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慈悲の統治


 戦闘から三日が経過した。アーテミス王国の臨時収容所には、ガルディア帝国の兵士427名が収容されている。


「姫様、捕虜たちの様子はいかがですか?」


 ガレスが収容所の報告書を手に尋ねた。


「思った以上に複雑ね」アリアは窓から収容所を見下ろしながら答えた。「一枚岩ではない」


 収容所では、明確に三つのグループが形成されていた。医療テントの近くで看護兵と談笑しているのは若い兵士たち約100名。彼らは捕虜としての待遇に驚き、アーテミス軍への警戒心を解いていた。


 一方、収容所の奥では古参兵約200名が沈黙を守っている。彼らの目には敵への不信が色濃く残っていた。


 そして最も警戒すべきは、セルゲイ・モロゾフ大尉が率いる127名の強硬派だった。


---


「諸君、これは罠だ」


 収容所の一角で、セルゲイが仲間たちに向かって低い声で語りかけていた。彼の左腕には古い傷跡があり、時折無意識にそこを撫でる癖がある。


「王女の慈悲?笑わせるな。我々を洗脳して、帝国の軍事機密を吐かせるつもりだ」


「しかし大尉、医療はしっかりしているし、食事も悪くない」


 若い兵士の言葉に、セルゲイは鋭い視線を向けた。


「それが罠だと言っている。15年前、私はエルドラン公国の捕虜になった。最初の3日間は天国のような待遇だった。温かい食事、清潔な寝床、丁寧な医療。そして4日目から地獄が始まった」


 セルゲイの声に、深い憎悪が込められていた。


「拷問、尋問、心理的な圧迫。仲間の多くは精神を病んだ。私がこの傷を負ったのもその時だ」


 左腕の傷跡を示しながら、セルゲイは続けた。


「人間の心は弱い。少しの親切の後に与えられる絶望は、通常の拷問より効果的だ。これは戦術だ」


 セルゲイの部下たちは息を呑んだ。彼らの尊敬する上官のそんな過去を知らなかった。


「本当に釈放してくれるのでしょうか?」


「信じるな。敵の慈悲ほど恐ろしいものはない。我々はガルディア帝国の兵士だ。最後まで警戒を解くな」


---


 アーテミス軍内部でも、アリアの方針に対する批判の声が上がっていた。


「姫様、兵士たちから不満の声が出ています」


 副隊長のマーカス・レイノルズが困惑した表情で報告した。


「どのような不満ですか?」


「『敵への慈悲は味方への裏切りだ』と。特に負傷した兵士たちから厳しい意見が出ています」


 アリアは予想していた反応だった。戦場で仲間を失った兵士たちにとって、敵への寛大な処遇は理解し難いものだろう。


「具体的には?」


「ジェームズ軍曹が『俺たちが血を流している間に、敵は温かい食事を食べている』と言っています。彼は先の戦闘でライアン・ブラウン伍長を失いました。ライアンは軍曹の故郷の幼馴染みで、戦場で軍曹の腕の中で息を引き取ったのです」


 マーカスの声に重みがあった。


「軍曹は『ライアンの血を流した敵兵が、今は俺たちより良い食事をしている。これが正義か』と涙を流していました。他の兵士たちも同調しています」


「分かりました。今夜、兵士たちと直接話し合いましょう」


---


 王都近郊の村でも、事態は単純ではなかった。


「本当に大丈夫なのでしょうか?」


 村長のトーマス・ハートウェルが不安そうに呟いた。村人たちが集まった広場で、アリアの方針について議論が交わされている。


「400人以上の敵兵を釈放するなんて」


「また攻めてくるかもしれない」


「王女様を信じましょう」と言ったのは、エリザベス・モリスだった。彼女の息子ウィリアムは先の戦闘で重傷を負ったが、王女の指示により最優先で治療を受け、命を救われていた。


「あの日、ウィリアムは腹部に深い傷を負い、血だまりの中で倒れていました。普通なら助からなかったでしょう。でも王女様は『一人の命も無駄にしない』と仰って、軍医を総動員して息子を救ってくださったのです」


 エリザベスの目には涙が浮かんでいた。


「今、息子は農場で元気に働いています。王女様のお陰です」


 しかし、多くの村人は懐疑的だった。


「戦争が終わったわけではない。敵を釈放するなど正気の沙汰ではない」


「王女様は若すぎる。戦争の恐ろしさを知らないのだ」


 鍛冶屋のハロルド・アイアンワースが立ち上がった。


「俺の兄は10年前の戦争でガルディア軍に殺された。敵に慈悲など無用だ」


 村人たちの分裂は深刻だった。王室への忠誠心と、現実的な不安が対立していた。


---


 その夜、アリアは執務室で一人考え込んでいた。VRでの戦略知識では、捕虜の処遇について明確な指針があった。しかし、現実はより複雑だった。


「本当にこれで良いのでしょうか?」


 ルーファスが茶を運んできた時、アリアが呟いた。


「何がでございますか?」


「捕虜の釈放です。兵士たちは不満を抱き、村人たちは不安を感じている。そして捕虜の中にも、私を信用しない者がいる」


「当然のことでございます」ルーファスは静かに答えた。「人の心は簡単には変わりません。特に戦争においては」


「では、なぜ私はこの方針を続けるのでしょう?」


「姫様ご自身がお答えになるべき問いかと」


---


 翌日、アリアは収容所を直接訪問することにした。


「セルゲイ大尉とお話ししたいのですが」


 アリアの申し出に、セルゲイは冷たい視線を向けた。


「王女殿下、何の用でしょうか?」


「貴方の不安を理解したいのです」


「不安?」セルゲイは嘲笑った。「我々は捕虜です。敵の慈悲など信用できません」


「では、どうすれば信用していただけますか?」


 この質問に、セルゲイは一瞬言葉を失った。


「...何を企んでいるのですか?」


「何も企んでいません。ただ、無駄な犠牲を避けたいだけです」


「嘘だ。戦争に慈悲などない。貴女も戦場に立ったことがないのでしょう?血の匂いを知らないのでしょう?」


 セルゲイの声に激情が込められた。


「私は15年間戦場を歩いてきた。仲間の死を数え切れないほど見てきた。敵兵を殺し、殺されそうになった。その中で学んだのは、敵の慈悲ほど恐ろしいものはないということだ」


「しかし、貴方は今生きている。私たちの『慈悲』の中で」


 アリアの言葉に、セルゲイは動揺を見せた。


「それが罠だと言っている!」


「では、お聞きします。もし私が貴方の立場だったら、どうするべきでしょうか?捕虜を処刑すれば、貴方は満足ですか?」


 セルゲイは答えに窮した。処刑を望んでいるわけではない。しかし、慈悲も信じられない。


「...分からない。だが、敵を信用することだけはできない」


「なぜですか?」


「エルドラン公国での経験があるからです。人は簡単に裏切る。特に戦時においては」


 セルゲイの表情に、深い傷が見えた。


「それでも、私は諦めません。貴方たちを信頼できる理由を見つけるまで」


「無駄なことを」


 しかし、セルゲイの声には最初ほどの敵意がなくなっていた。


---


 その夜、アリアは自軍の兵士たちと直接向き合った。


「皆さんの不満は理解しています」


 食堂に集まった兵士たちに、アリアは率直に語りかけた。


「仲間を失った皆さんにとって、敵への慈悲は理解し難いものでしょう」


 ジェームズ軍曹が立ち上がった。彼の目は充血し、疲労と悲しみが刻まれていた。


「姫様、では何故そのような方針を?ライアンが死んだ時、敵兵は『ガルディアに栄光を』と叫んでいました。仲間を殺した敵が今、暖かい食事を食べている。これが正義でしょうか?」


「ジェームズ軍曹、ライアン伍長の死は無駄ではありません」


 アリアは軍曹の目を見つめた。


「しかし、復讐は新たな復讐を生むだけです。では、お聞きします。捕虜を処刑すれば、ライアン伍長は生き返りますか?」


 軍曹は言葉に詰まった。


「生き返りません。しかし、せめて敵には報いを」


「その報いが、明日のライアン伍長を生む可能性は考えませんか?」


 別の兵士が立ち上がった。


「姫様の真意は分かります。しかし、我々は戦場で血を流している。理想論だけでは兵士は納得できません」


「確かに。だからこそ、現実的な利益も説明します」


 アリアは戦術的思考を示した。


「捕虜を丁重に扱えば、敵兵の士気は下がります。『アーテミス軍に捕まっても殺されない』と知れば、彼らは最後まで抵抗しないでしょう。結果として、我が軍の損失は減る」


 兵士たちの表情が変わった。復讐ではなく、戦術的利益という観点なら理解できる。


「それに、情報収集の面でも有効です。恐怖で口を閉ざした捕虜からは何も得られませんが、安心した捕虜は無意識に多くを語ります」


 ジェームズ軍曹が重い口を開いた。


「姫様の戦略は理解しました。しかし、感情的には受け入れ難い。それが正直な気持ちです」


「それで構いません。完全な理解を求めてはいません。ただ、信頼してください」


「...分かりました。ライアンのためにも、戦争を早く終わらせることが大切ですね」


 軍曹の言葉に、多くの兵士が頷いた。理解はできるが、感情的には受け入れ難い。それが兵士たちの素直な気持ちだった。


---


 一週間後、釈放の日が来た。しかし、結果は予想以上に複雑だった。


 若い兵士約80名は、明らかにアルテミス軍への印象を変えていた。


「王女様、ありがとうございました」


 彼らの中の何名かは、涙を流しながら感謝を表明した。しかし、これは全体の5分の1に過ぎなかった。


 古参兵の多くは沈黙を保ったまま帰国の途についた。彼らの心境は読み取れなかった。


 そしてセルゲイのグループは、最後まで警戒を解かなかった。


「これが罠でないことを祈る」


 セルゲイの最後の言葉は、不信に満ちていた。


---


 一ヶ月後、様々な情報がアーテミス王国に届いた。


 釈放された兵士の家族からは感謝の手紙が数十通届いた。しかし、ガルディア帝国の世論は分裂していた。


 「アルテミス王国の戦術だ」という声と、「王女の人格を認めるべきだ」という声が対立していた。


 軍部内では、セルゲイが「敵の洗脳工作」として警告を発していた。一方で、若い兵士たちの一部は「アーテミス王国は我々が思っていたより複雑だ」と報告していた。


---


「完全な成功ではありませんでしたね」


 ガレスが率直に評価した。


「ええ。でも、それが現実よ」


 アリアは受け入れていた。


「5分の1の心を動かせただけでも意味があります。人の心は、そう簡単には変わらない」


「では、失敗でしたか?」


「いえ。多くのことを学びました。慈悲は万能ではない。しかし、無意味でもない。そして何より、統治者として最も重要なことを理解しました」


「それは?」


「完璧な決断など存在しない、ということです。ジェームズ軍曹の悲しみは理解できる。セルゲイ大尉の不信も当然です。エリザベスさんの感謝も、ハロルドさんの怒りも、すべてが人間的で正当な感情です」


 窓の外では、自軍の兵士たちが訓練に励んでいる。彼らの中にも、アリアの方針に完全に納得していない者がいるのは明らかだった。


 しかし、それでも彼らは命令に従い、職務を果たしている。


「統治とは、全員を満足させることではないのですね」


「そうです。異なる立場の人々が共存できる最善の方法を見つけることです。時には、理解されなくても正しいと信じる道を歩まなければならない」


 アリアは、VRでは学べなかった現実の複雑さを理解し始めていた。ゲームには明確な正解があった。しかし現実には、複数の正しさが対立し、完璧な解決策など存在しない。


「私は多くのことを学びました。セルゲイ大尉の過去、ジェームズ軍曹の痛み、村人たちの恐怖。それらすべてが真実で、すべてに向き合わなければならない」


「それは重い責任ですね」


「ええ。でも、それこそが統治者の役割なのだと思います」


---


 三ヶ月後、ガルディア帝国内でアリアを支持する小さな組織が形成されたという報告が届いた。しかし同時に、「アーテミス王国の洗脳に注意せよ」という過激派の活動も活発化していた。


 セルゲイは帝国軍内で「アーテミス脅威論」の急先鋒となり、より強硬な軍事行動を主張していた。


「王女の慈悲は計算された戦術だ。我々は騙されてはならない」


 一方で、釈放された若い兵士の一人、ミハイル・ペトロフは故郷で奇妙な行動を取っていた。


「アーテミス王国は、俺たちが聞かされていた話とは違う」


「どう違うんだ?」


「分からない。でも、確実に違う」


 ミハイルは言葉にできない複雑な感情を抱いていた。敵だったはずの国で見た、説明のつかない人間性。


 アリアの慈悲の統治は、予想以上に複雑な波紋を広げていた。それは純粋な成功でも、明確な失敗でもなかった。現実の政治が持つ、グレーゾーンの中での小さな前進だった。


 そして、この複雑さこそが、アリアが次に直面する内政改革の困難を予告していた。


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