第5話 32
「――というわけで、今日は慌ただしくなるからね。巻いてくよ!」
と、食堂で朝食を取っていた俺達に、ババアはやってくるなりそう言い放った。
「あれ? リディアお姉ちゃん、起きたら居ないと思ったら、大賢者様とお風呂行ってたの?」
マチネ先生が指摘した通り、食堂に現れたリディアとババアは、湯上がり直後なのかユカタとかいうラグドール風衣装を着込み、濡髪をタオルに包んでいた。
屋敷ではいつも一番最後に風呂に入るリディアの湯上がり姿は珍しく、薄い衣装なのも相まって、ついつい紅く染まった首筋に目が行ってしまう。
仮面で目線が隠されていてよかったと思う。
そんな俺に――
「――巻きだつってんだろ。朝から盛ってんじゃないよ、むっつりが!」
ババアは容赦なく拳骨を落として、丸い大テーブルに座る俺の左隣に腰を下ろす。
リディアはその向こうの席だ。
「……ぐぅ……くっそ……痛えじゃねえか」
反論してしまえば、それが言質となって俺がそういう目でリディアを見てしまった事を認めてしまう事になる。
……俺だって年頃の男なんだ。
女性が無防備な姿を晒していたら、つい見惚れてしまったって仕方ないだろう?
ましてリディアのような魅力的な女性が相手なんだから――
と、そう思いつつも、俺は殴られた頭をさすって押し黙る。
そう。俺は学んだんだ。
反論や言い訳は――それがどんなに正論であろうとも――時として自分の首を締める事になる。
特に女が相手の時は……
昨晩聞かされた話が本当ならば、ババアは一万年を生きるバケモンなわけだが、生物学上は女のはずだ。
ならば、やはり余計な反論はすべきではないだろう。
――だが……そう、だが、だ。
ロイド兄なら、俺の気持ちをわかってくれるはず……
そう思って、俺は丸テーブルの正面に座るロイド兄を見たのだが――
「――ば、婆さん。というわけで、じゃわからんぞ。巻きって、どういうことだ?」
と、ロイド兄はあえて俺の視線を避けるように、ババアを見つめ――ババアもまた浴衣姿なのに気づいたのか、さらに首を巡らせ――、結局は隣のエレ姉に視線を落ち着かせると、そう訊ねた。
……ロイド兄、ババアを女と捉えてるのか。すげえな……
今のババアはユカタの合わせから、その無駄にでかい乳を覗かせていて、確かに知らない者が見たなら、やたら扇情的な出で立ちにみえるんだろう。
だが、あのババアだぞ?
一万歳を超えるバケモンの……
ロイド兄は一万年は知らないだろうが、初代の妃だった事は知ってるんだ。
だというのに、ババアを女として見れるのか?
男として――いや、雄としてロイド兄を尊敬せずにはいられない!
そんな事を考える俺に、隣に座るマチネ先生が俺の袖を引いて、頭を下げさせる。
「――また変なコト考えてるんだろうけど、ロイドお兄ちゃんはエレーナお姉ちゃんがいるから、勘違いさせて不安にさせないようにしてるだけだからね?」
「む?」
「たとえご先祖様が相手でも、女の子って好きな人が他の女の肌をジロジロ見てたら、良い気はしないんだよ。
――それに、すぐ隣にはリディアお姉ちゃんも座ってるし」
……ふむ。つまりは、だ。
「――ロイド兄は、エレ姉に義理立てしてるって事か」
「――き・づ・か・いっ! あ~もうっ、ダグのバカ! ぜんぜん言葉選びがダメダメのままじゃない。
義理立てしてる――だと、ロイドお兄ちゃんは本当は見たいのを我慢してるようにも聞こえちゃうからね?」
「む、それはマズいな。意味がまるで違ってくるじゃないか……
――感謝する。マチネ先生」
俺が礼を告げると、マチネ先生は腕組みして溜息。
「どーいたしまして。
でも、リディアお姉ちゃんに見惚れてたのは、わたし的に高評価です。プラス五点あげます。
あそこで気の聞いた事を言えてたら、プラス十点だったんだけど、まあ、お兄ちゃんにそこまでは求め過ぎだよね。今後の課題だよ」
――出た! グランゼス領からの旅の最中から、マチネ先生が付けだした謎の採点だ。
「――ちなみにこの加点でアルお兄ちゃん、ようやくマイナスからプラスになったよ。
……まあ、やっと一点に戻ったとも言うんだけどね」
「フフフ……だが、着実に成長しているという事だろう?」
マイナス五十点を超えた辺りで、マイナスの上限になると罰があると言われたからな。
あれ以上、減点されないよう、これでもリディア達と話す時は、気を遣う――そう、気遣いするようにしていたんだ。
そんな風に俺とマチネ先生がヒソヒソと話し込んでいると――
「――聞いてんのかい! バカ弟子!」
再びババアに拳を落とされた。
「――クソ! ぽんぽん殴るな! アホになったらどうする!?」
「ハン! これ以上、アンタがアホになるもんかい。
それに|<大戦>期は壊れた魔道器は、こうやって叩いて直してたんだ。むしろ、賢くなるだろうさ」
「人間と魔道器を一緒にするなよ!」
と、俺はそう反論するのだが、ババアは鼻を鳴らした。
「まあいい。どうせ後で<竜爪>や族長連中にも説明するんだ。
ロイド、エレーナ。概要は今話した通りだ。連中を集めな。続きはそれからだよ。
んで、バカ弟子。あんたは――とりあえずアンタはさっさと食っちまいな」
と、言いながらババアは俺の前にある食べかけの朝食をアゴで示す。
それから袖口から素材不明な指くらいの長さの細い品を二本と、次いで同じく素材不明な上部に吸口の付いた弾力性のある容器を取り出して。
「――アンタはこっちだ。徹夜させちまったからね」
そのそれぞれをリディアに差し出し、ババアは手本を見せるように長細い品の表皮を指で裂き開いた。
あの表皮――袋は、水や熱にも強いくせに、指で簡単に裂けるという謎素材なんだよな。
「あ、ありがとうございます」
リディアはババアがしたのを真似て、袋を開いて。
現れた中身に、目を丸くする。
黒みがかった茶色の光沢のある長方形をした食い物だ。
「これは……チョコレートでしょうか? こんな高価なもの、よろしいのですか?」
チョコは遥か南洋の国から輸入している高級品だからな。
高位貴族でも滅多に食えない高級菓子なんだ。
リディアがそれを知ってるのは、俺の侍女をしてた時にわけてやった事があるからだ。
「正確にはその味を付けたもんさ。
それに量子転換万能調理器で拵えたもんだから、元手はタダだよ」
ババアにそう告げられると、リディアの視線がわずかに虚空を見つめ――
「ああ、緑の賢者様の――完全栄養食、というのですね?
もうひとつは栄養補給液、ですか」
と、なにやらブツブツひとりごちる。
「そうそう。ヤツが生み出した高過負荷労働環境用携行糧食さ」
「ええっ? 一回食べれば一週間寝ずに働ける!? だ、大丈夫なんですかソレ!?
……いえ、はい。大丈夫なのはわかってるのですが……」
……なにやらリディアがおかしな一人芝居を始めたが、言っている事は間違っていない。
実際、俺は地下大迷宮に籠もっていた頃、アレを飲み食いさせられた後にドラゴン討伐に身一つで放り出されたからな。
腹は減らないし、まったく眠くならない――どころか、常に思考が冴え渡っていて、俺はついにババアにおかしなクスリを盛られたと思ったものだ。
――それよりも、だ。
完全栄養食の端っこをかじって、その旨さに目を輝かせるリディアを尻目に、俺はババアを肘でつつく。
「徹夜明けって――ババア、あの後、リディアのトコ行ったのか?
なにやってたんだよ? というか、今のリディアの様子がおかしかったのと関係あるんだな?」
俺の問いかけに、ババアは目を丸くして。
「おや、珍しい。アンタにしちゃ、察しが良いじゃないか」
「茶化さず教えろよ。リディアにいったいなにしやがったんだ?」
だが、ババアは人差し指を口に当て、片目を瞑って見せる。
「――残念だが、教えられないね。乙女の秘密を探ろうとするもんじゃないよ」
「うげぇ……乙女って歳かよ。一万歳のバケモノババア――ぐふぉ……っ!?」
瞬間――俺の腹にババアの拳が叩き込まれ、同時に向こう脛にマチネ先生の蹴りが突き刺さった。
「――ざけんじゃないよ。あたしの身体は今でもピチピチの二十四だよ!」
「お兄ちゃん、今のは減点! 大減点っ! マイナス六十点だよ!」
激痛に床を転げ回る俺に、ふたりは容赦なくそう怒鳴りつけてきた。
「アル。女性の年齢に触れちゃいけないっていうのは、紳士の常識だと思いますよ?」
と、リディアまでもが俺を見下ろして、人差し指を立てながら忠告してくる。
俺は助けを求めて、丸テーブルの向こうのロイド兄に顔を向けたのだが――
「さ、食い終わった事だし、ひとっ走り行って族長達や<竜爪>を呼び出してくるかぁ――」
棒読み調のセリフで大きく伸びをしたロイド兄は、エレ姉の腰を抱いてさっさと食堂を出て行こうとしていた。
……長年、エレ姉と婚約関係にあっただけあって、こういう場での立ち回りを熟知していると言うことか……
さすがロイド兄だ。
――だが、だ……
「……ちくしょう。味方がいねえ……」
思わず俺は唇を噛んで呟く。
床に転がったまま、頭上から降り注ぐババア達の叱責を聞きながら……
こうして俺は、激痛と説教の代価に――『女性に年齢の話は禁忌』という教訓を得たのだった。




