初めましてからの結婚生活は順調です!
たまにはいちゃいちゃしたものが書きたくなって。
いつものように、誤字報告職人さんの朝は早く、昼も現れ、夜遅くにも存在する。
24時間365日ありがとうございます。
2024/9/18 [日間] 異世界〔恋愛〕ランキング - 短編で3位!
ありがとうございます!
シャーロットの向かいに座るのは、明日結婚する初対面の男性だった。
事の発端は物語のような駆け落ちの、その後始末からだ。
高貴な家のご令息と、これまた高貴な家のご令嬢が婚約し、そして結婚する。
どこにでも、それこそ掃いて捨てる程にある話だ。
ご令息側の高貴な家は、フィッツロイ公爵家。
ご令嬢側の高貴な家は、キャヴェンサー侯爵家。
どちらも長い歴史と権力を持つ家門で、政治的な何某の関係で王命とまでされた、まさに鳴り物入りの婚姻だったのだ。
そのはずだったというのに、結婚式を控えた一週間前に、高貴なる彼らは別々の相手と出奔。
俗に言う駆け落ちである。
貴族としての責任を放棄して自由になった若人が失踪した後に残されたのは、何としてでも王命を遂行しようとする追い詰められた双方の家族。
彼らがしたことは名家としての体面を保つこと。そして王命に背かぬこと。
それぞれの家の親戚筋から問題無い範囲の血縁関係で、未婚の男女を説得して養子縁組にまで漕ぎつけようとしたのだ。
緊張を通り越して悲壮感漂う両家の当主が同席する中、当の本人達は実にのほほんとしていた。
「初めまして。昨日、フィッツロイ公爵家の三男になったばかり、アンセルといいます」
「初めまして。こちらも半刻前に侯爵家の末っ子になりました、シャーロットと申します」
これは負けましたね、と笑うアンセルに対して、一体何に勝ち負けを求めているのだと突っ込みたくなる衝動を堪えながら、当主達は貴族らしい笑みを貼り付けている。
初対面での印象は悪く無さそうな二人の空気に水を差したくはない。
王命は絶対厳守。なんとしてでもフィッツロイ公爵家とキャヴェンサー侯爵家は縁付かないといけないのだ。
そんな当主達の気負いを配慮することもなく、二人の会話はマイペースな方向に順調だった。
「いやあ、とんでもなくお偉い家の三男にはなりましたけど、年齢で言えば私が一番年上なんですよね」
とアンセルが言えば、シャーロットもおかしそうに笑いながら便乗する。
「それを言ったら私だって似たようなものですよ」
互いに自虐ネタを披露しあって笑い合った。
フィッツロイ公爵家の逃げ出した令息が23歳だったのに対してアンセルは29歳、キャヴェンサー侯爵家のご令嬢が16歳であったのに対してシャーロットは20歳。
結婚適齢期で考えるとアンセルは大幅に外れているし、シャーロットもこの時点で婚約者がいないとなれば十分に行き遅れだ。
そのお陰でこの婚姻に代理として立てられたのだが、通常ならば眉を顰められ、あらぬ憶測で陰口の一つや二つ言われるような年齢である。
気にせず二人の会話は続いていく。
「あまつさえ昨日までは平民として働いていた、元伯爵家の三男なんですけど大丈夫なんですかね」
「それは心配ですね。私もお針子の仕事を斡旋してもらっている貧乏子爵家の長女ですから、侯爵令嬢になったかと思えば伯爵夫人になりますとか、急に言われてもピンとこないというか」
「まあ、なるようにしかならないので、結婚式が終わったら今後を少し相談しましょう」
「ええ、私も仕事をどうするのかとかありますし、家はあるとしても生活していくために互いの収入を把握して、どうしていくかを考えなければいけませんから」
会話は順調であるが内容は少しも貴族らしくなく、そこも頭を抱えたくなる。
どちらの当主も候補者の中から二人を決めたときには大いに悩んだのだが、血筋的にも他に適当な人物がいなかったのだ。
なにせ次の候補といえば、14歳の令嬢や42歳のおっさんが出てくるぐらいだったのだから。
それに、この度の婚姻の祝いとして新たに伯爵位が与えられたが領は無く、結婚しても貴族としての生活水準を保てるくらいの収入があるか、一時的な援助で済むくらいに将来が約束されている必要がある。
二人が稼げない場合は両家が援助しなければならないのは当然だとしても、もしその状態が次代でも続くようならば王命で賜った伯爵位を食わすためだけに、両家共に半永久的な援助をしなければならなくなるのは避けたい。
どれだけ愚かであっても我が子であれば、次代でも援助を続け、良縁を用意してやるまでの面倒を見るのも仕方ないと思っていたのが、遠縁と呼べる程度でしかないような二人から生まれる子どもに援助を続けるつもりは正直無い。
両家の力を削ぐことを狙った王命かもしれないが、我が子に負担を強いる仕組みにならないようにしておくのは当然のこと。
ゆえに自立して収入を得ることが出来る人間がいいと思って選んだ二人だった。
平民として働いていたというアンセルだが、伯爵家から籍を抜ける際に前伯爵の商会を譲り受けて経営は順調で将来性もあったし、シャーロットも貧乏な子爵家とは言っても職業婦人になれるだけの技能と教養は身に付けている。
消去法での選択に不安はあるが、この大波を何とか乗り切ってもらうしかない。
当主達の切実な祈りなど気づかず、二人の顔合わせは恙無く済み、そして結婚式も無事に乗り切ることができたのだった。
なお、新郎新婦が着ているサイズの合わない衣装や、見覚えのない顔にざわつく参列者がいたのは黙殺された。
結婚式を恙無く終わらせれば、待っているのは初夜である。
二人は今の生活水準に合わせて使用人の数をできるだけ少なくしていたが、今宵ばかりはと両家から使用人が送り込まれ、シャーロットはピカピカに磨き上げられた。
風邪をひきそうな寝間着の上にナイトガウンを羽織り、夫婦の寝室で一人待つ。
昨日に出会った時には良い人だという印象はあるが、それ以上の情報は何一つ持っていないままに結婚してしまった。
年上の従姉妹達からは耳年増な情報を落とし込まれ、最年長のミリーからは「優しそうな人ほど裏の顔がすごかったりするのよ」と意味深に微笑まれたのが頭から離れない。
あんな話、聞かなければよかったと思ったところで後の祭である。
もしアンセルに何か特殊性癖があったとしてもマイルドなものでありますようにと、些か失礼な祈りを捧げていたところでノックされ、体がビクリと過剰な反応をした。
そろりと開けられた扉から覗いたアンセルの顔も少し浮かないものだ。
「えっと、入っていいかな?」
「あ、はい、どうぞどうぞ」
シャーロットがぎこちなく入室を促せば、アンセルもトラップだらけの部屋にでも入るかのように恐る恐ると足を踏み入れる。
どんな性癖を持っていても旦那様。
そう、女は度胸だ。
シャーロットがゴクリと唾を飲み込んで、こぶしを握り締めながら背筋を伸ばす。
「どのタイミングで言えばいいのかわからないまま今になったんだけど、少し話をしておきたくて」
その向かいに座ったアンセルが困ったように笑った。
「若いお嬢さんにこんな三十路手前にもなったおじさんの相手は可哀そうだと思うけど、王命である以上は離縁なんて難しいと思う。
だからもし、君が恋愛感情は持てなくても、せめて仲の良い夫婦になれたらと思っているんだ」
「いいえ、いいえ。持参金が無くて結婚は諦めていましたので、思いもかけず家族が出来るのは嬉しいです。
アンセル様は優しそうですし、何の不満もありません」
そう言ってから、シャーロットは自身を見下ろしながらため息をつく。
「逆に地味な見た目の私なんかで、申し訳ないというか」
黒髪は貴族令嬢らしからぬ長さで、肩の辺りで切り揃えている。この話がくる数日前に売り飛ばしたからだ。
瞳の色もダークブラウンで、平民ならばどこにでもいる色味である。
決して日に焼けすぎているわけではないが、他の貴族令嬢と比べると色白とは言い難い。
化粧で隠してあるが、薄く散ったソバカスも令嬢らしさから遠いだろう。
「アンセル様は年齢を気にしてますが、綺麗な銀髪ですし、瞳も紫でとても貴族らしいです」
「そう?銀髪って褒めてくれるけど、くすんだ色味だから『灰かぶり』ってよく言われるよ」
髪を摘んで見せてから、アンセルがシャーロットへと視線を向け直す。
「私達は少しばかり自分のことを卑下しがちになるね。
シャーロット嬢はとても可愛らしい上に利発で、私には勿体ないくらいだよ」
途端に頬が熱くなるのを感じた。
結婚できないと思っていたシャーロットにとって、男性は異性だと理解はしていても恋愛対象にすることはできなかった。
もしかしたら仕事で素敵な人と出会って、それが平民の人であれば持参金だなんてことを考えずに済むかもしれないとは思っていたが、それだって本格的に仕事をしてからの話だから行き遅れの身では難しいとも考えていたところだったのに。
いとも簡単に垣根を取り払おうとするアンセルに対して、どう対処したらいいのかわからなくなる。
ありがとうございます、と言って俯けば、少しばかりの沈黙が部屋の空気を占拠する。
それを崩したのはアンセルの咳払いだ。
「あの、それで言いにくいのだけど」
「どうしましたか?」
どこか歯切れの悪いアンセルの言葉に顔を上げ、首を傾げた。
「昨日会って今日には結婚式だから、シャーロット嬢も心の準備ができないままだと思ってね。
君が嫌だというわけではなくて、ちゃんとした段階を踏んでいければと考えているんだ」
組み直された指が彼の緊張を伝えてくる。
「形式上、既に結婚はしているけれど、先ずは婚約者という体で一緒に暮らしていくのはどうかな?」
そうしてから、か細い声で言葉を続けた。
「だから、今晩はその、初夜は無しってことで……」
目を丸くして見返したシャーロットに、アンセルが慌てたように言葉を続ける。
「勘違いしないでほしいのだけど、君が嫌とかそういうのじゃないんだ。
シャーロット嬢は可愛いから、その、上手くは言えないのだけど、君の為にちゃんとした順序で事を進めたいと思っていて」
迷いながら言葉を選ぶアンセルの顔が、赤くなっていく。
「昨日会ったばかりの奴が何を言っているんだと思うだろうけど、シャーロット嬢を大事にしたいと思うんだ」
今度はアンセルが俯いてしまう。
そんな彼を見て、シャーロットの胸の内が温かくなった。
彼に触れたいと思うが、テーブルが邪魔をして手を伸ばすことはできない。
隣に座っていいかもわからない。
アンセル様、と声をかければ、錆びた機械のようにぎこちない動きで顔を上げてくれる。
「そうして頂けると、とてもありがたいです。
アンセル様はお優しい方だと思うのですが、何もかもが急すぎて流れについていけていませんでしたから」
シャーロットが返すと、アンセルもホッとした様子で笑顔を見せた。
「私もアンセル様のことをよく知りたいと思っています。
改めて今日からどうぞよろしくお願いいたします」
二人同時に頭を下げ、そうしてから初めて会ったときのように笑い合う。
この日、二人は寝室を別々にして眠りに就いた。
次の朝に事情を知らない使用人達から冷たい視線を容赦なく向けられたり、報告を受けた両家の当主が二人を呼び出したりすることなんて知らないままに。
見知らぬ相手と結婚してから三ヵ月。
アンセルとシャーロットの生活は上手くいっている。
何も無かった初夜の次の日は休みにしていたので、二人で暮らす上での生活設計をしっかり相談したのだ。
雇用する使用人の種類と人数、それに互いの収入と仕事の時間帯、貴族として夜会の参加はできるだけ遠慮するといったところか。
暫くは夜会やお茶会の招待状が届いたら、フィッツロイ公爵とキャヴェンサー侯爵に渡して精査してもらい、参加が必要であれば衣装を仕立てることにしている。
両家からは社交時期最後にある王家主催の夜会以外は基本参加することはないと言われていたから、そう出費がかさむことはないだろう。
使用人は週の半分だけ通いで来てもらい、基本的なことは自分達でするということで話はまとまった。
腐っても伯爵家ということで相応の家を与えられたが、使用人の数を抑えていることから二階は二人が使う各々の寝室以外は全て家具に布を被せて使わないようにし、一階も台所とダイニング、居間と応接間以外は布を被せて鍵をかけている。
年に一度か二度程、それぞれの生家に手伝いを頼んで、大掃除とすることで了承も得てある。
長く独身生活を送っていたので、アンセルも基本的な料理ならできるが、シャーロットが料理は得意なのだと石窯でアップルパイまで焼いてくれたのには感動した。
シャーロットに会う前は貴族の令嬢だとしか聞いていなかったから、限りなく平民水準に近い生活になるのを許容できるか心配だったのだが、想定外に平民寄りのご令嬢がきてくれたおかげでアンセルの杞憂に終わっている。
話してみれば気さくで、取り澄ました感じもないのが好印象だ。
これまでアンセルが結婚しなかったのは婿入り先が見つからなかったのと、商会を引き継いでからは人脈を狙うだけの商人の娘や、少しでもいい暮らしができるのではないかと考える、勘違いした女性による縁談が多くて辟易としていたからだった。
どれだけ生家から離れても、アンセルの釣書には伯爵家の名前が入る。
誰もが口にするのは、出ていくことになった家名の話ばかり。
一度、商会に勤め始めた女性が既成事実を狙って一服盛ってからは、仕事場すらも安心できる場所ではなくなり、女性は既婚者のみの雇用にした時期もあるぐらいだ。
それゆえ女性を身近に寄せない生活をしていたアンセルにとって、シャーロットは今までいた女性達とは違う控え目さを持っていることに、そのくせ溌溂とした明るさがあることが好ましく映った。
何より貧乏だと言いながら、生家や無茶ぶりをしてきた侯爵家にお金を無心することなく、地に足の着いた生活をしている姿は輝いてすら見える。
彼女が卑下する容姿だって、アンセルは短所だなんて思っていない。
髪や瞳の色などを気にしているが、アンセルはシャーロットが十分に可愛らしいと思っている。
つまりは全部いいのだ。
仕事の日も出来るだけ食事は一緒にしたり、夜は一緒に居間で喋ったりカードゲームを楽しんだりしていたが、打てば響く彼女の話し方に惹かれていく。
今夜もカードゲームで惨敗したアンセルに、そっとシャーロットがハンカチを差し出してきた。
「これは?」
「アンセル様に贈り物をしたくて。刺繍は私が刺したもので少し地味かもしれません。
気に入って頂けるといいのですけど」
そう言われてハンカチを見れば、銀糸でアカンサスの葉が両腕を広げるかのような図案で刺され、その上に黒糸でアンセルの名前が綴られてあった。
紫の小さな花が色を変えながら、拡散するように縫い込まれているのが目新しい。
アンセルとシャーロットの髪や瞳の色であるのに気づいて、思わず笑顔になる。
「ありがとう。大事に使わせてもらうね」
今では隣に座るようになったシャーロットの頬に唇を寄せれば、それだけで彼女は恥ずかしさから顔を真っ赤に染めるのも愛らしい。
「それにしても技術もさることながら、図案も素晴らしいね。
シャーロット嬢が考えたの?」
「ええ、私の働いている先は完全オーダーメイドなので、図案も考えなければいけないですから」
シャーロットが照れたように笑う。
彼女のセンスはとてもいい。
刺繍でもこれだけ映えるのだ。別の商品にも活かせるかもしれない。
そう考えたのは六割が商会を発展させたいという気持ちで。残りの四割は一緒に仕事をすれば、過ごす時間を増やせるという下心である。
「ねえ、シャーロット嬢。君の才能をうちの商会で使わせてくれないかと言ったらどうする?」
覗き込んだ顔からは赤みが消えて、代わりにキラキラした瞳がアンセルを見上げていた。
さっきの可愛らしい顔が瞬く間に失われたのは、少しだけ残念ではある。
そっと手を取ってみたが、アンセルの言葉の方が気にかかるようで、先程のような反応は見せてくれない。
「刺繍もいいけど、例えばタペストリーや壁紙の図案はどうだろう。
君なら新しいものを思いつけるはずだ。
勿論、これは仕事だからね、ちゃんと個人資産に入れる分として報酬は支払うよ」
「とても魅力的な提案ですね。
先ずは一度図案をいくつか描き起こしてから、それから改めてお話しさせて頂いても?」
勿論だと返したアンセルだが、商売の話は大事だけれども、それはそれとしてシャーロットの恥じらう顔をもう一回見たいという気持ちだって捨てられない。
どうにかさっきのような顔を見れないかと思案し、そしてすぐにいいことを思いつく。
「それと話は変わるのだけど」
くるりとした丸い瞳がアンセルを無防備に見る。
「そろそろ、お互いのことを愛称で呼びたいな。
シャーリーと呼んでも?」
もっと近づきたいという気持ちが、彼女は自分のものだと知らしめたいという心が急かすのを抑えるのに精一杯な日々の中で、紳士たれと頑張っている自分に少しぐらいはご褒美をあげたい。
再びシャーロットが耳まで赤く染めるのに満足して思わず笑ってしまい、だから反撃されるとは思わなかったのだ。
「ええ、ええ、大丈夫です、セル様」
精一杯の抵抗で先手を打たれた愛称呼びは、思いのほかアンセルの心の弱い所に突き刺さり、居間の中に出来上がったのは、手を取り合ったまま互いに真っ赤な顔になった彫像のような二人組だった。
ゆっくりと関係を進める日々を過ごす中で、一体どのタイミングなら結婚のやり直し、というより初夜のやり直しを言えたものかとアンセルが悩む中、転機となったのは思いがけない客の存在だった。
この日も仕事を終わらせて、家に帰ったばかりの二人が家で一息つく間も無く、外から騒々しい声が届いたのだ。
伯爵の屋敷というには小さな家だが、それでも門から家までは10m程離れている。
二人して家に帰ってきたばかりで玄関に居たとはいえ、家の中まで届くのだからかなり近所迷惑だろう。
シャーロットと顔を見合わせて、残業ができたようだと言えば、彼女は苦笑し入ったばかりの扉を開いて外に出る。
開けた途端に声は一層大きくなり、この調子だと警邏か騎士の詰め所に報告がいくだろうなと思いながら門に近づいて確認すれば、そこには騒ぎ立てる二組の男女がいた。
「何で、こんな小さな家しか用意されていないのだ!」
不満を声高に主張する、小柄で可憐な少女を連れた青年の組み合わせと。
「出迎える使用人が二人だけだなんて、私が住むのにふさわしくないわ!」
これまたキラキラと見目は良い青年を連れた令嬢っぽい少女だ。
全員、顔だけは大変よろしい。
おそらく出迎えている使用人とは、アンセルとシャーロットのことを指すのだろう。
アンセルもシャーロットも仕事から帰ってきたばかりなので貴族らしい服装ではないが、別にお仕着せを着ているわけでもないというのに。
そして、よく叫ぶ青年と少女からは、見知った人物の面影を見出せた。
「声高に家の所有権を主張しているということは、もしかしてフィッツロイ公爵令息と、」
「キャヴェンサー侯爵令嬢なんでしょうね」
アンセルの言葉にシャーロットの合いの手が入る。
フロックコートではなくシャツとベストだけの青年と、ドレスではなくワンピースを着ている少女は、どちらも平民ではお目にかかれない黄金の髪と青い瞳をして、一目で貴族なのだとわかるだろう。
三ヵ月も姿をくらませたまま、よくもまあ無事であったと思う一方で、一体どう過ごしていたのかも気にはなる。
身に付けている装飾品や手荷物がほとんど無いことから、売り払ったお金が尽きたのではないかとは推測できたが、それをどう使って散財したのか。
色々聞いてみたい気はするが、それはアンセルたちのすることではない。
明日はアンセルもシャーロットも休日である。アンセル達が優先的にすることは、この二組の迷惑なお客様にお引き取り頂くことだけだ。
「フィッツロイ公爵令息と、キャヴェンサー侯爵令嬢ですね。
お二人はご両親にお会いしていないのですか?
どうしたら使用人と間違えるのかわかりませんが、私達はお二人の失踪のせいで追い詰められた両家に頼まれて結婚した者ですよ」
はあ、と甲高い声が仲良く合わさった。
意味がわからないといった風であるのすらもお揃いなのが、この状況で妙に面白い。
「不思議なのですが、どうしてご生家に戻らず、ここに来たのですか?」
シャーロットが聞けば、露骨に視線を泳がせ始めた。
「シャーリー、可哀想だから止めてあげた方がいい。
どうせ一度ご生家に向かわれたけれども、有無を言わさず追い出されたので、この家のことを思い出しただけでしょうから」
とたんに頬を紅潮させて睨みつけてくる。
適当に言ったつもりが、どうやら正解だったようだ。
わなわなと震えながら肩を怒らせる姿を見せる様は、本当に貴族だったのか疑わしい。
「だったらどうした!
貴様らが何を言おうと、この家はフィッツロイ公爵家が私の為に用意したものだ!」
「馬鹿言わないで!私の為にキャヴェンサー侯爵家が用意したものよ!」
「違います、王家です」
アンセルとシャーロットの声が綺麗にハモる。
「ご両家が望まれたならば、別に家を明け渡すのは構わないんですけどね」
シャーロットは溜息をついて、アンセルの言葉を引き継いだ。
「お二人とも、この家を明け渡したところで、どうやって生活されるおつもりですか?」
駆け落ちできたまでは良かったものの、計画性も無く散財していた人間に収入があるとも思えない。
こうなる前だったら、もしかしたら勤め先が約束されていたのかもしれないし、家の領地経営に携わることができたのかもしれないが、人生を棒に振った今となっては難しいだろう。
「フィッツロイ公爵様もキャヴェンサー侯爵様もしっかりとされた方です。私達にきちんと説明して頂いたぐらいですから、お二人にも重要なことは伝えているはずですよ。
婚姻によって伯爵位と家は頂きましたが、別に領地を頂いているわけではありません」
二人揃って困惑した表情を浮かべているのに頭が痛くなる。
「だったら、どうやって暮らしていけばいいんだ?」
そこから説明しなきゃいけないのかと、アンセル達の目が一瞬虚ろになりかけ、我に返る。
「当たり前の話ですが、何らかの収入を得てください。
私は元々商会を持っているのと、シャーリーは刺繍の才を持っているからやっていけているだけです。
ただ家にいるだけで、お金は入ってきませんよ」
全員が顔を見合わせているが、この調子だと誰も働いてはいないのだと察することができた。
「もう一度言いますが、とりあえず両家の当主が一筆認めた手紙なりをもらってきてくれませんか?
王命で婚姻している以上、こちらも許可なく勝手に明け渡すわけにはいかないので」
そろそろ面倒臭くなっておざなりに声を掛ければ、顔を赤くして掴みかからんばかりに門の柵を握り締める。
「いいから門を開けろ!お金が尽きて宿へのツケ払いも断られているんだ!
王家の外戚でもある高貴な私を、そこらの道端で寝させるつもりか!」
「そうよ!今日は粗末なベッドでも我慢してあげるから、とりあえず入れなさい!
使用人としてなら家に置いてあげるし、暫くは貴方達のささやかな収入でも我慢してあげるわ」
たかだか三ヵ月程度で、随分と貴族としての礼儀作法が、いや人間としての品性がごっそり抜け落ちているらしい。
思わず口にしてしまっていたらしく、元々あったかも疑わしいですよという辛辣な言葉が、シャーロットから溜息と共に吐き出された。
もはや暴徒のごとく門の柵に手を掛け、ガシャガシャと揺さぶるのを止めるのは難しそうだ。
「セル様、どうします?」
「うーん、もう少し待てば、フィッツロイ公爵とキャヴェンサー侯爵が回収しにくると思うんだよ。
なにせ、ほら、私達は王命で結婚した夫婦だから。
ここで面倒事が起きて王家の耳になんか入れたくないはずだから、ちゃんと上手くいっているか暫くは監視していると思うんだよね」
それもそうですねと話していると埒が明かないとでも思ったのか、今度は柵の隙間から手を伸ばしてくる。
咄嗟にシャーロットの肩を抱くように引き寄せ、もはやサーカスの猿以下のみっともなさを披露しているキャヴェンサー侯爵令嬢を睨みつけた。
「先に警告しておきますよ。
貴方達の勝手な振る舞いによって、私達は身代わりとはいえ伯爵の地位を賜っています。
つまり、国に認められた伯爵と伯爵夫人は書類上でも私達だと証明されているのです」
そう言い放った瞬間、ガラガラと馬車の音が近づいてくる。
すぐにフィッツロイ公爵家とキャヴェンサー侯爵家の家紋のある馬車が門の前に停まり、同時に使用人や護衛らしい人物がわらわらと現れたかと思えば、素早く全員を簀巻きにして地面に転がしてしまった。
段取りもつけてきていたのか簀巻きが出来上がった後、それぞれの馬車の扉が開いて当主達が降りてきた。
気づいたらしい二人が顔を上げて、怒りから歓喜の表情へと変わる。
「父上!聞いてください!
この者達が私に成り代わって伯爵の地位を簒奪したというのです!」
フィッツロイ公爵令息が言えば、調子に乗ったキャヴェンサー侯爵令嬢も声を張り上げる。
「お父様、助けてください!
我がキャヴェンサー侯爵家に似ても似つかぬ容貌の偽者が、私の名を騙って伯爵夫人の地位を手に入れているのです!
どうか!目の前の二人に今すぐ罰を与えてください!」
子ども達の懇願を聞いても表情を変えることのない両家の当主の顔は酷薄ですらあり、ああ、怒りが隠せない程かと納得している中、彼らが片手を上げただけで地に転がされた全員に猿轡がなされ、いつの間に来ていたのか家紋のない馬車に荷物のように詰め込まれていった。
放り込んだ後の様子を確認もせず、扉は締められて馬車は動き出す。
仕事が早いとはこのことだろう。
それを無言で見送った後、フィッツロイ公爵がこちらへと視線だけを向ける。
「あの恥晒し達は、二度と王都の地を踏ません」
「どうするつもりですか?」
聞けば、代わってキャヴェンサー侯爵が忌々しそうに馬車を見ながら口を開いた。
「売った」
思わずその顔を見る。
「本人達は駆け落ちできたと思っていたようだが、両家共に監視は付けていた。
何で連れ帰らなかったと聞きたいだろうから答えておくが、帰ったところで結婚式でとんでもない醜態を晒すのは明白。だからな、事が終わるまで好き勝手させていた。
一応、痛い目にでも遭って反省し、心を入れ替えて謝罪するならば領地の端にでも置いてやろうと思ったが、ただただ金の無心だけに戻ってきただけでな。
どうせこうなるだろうと、叩き出した後の態度次第でどうするかは決めていた」
「それはまた容赦のない」
さすがのアンセルも気の利いたことは言えず、当主達を見返すことしかできない。
「どれだけ我が子が可愛いとはいえど、我らが貴族だということは忘れておらん。
あれだけ愚かであるならば、相応の対処をするだけだ」
それだけ言って再び馬車へと乗り込んだ彼らを見送り、そうしてからシャーロットを見る。
「……彼ら、どこに売られたと思う?」
「こういったことは、聞かない方がよいかと思います」
もしかして知っているのかな、という言葉は喉の奥に押し込めた。
後日、お詫びとして迷惑料という名目の下で、仕立て屋が送り込まれて礼装とドレスを数着仕立て、同時にいくつかの宝石も贈られた。
アメジストやオニキスといったものがあるため、お互いの色を纏えるようにタイピンや髪飾りにしようと決めている。
ただ、どちらからの手紙にも、次に何かを贈る時には出産のときと書かれており、そこから少しばかりぎこちない生活を送ることになったのだった。
そうした言葉に背を押されたのか、ちゃんと初夜を迎えられるようにと、仕切り直しの為に用意したアンセルの求婚の言葉はシャーロットの日記に書かれている。
結婚記念日にはシャーロットが嬉しそうに日記を朗読し、アンセルの何とも情けない声が響くのが恒例行事となるのを、彼はまだ知らないままだ。