朱璃之章 Chapter:1
三つ目は朱璃が主人公の話です。
邪願塔編以外では影の薄い彼女ですが…………
Chapter:1
(私、何やってるんだろう)
鏡のなかの濡れた自分と、掌を重ねる。
一面鏡張りの壁。頭上から湯をそそぐシャワーヘッドもそこから生えている。
横を見れば真っ白い楕円形の浴槽。縁は広々として腰掛けやすい。浅い底にはジャグジー(作動させると、もれなく七色のライトが賑やかしてくれる)。
浴室の壁のうち三方はガラス──壁に沿うようにカーテンが付いていて本当によかった。
支部の大浴場ではない。まして自室の風呂でもない。
いわゆる、ラブホテル……
ここに自分がいると思うたび、夢を見ているような現実味のなさで、軽い目眩を覚える。
だが夢ではない。かといって夢見ていたわけでもない。
完全なハプニングでありアクシデントだ……
山で特訓──
凰鵡と翔からそう聞かされたのは三日前。山房に籠もるのではなく、やや離れた衆所有の一座に日帰りで、とのこと。
「なにもそんな日に……」
当日はクリスマス・イヴ。クリスチャンというわけではないが、零子の計らいで朱璃には休暇が出されていた。
「わりぃ。夕方には帰るから」
「夜は翔の家でパーティーしよ」
二人の意志は固かった──正確には翔の意志だ。
斎堂純亜の一件以来、翔は日ごと、みずからに苛酷な鍛錬を課すようになっていた。
紫藤から与えられるカリキュラムのほかにも、みずから自主練のノルマを増やし、道場で闘者に遭えば貪欲に手合わせを申し込む。
打ち所が悪かったり酸欠で倒れたりで医務室を利用する回数も増えていた。
「じゃ、私も行く」
「え、山頂だよ? そんなに高くないけど」
「山道もねぇし、朱璃ちゃん雲脚使えたっけ?」
正気を疑うような二人に、少しムッとした。
「翔くんがおんぶしてくれたらいいでしょ。トレーニングなんだから。それに支部外でやるなら、管理者が要るんじゃない?」
言いくるめられたような顔をしつつ、凰鵡達は「まぁそれなら……」と頷きあった。
そして当日、ヘリも降りられそうな山頂の草原で始まった〝特訓〟に、朱璃は目を剥いた。
「翔、いくよ!」
凰鵡が続けざまに放つ気弾を、翔がひたすら避けるというものだ。
「おぅ──い……ッ!」
が、ほとんど棒立ちのまま初弾を腹に受けた。
「はいストップ!」
たまらず朱璃は横槍を入れる。
「翔くん、三〇分くらい休憩。脚がみるからにヤバい」
予定通り、朱璃を背負っての荷重登山を、翔は完遂していた。荷物はさすがに凰鵡が持ったが、それでも登頂時にはもう酸欠寸前になっていた。
そこをなんとか意地で立ち上がって、このザマである。
「平気へーき、この程度で……ッ」
「無理しないの、スポ根マンガじゃないんだから。避ける練習なんでしょ。これじゃただの我慢大会」
「朱璃さん、翔が大丈夫って言ってるんだから」
「凰鵡くん、顕醒さんだったら、こういうとき何て言う?」
「う……休め、って言う……」
やはり着いて来て正解だった。
悔しさをバネにする翔の直向きさは羨ましい。もともと練習熱心で、普通なら一年かかると言われる雲脚を、わずか二ヶ月で会得した。
だが、それは単純なトレーニング量や体力ではなく、翔自身の〝要領の良さ〟と〝教師との信頼感〟による成果だ。
今の翔には、そのどちらもが欠けている。
凰鵡は翔の気持ちを知ってか知らずか〝頑張って〟と無邪気に背中を押すばかりだ。今度のことも翔に協力しているようで、そのじつ考えなしに従っているに過ぎない。
支部のなかなら、紫藤でなくとも零子やタヌキ先生、ほかにも多くの先達がいて、翔にブレーキをかけてくれる。だが外でとなると、いったい誰がそれをやるのだ。
二人を沈黙させると、朱璃は翔の脚に湿布を貼り、一回の制限時間、凰鵡が撃っていい気弾の威力といったトレーニングのルールを決め、チェック用の動画撮影も出来るようにした。
むりやり着いてきた朱璃が割り込むように場を仕切りはじめたことに、翔も凰鵡も最初はいい顔をしなかった。朱璃自身もそれは覚悟の上だった。疎外感に胸は痛んだが、今さら退くわけにもいかなかった。
それでも、何度となく気弾に撃たれつつも翔が動きを良くしてゆくうちに、三人のあいだには自然といつもの気安さが戻っていた。
とくに録画映像によるチェックが、翔にとっては何かのきっかけになったらしい。
また朱璃を運んだぶんの足の疲れも、嬉しい誤算となった。自分の動きを客観的に確認しつつ、力まない最小限の運足で立ち回る感覚を掴んでいったのだ。
だが、特訓は思わぬ形で幕切れとなった。
(──寒い?!)
気が付くと、厚着をしてきたにもかかわらず、朱璃の体は震えっぱなしになっていた。
来たときには青かった空は灰銀色に塗り潰され、北風が遮るもののない野原を撫でてゆく。
予報では、天気が崩れるのは夜のはず。
だが、ここは仮にも山の上。街とは勝手が違うということか。
「朱璃ちゃん、大丈夫か?」
翔が朱璃の異変に気付いた。
「大丈夫……続けて」
「凰鵡」
「うん、天気が変。帰ろう」
「だめ……翔くんには大事な特訓なんだから」
「だからって、朱璃ちゃんに我慢大会させるわけにゃぁいかねぇだろ」
仕返しのつもりか、と少し腹が立ったが、朱璃は「ありがとう」と言って、帰り支度に取りかかった。
と、白いものが舞い降り始めた。
「あ、雪……」
この地域では珍しい。ホワイトクリスマスになるのか──などとロマンチックなことを考えているあいだにも、事態は急速に悪化した。
猛吹雪──視界不良、足下も不良、極寒。これは雲脚にとっても、大きな枷となる。
だが山小屋もない以上、早急に下山するほかない。
「ボクが朱璃ちゃんをおんぶして先行するね。翔、着いてきて」
さいわい、ナビはまだ動く。凰鵡の案内で安全に降りられるかと思った。
「──朱璃さん? 朱璃さん!」
凰鵡の声で朱璃は目覚めた。背負われて山をくだる最中に気を失ったらしい。
雲脚に風を避ける力などない。みずから動いて熱を発する使い手自身と違い、背負われている朱璃はオープンカーに乗っているのと同じだ
手の感覚がない。額はズキズキと痛む。
「凰鵡、朱璃ちゃんヤバいのか?!」
「翔、どうしよう……朱璃さん、氷みたいになってる……!」
「ちょっと待ってくれ…………クソッ仕方ねぇ」
翔がスマホで何かを確認し、悪態を吐く。
「こっちだ。朱璃ちゃん、もうちょっとだけ我慢してくれ」
そう言って、先に走り出した。
「……え、翔もしかして……」
数秒後、凰鵡の震える声がして、朱璃の意識はふたたび闇に落ちた。
次に気が付いたときは、ベッドの上で羽毛布団にくるまれていた。
「朱璃さん! よかった……」
眼を潤ませた凰鵡のドアップで、あやうく、もう一回気絶するところだった。
「私……」
「低体温症だ。軽度でよかった」
翔が白湯の入ったカップを差し出す。なぜか顔を背けている。
朱璃は体を起こし、カップを受け取ろうとして……そこが支部でも翔の部屋でもないと知った。
「え……えええッ?!」
そして、布団の下の自分は、下着姿だった。
「なんで?! ここどこ?! 私──!」
「落ち着いて聴いてくれ。まず、スケベなことは何もしてない」
こちらを見ないまま翔は答える。凰鵡は朱璃の剣幕にオロオロしている。
「察してるだろうけどここはラブホだ。直近で駆け込めるのがここしかなかった。服は冷えきってたから仕方なく脱がした。オレは朱璃ちゃんに触ってない。いいか?」
「あー……あーもーぅ」
カップを受け取ると、天井を仰いで呻いた(鏡張りだった)。
「穴があったら入りたい」
自分を睨んでぼやく。二人の特訓にしゃしゃり出て、ちょっとマネジメントに成功したと思ったらこのざまだ。
疲れのせいか、顔の半分が歪んで見える。
「お湯の入ったデカい穴があるから、動けそうなら入って来なよ」
といって翔が指差したのは、ほとんどガラスでまる見えのバスルーム。カーテンがなければ死んでも拒否した。
「……覗かないでね」
部屋から出ていけというわけにもいかず、しぶしぶバスルームに入った。
湯船に三〇分沈み、まだ冷えの残っていた体を芯から温める。
そして最後にシャワーで汗を流している最中、ふと我に返ったように、一日の出来事が頭のなかを流れていったのだった。
(ほんとは、お詫びもお礼も言わなきゃなのに……)
足が重い。どんな顔をして出ればいいかもわからない。
言葉を交わせば、ついムキになって大事なことを忘れてしまう。翔に対してはとくにそうだ。
(うん、ちゃんと言おう)
脱衣場に出て、アメニティの浴衣を着たところで……
──ああ……うぁ……ギシリッ、ギシッ……
(え……?)
ベッドルームから、男女の喘ぎ声と、木が軋むような音が聞こえてきた。
まさか、凰鵡と翔が──
「ちょっと、あなた達?!」
最悪の光景が頭に浮かんだ瞬間、脱衣場から飛び出して叫んでいた。
しかし、ビクッと震えた二人は、ソファに並んで座っているだけだった。
──ぎゃー……うわー……ギシギシギシッ──
声と音は、ソファに面した大きなTVから鳴っていた。
巨大なベッド型の怪物が、若い男女を壁際に追い詰め、押し潰そうとしていた。
映画のいち場面──しかもドの付きそうなB級ホラー。
安堵と恥ずかしさで、朱璃はガックリと肩を落とした。