傾国の王女と謎のアーティファクト
雨が石畳を叩く音が、アーテミス王国の居城に響いている。
王女アリア・フォン・アーテミスは、執務室の窓辺に立ち、庭園を眺めていた。雨粒が頬を伝い、冷たい感触が病的に青白い肌に染み込んでいく。開け放たれた窓から吹き込む風は、初夏だというのに肌寒く、彼女の細い肩を震わせた。
かつてこの庭園は、大陸一の美しさを誇っていた。色とりどりの花々が咲き誇り、噴水の清らかな水音が響き、貴公子たちの談笑が絶えることはなかった。今では雑草が石畳の隙間から顔を出し、噴水は涸れ果て、手入れされていない樹木が無秩序に枝を伸ばしている。それでも、新緑の生命力だけは変わらず息づいており、雨に洗われた葉の緑が目に鮮やかだった。陽光が雲間から差し込む時、その温もりが彼女の頬を優しく撫でていく。
「姫君、また窓を開けて……風邪をひかれますよ」
背後から響いた声に、アリアは振り返る。そこには初老の執事、ルーファスが心配そうな表情で立っていた。白髪の目立つ男だが、その眼光には鋭さが残っている。かつて王国最強の騎士団に所属していたという噂もあるが、本人は決して語ろうとしない。
「姫君……。この国を再び救う日が来ると、私は信じております」
ルーファスの瞳には、何か深い決意のようなものが宿っていた。まるで、遠い昔に戦場を駆けていた頃の記憶を呼び起こしているかのように。
「大丈夫よ、ルーファス。少しくらいの風では死にはしない」
アリアは苦笑いを浮かべながら窓を閉めた。ガラスに映る自分の姿を見つめる。十七歳の彼女は、確かに美しい顔立ちをしていた。しかし、病気がちな体質のせいで頬はこけ、目の下には隈ができている。細すぎる腕、頼りない足取り。とても一国の王女には見えない。
「姫君……」
ルーファスの声に込められた憂いを、アリアは痛いほど理解していた。
アーテミス王国は、もはや滅びの淵に立っていた。
五年前、アリアの父である先王が暗殺されて以降、この国は急速に力を失っていった。かつては周辺五カ国を従えた盟主国だったが、今では逆に圧迫を受ける立場に転落している。
食料は不足し、民は飢えている。軍事力も往時の十分の一にまで減少し、わずか五千の兵しか残っていない。彼らとて、まともな装備を与えられているとは言い難い。錆びついた剣、穴の開いた鎧、使い古された槍。魔法兵器と呼ばれる大筒も数える程しか残っていない。
隣国のガルディア帝国は、明らかにアーテミス王国を併合する機会を窺っている。北のノルドラン王国も、南のヴェルデ公国も、もはやアーテミスを対等の相手とは見なしていない。
そして何より辛いのは、自国の貴族たちでさえアリアを見放し始めていることだった。
「姫君は、お美しくていらっしゃいます。しかし……」
昨日聞こえてきた侍女たちの会話が、アリアの胸に突き刺さる。
「病弱で、政治のことも軍事のことも何も分からない。こんな方に国を任せるなんて……」
「ガルディア帝国に降伏した方が、民のためかもしれませんね」
アリアは拳を握りしめた。細い指が震えている。
彼女だって、何もしたくないわけではない。国を救いたい、民を守りたいという気持ちは人一倍強い。しかし、病弱な体では戦場に立つことも叶わず、政治の知識も軍事の心得もない。できることといえば、ただ窓辺に立って雨に打たれることくらいだった。
「姫君」
ルーファスが静かに口を開く。
「一つ、お見せしたいものがございます」
「何?」
「古い遺跡から発見されたものです。学者たちは『アーティファクト』と呼んでおりますが……正体は不明です」
ルーファスは慎重に木箱を取り出した。中には、見慣れない形状の物体が二つ収められている。一つは頭に被るような形をしており、もう一つは両手で握るような棒状のものが二本組になっている。
黒い金属でできているようだが、表面には細かな模様が刻まれており、微かに青い光を放っている。触れてみると、ひんやりとした感触が指先に伝わってきた。
「これは……何?」
「分かりません。しかし、魔力に反応するようです。姫君のような高い魔力をお持ちの方が触れると、何らかの反応を示すのではないかと」
アリアは興味深げにアーティファクトを見つめた。確かに、近づけるだけで微かな振動を感じる。まるで生きているかのようだった。
「危険ではないの?」
「調べた限りでは、害のあるものではないようです。ただ……」
ルーファスは言いよどんだ。
「何か使用方法があるのではないかと思うのですが、それが分からないのです」
アリアは頭部に装着するタイプのアーティファクトを手に取った。見た目は兜のようでもあり、仮面のようでもある。装着部分には柔らかな素材が使われており、頭の形にぴったりと合うように設計されているようだった。
「今夜、一人で試してみるわ」
「姫君、それは危険です」
「大丈夫。これ以上悪くなることなんて、もうないでしょう?」
アリアの声には、自嘲の響きが込められていた。
その夜、アリアは一人で寝室にいた。
雨は止んでいたが、雲に覆われた空からは月明かりも差し込まない。ろうそくの明かりだけが、部屋を薄暗く照らしている。
アリアは恐る恐るアーティファクトを装着した。頭部の装置を被った瞬間、微かな電流が額を走り、温かな光が視界を包み込む。体が浮かぶような錯覚と共に、意識がどこか遠い場所へと引きずり込まれていく感覚に襲われた。両手に持った棒状の物体からも、同じような温もりが伝わってくる。
装置から伝わってくる振動が次第に強くなり、やがて——
突然、世界が変わった。
アリアは草原の真ん中に立っていた。
風が頬を撫でていく。しかし、それは先ほどまで感じていた雨上がりの湿った風ではない。乾いた、砂埃の混じった風だった。遠くで何かが燃えているのか、煙の匂いが鼻を突く。
「何……これ……」
アリアは自分の体を見下ろした。いつの間にか、見慣れない服装に変わっている。緑と茶色の迷彩模様の服、重いブーツ、そして頭には鉄の兜。背中には重い荷物を背負わされており、右手には見たことのない形状の武器を握っていた。
それは剣でも槍でもない。黒い金属でできた、筒状の物体だった。引き金のような部分があり、銃身の先端には小さな穴が開いている。魔法兵器の一種だろうか。
しかし、考えている暇はなかった。
遠くから、爆発音が響いてくる。地面が震え、空気が振動する。アリアの体は恐怖で強張った。
「二等兵ユーザー001!何をぼさっとしている!」
突然、怒鳴り声が響いた。振り返ると、厳しい顔つきの男性がこちらを睨んでいる。彼もまた、アリアと同じような装備をしているが、胸の階級章が異なっている。
「敵襲だ!持ち場に就け!」
敵襲? アリアは混乱した。ここはどこなのか、なぜ自分がこんな場所にいるのか、全く理解できない。
しかし、状況は彼女の理解を待ってくれなかった。
草原の向こうから、黒い煙を上げながら巨大な鉄の塊がこちらに向かってくる。戦車——というものだと、なぜか彼女には分かった。そして、その周りには武装した兵士たちが走ってくる。
「撃て!撃て!」
周りの兵士たちが一斉に武器を構えた。アリアも反射的に自分の武器を構える。しかし、どうやって使うのか分からない。
その時、頭の中に声が響いた。
『ミッション:防衛戦闘。制限時間30分。生存し、敵を撃退せよ』
ミッション? アリアは困惑したが、目の前の現実に集中せざるを得なかった。
敵の兵士が射撃を開始した。何かが空気を切り裂く音がして、アリアの頬のすぐ横を通り過ぎていく。熱い感触が肌をかすめ、痛みが走る。
銃弾——それが何なのか、なぜか理解できた。
アリアは慌てて身を伏せた。草の匂いが鼻に入り、土の感触が手のひらに伝わってくる。心臓が激しく鼓動し、呼吸が荒くなる。
これは現実なのか? それとも夢なのか?
しかし、頬をかすめた銃弾の痛みは確かに現実のものだった。風の冷たさ、地面の硬さ、火薬の匂い、すべてが鮮明に感じられる。
恐怖で体が震える。しかし、不思議なことに、武器の扱い方は自然と理解できた。安全装置を外し、照準を合わせ、引き金を引く。
初めて引き金を引いた瞬間、重い衝撃が肩に伝わり、銃声が耳を劈く。そして、照準の先にいた敵兵が倒れるのを目にした時、アリアは強烈な吐き気を覚えた。これが戦争なのだと、生々しい現実が彼女の心に突き刺さる。
しかし、戦場は彼女の動揺を待ってはくれない。次の敵がすぐそこまで迫ってきている。
病弱で何もできない王女ではなく、一人の兵士として。
三十分後、ミッションは終了した。
アリアは荒い息を吐きながら、草原に座り込んでいた。全身が汗まみれで、手は震えている。それでも、なんとか生き延びることができた。
『ミッション完了。評価:C。昇進:一等兵。ボーナス:軍事物資一箱』
頭の中に響いた声と同時に、アリアの前に青白い光を放つ木箱が出現した。蓋を開けると、まるで異世界から届いた宝箱のように、見慣れない物資が美しく整列している。乾燥食料、医療品、そして精巧な作りの小型武器がいくつか。それぞれが仄かな光を纏い、明らかに只者ではない代物だった。
そして次の瞬間、世界が再び変わった。
アリアは自分の寝室にいた。
アーティファクトを外すと、ろうそくの明かりが目に入る。雨上がりの湿った空気、石造りの壁、馴染みのある寝具。すべてが元通りだった。
しかし、アリアの体には明らかな変化があった。
呼吸が楽になっている。いつも感じていた倦怠感が薄れ、手に力が入る。そして何より、頭の中に新しい知識が鮮明に流れ込んでいた。
『分隊支援火器』『制圧射撃』『戦術的撤退』『包囲殲滅』——聞いたこともない軍事用語が、まるで長年学んできたかのように明瞭に理解できる。戦術、武器の扱い方、兵士の統率法。それらの知識が心地よく頭の中で整理されていくのが分かった。
アリアは震える手で窓を開けた。
夜明けが近づいており、東の空が薄っすらと明るくなっている。朝の風が頬を撫で、鳥たちのさえずりが聞こえてくる。雨上がりの清々しい空気が肺に入り込み、アリアは深く息を吸った。
今まで感じたことのない充実感が、胸の奥から湧き上がってくる。
これが……力というものなのか。
アリアは拳を握りしめた。細いと思っていた指に、確かな力が宿っている。
そして、城の中庭を見下ろすと、驚くべき光景が目に飛び込んできた。
昨夜まで錆びついていた兵士たちの武器が、まるで新品のように輝いている。よれよれだった軍服も、きちんと手入れされた状態になっている。そして何より、兵士たちの動きが機敏になっていた。
まるで一夜にして、アーテミス王国の軍隊が生まれ変わったかのようだった。
アリアは確信した。
このアーティファクトこそが、自分を、そして国を救う鍵なのだと。
病弱で何もできない王女の時代は、今夜で終わったのだ。
朝日が雲間から差し込み、アリアの頬を温かく照らした。その光の中で、彼女の瞳は新たな決意に燃えていた。
「もう、私がただ守られるだけの姫である時代は終わった——今度は私が、この国を守る番よ」
アリアの声には、これまでにない力強さが宿っていた。
これから始まる戦いに向けて。
国を救うために。
そして、「救国の姫騎士」への第一歩として——。
アーテミス王国の反撃は、この瞬間から始まったのである。