んでいた。
王都の商業地区では、急進的な改革を期待していた若い商人たちから不満の声が上がっていた。
「王女は保守派に屈した」「これでは変化の速度が遅すぎる」
一方で、保守派からは「改革の失敗を証明した」として、更なる改革停止を求める声が強まっていた。
オズボーン公爵とランカスター伯爵の連携は強化され、貴族院での影響力を拡大していた。
最も深刻だったのは、経済格差の拡大だった。改革の恩恵を受けた一部の商人と技術者に対し、損失を被った職人や農民の間で不満が蓄積していた。
「王女様の改革で儲けた商人がいる一方で、我々は損失ばかりだ」
失業した職人たちの不満は、日に日に高まっていた。
そして、ガルディア帝国内では、セルゲイの「アーテミス脅威論」が軍部内で支持を集めていた。一方で、ミハイルのような疑問を抱く兵士も静かに増加していた。
この内外の緊張こそが、後に貴族たちの本格的な策動と、外敵の軍事行動を招く温床となることを、アリアはまだ知らなかった。
現実的な改革の困難さは解決できたが、政治的対立という新たな挑戦が始まろうとしていた。統治者アリアの真の試練は、これからだった。
一方、医療テントで回復したミハイルは、故郷の酒場で仲間に語っていた。
「アーテミス王国の衛生兵が言った言葉を忘れられない。『早く故郷に帰れるといいですね』って。あの目は嘘をついていなかった」
「それは戦術だろう?」
「そうかもしれない。でも、本物の優しさがあった。俺たちが知らされているアーテミス王国とは、明らかに違う何かがある」
この小さな疑問が、やがて大きな変化の種となることを、この時は誰も知らなかった。
アリアの慈悲の統治と現実的な改革は、思わぬ方向へと歴史を動かし始めていた。