第5話 47
「――お、いたいた! 急に居なくなりやがって!」
そう言うと、アルは襖を完全に開いて入室し、畳に座るわたし達を見下ろします。
「ロイド兄の説明が終わったぞ。
まったく、ババア。王宮騎士団が来ているなら、そう言っておけよ!」
「――言ったんだよ! 朝飯の時にしっかりと!
アンタが色ボケて聞いてなかっただけだ!」
「う……む……」
セイラ様に反論されて、たじろぐアル。
「まあ良い。そいじゃ出かける準備と行くかね」
そう告げて立ち上がったセイラ様は、アルの肩を叩いてわたしに向けてアゴをしゃくり、けれど無言でそのまま部屋を出て行かれました。
「……あ~、リディアよ」
残されたわたしの前に、アルはしゃがみ込みます。
「今回は助かった。感謝する」
「い、いえ! わたしは少しでもあなたの……みんなの力になりたくて……」
こんな風に改まって感謝されると、嬉しい気持ちより戸惑いが先に出てしまいますね。
わたしは左手を振りたくって、照れ隠しに笑って見せたのです。
「――だが……」
と、アルの手が、折った膝の上で杖を握る右手に重ねられました。
「――無理はしてくれるな。俺はこれ以上、家族を失いたくない」
この人の言葉は、いつだって飾らずに、素直で率直です。
あの晩、わたしが告げた言葉をそのままに受け止め、わたしを家族と――わたしが望むものとは、多少異なるものですが――そう呼んでくれる彼は、心の底からわたしを心配してくれたのでしょう。
その気持ちが……ひどく嬉しくて、涙が溢れそうになります。
「……ほら、もう終わったんだ。リディア」
アルがわたしの右手に重ねた手を持ち上げて、優しく撫でてくれました。
「――あっ、あれ?」
その時になって、わたしは指が真っ白になるほど強く杖を握り締めていた事に気づいたのです。
「新兵なんかが、実戦を経験した時によくなるんだ。
俺も地下大迷宮で初めて魔獣を殺めた時にこうなった」
ゆっくりと慎重に、アルはわたしの指を一本一本、杖から剥がしていって。
「人に暴力を振るうなど、おまえは初めてだっただろう?
ましてアレだけの大魔法の暴威を振るったんだ。
きっと優しいおまえは、自覚のないまま心労を溜め込もうとしていたんだろうな」
銀杖がわたしの手から転がり落ちて、澄んだ音を立てました。
「さあ、もう大丈夫だ。よくやってくれたな。リディア」
と、彼はひどく慣れた様子で――村の子供達によくしていますから、実際慣れているのでしょうが――、わたしの頭を優しく撫でてくれたのです。
この人のこういう――いつだって飾らずに、まっすぐに気持ちを表すところが、とてもずるくて、とても愛おしいと思ってしまうのです。
『――きゃ~、撫でポン! ナマ撫でポンなんて、お姉ちゃん、初めて見たわ~!!』
ハクレイ様がなにやら興奮気味によくわからない事を叫んでいますが、今のわたしはそれどころではありません。
様々な――本当に様々な感情が湧き上がり、目の前がぐるぐるしてきます。
きっとこの想いを覗かれたなら、アルには引かれてしまうかもしれません。
『……それらの感情をひとまとめにして、人類は「恋」と定義づけているのよ~』
「……恋……」
急に真面目な声色でハクレイ様が告げるので、わたしは思わずそのまま口に出して呟いていました。
「あ? なんか言ったか?」
と、いつの間にかアルは立ち上がっていて、杖を拾ってわたしに手を差し出してくれていました。
「――い、いえっ!」
わたしは慌てて首を振りたくりました。
『あらら~……あんな大胆な告白しておいて、まさか自覚がなかったっていうの~?
スカーレットちゃんが聞いたら、きっと面白い症例って喜びそうね~』
茶化すようなハクレイ様の言葉を無視して。
「え、ええと。ア、アル、わたしは少し――そう、厨房でお水を頂いてから向かいますので、先に行っててください!」
と、彼の背を押して部屋から追い出し、それからわたし自身も廊下に飛び出しました。
角を曲がって周囲に人の気配が無いことを確認すると。
「……あああぁぁぁぁ……」
思わずその場にしゃがみ込んでしまいます。
「んだじゃ……んだべな……家族に……夫婦になるんだば、好きってことだし……こここ、こいしてるって事になるんだっきゃな……」
女男爵として、いずれは義務として婿取りをしなければいけないと考えていたわたしは、肝心な部分――そこに至る感情を失念していたのです。
もちろんアルの事は好きですし――ずっと一緒に居られたらと思ってきました。
でも、さっき頭を撫でられた瞬間に湧き上がった感情は――そんなものを塗り潰してあり余るほどに、生々しく、後ろ暗いものだったのです。
――ずっとこうしていて欲しい。
――アルがわたしだけを見てくれたら良いのに。
――わたしだけがアルの唯一になりたい……
イライザやアリシアの想いを知っているのに――いいえ、知っているからこそ、今がチャンスとさえ思ってしまったのです。
そして、そんなどす黒い感情の奔流を洗い流すかのように、たまらない充足感と幸福感を与えてくれた、アルの手……
……ああ――
「――わたし、アルに恋しちゃってたんだ……」
頬に当てた両手にその熱さを感じながら、わたしは知らず呟いていました。
『……そうね。そして、その想いこそ――きっとあなたが彼を支える唯一の武器なのよ。
誇りなさい、新たな白の賢者。
あなたは今、このひどく冷たく悲しみに満ち溢れた世界を、鮮烈に塗り替えるほどの力を手に入れたわ!』
「へ? そう、なんですか?」
唄うようなハクレイ様の言葉に、わたしは顔をあげて訊ねます。
『――ええ。お姉ちゃん達の界隈では、昔から運命論の補足のひとつとして語り継がれてるのよ~。
強い想いだけが運命の敷いた軌道を捻じ曲げるってね。
……想念強度による運命改変理論――つまりはね……』
――一息。
わたしの視界にイゴウちゃん達のような、丸くデフォルメされたハクレイ様の顔が浮かんで人差し指を突きつけ、片目を瞑って見せました。
『――恋する乙女は無敵なのよ~!』




