凰鵡之章 Chapter:2
Chapter:2
刻は日を跨ぎつつある。
住宅街を駆け抜け、凰鵡は一軒の家の前に辿り着くと、スマートフォンから『来たよ』とメッセージを送る。
「おかえり。どうだった?」
玄関が開き、翔が迎えてくれた。
「ただいま。バレてない……と思う。キュイは?」
「そっちで静かにしてる」
リビングに入ると、翔が客間用の和室を指す。
襖をソッと開けると、奥から小さな毛玉が駆けてきた。
凰鵡が手を出すと、ピョンと跳び乗る。
「ただいま、キュイ」
ついさっき付けられた自分の名前を理解しているのか、仔蟆兎子は凰鵡に向けて「キュイ」と鳴いた。
支部に行っているあいだ、翔に匿ってもらっていたのだ。
無論、零子には「蟆兎子の親子を討滅した」としか報告していない。
眼鏡を外さないで──このときほど、零子にそう願ったことはない。
「追跡調査は必要ですが……ひとまず、凰鵡くんの今回の任務は完了とします。お疲れ様でした」
泊まってゆくよう薦められたものの、辞して事務所を出れば、今度は朱璃に捕まった。
普段ならもう寝ている時間だが、凰鵡をねぎらおうと思って起きていたらしい。そのことが嬉しいぶん、複雑な気持ちだった。
「泊まってくんでしょ。私の部屋来ない?」
顔が熱くなった。女の子からの誘いに、自分の半分が昂ぶる。
「ごめん、今日は帰る。ありがとう」
口惜しさともどかしさを堪えて断った。
半分は嘘だ。帰る先は自分の家ではない。
朱璃と別れ、支部をあとにすると、急いで翔の家に戻った。
途中、思い出して兄に連絡を入れた。
「ご苦労だった」
仔蟆兎子を殺したと言うと、兄は静かにねぎらってくれた。その声は、いつもより素っ気なく聞こえた。
「んーなになに? 凰鵡仕事終わったの? おつかれー」
維の声が割り込んだ。また家に押しかけてきたのだ。少し酒も入っているらしい。
モヤッとした苛立ちが、心の底から湧く。最近、兄と維がふたりでいるのを見ると、よくそうなる。
理由は分かっているが、止められない。
「翔の家に行きます」
苛立ちが声に出ぬよう、静かに告げて通話を切った。
胸が締め付けられるような痛みを抱えて、夜の街を走った。
「それ……そいつ、どうすんだ?」
ソファに背中を預けて翔が訊ねる。
その隣に座る凰鵡は逆に、身を乗り出していた。
ふたりの視線の先では、キュイが皿の牛乳を猫のように舐めていた。
蟆兎子は体内に取り込んだ食物から霊力を吸収する。少々の加工は施されていても、子供を育むための体液は、充分に役目を果たしてくれているようだ。
「うん……どうしよう」
凰鵡は不安げにつぶやく。ずっとここで預かってもらうわけにはいかない。
それに、今やっているのは、まだ妖種の知識に乏しい翔を利用する卑怯な行為だ。
それでも、キュイを殺せない自分にとって、頼れる相手は翔しかいない。
「そもさ、こいつ、飼っていいもんなの?」
「ん…………よくない」
葛藤したすえに、ギリギリのところで嘘をつけなかった。
沈黙。キュイが牛乳を飲む音だけが聞こえる。
「とにかく、話してくれよ」
翔の言葉に、凰鵡は目頭を熱くした。
「ごめん……ほんとに…………」
ことの顛末を、いちから話した。
「そうか」
すべてを聞き終えると、翔は考え込むように黙り込んだ。
その所作が兄のようで、凰鵡の心はもやつく。
「ヒトが近寄らない、山奥だったらいいのか?」
「うん。たぶん」
すると、翔はスマートフォンで衛生地図アプリを起動した。
「南にある山んなかに、洞窟があったと思う……たぶん、このあたり」
そう言って、画面を凰鵡に示す。
確かに人家から遠く、獣道の真っ只中という場所だ。
「ありがとう、翔。ボク行ってみる」
ちょうど牛乳を飲み終えたキュイを両手に持って、凰鵡は立ち上がった。
「待てよ」
翔が空になった皿を取り、流しに持っていった。
「あ、ごめん。ごちそうさま……キュイのことも……」
「オレも行く」
「え?」
「土地勘、あるほうがいいだろ?」
「……うん」
しずしずと凰鵡はうなづいた。
午前二時の真っ暗闇のなか、翔の示した付近を探索すること十五分。その洞窟は確かにあった。
深さは五メートルほどで、直径も凰鵡がかがんで入れる程度。洞窟というよりは熊の巣穴跡にも見える。
「翔すごい、よく知ってたね」
「……昔、親父に山登りに連れてこられたときに、見たんだよ。山道がそこにあったけど、土砂崩れで塞がってから、遠くに変わったんだ」
凰鵡の胸が苦しくなる。
翔の声が寂しそうに聞こえたからか、それとも、自分にはない父親との思い出を語られたからか。
「キュイ、ここにいてね。毎日、逢いに来るから」
穴の奥にキュイを放したが──
キゥ…………
仔蟆兎子は凰鵡のもとを離れようとしなかった。先ほど、寝ているあいだに翔の家に置いてゆかれたせいで心細くなっているのだろうか。
「ごめん、翔。ボク、翔の家に泊まったことにして」
「お前まさか」
「うん。今夜だけでも……」
「お前、自分の首、締めてないか?」
「……わかってる、けど…………」
ふたりの間に沈黙が降りる。枝葉と虫の音だけが、時の流れを告げていた。
翔も本心では兄と同じ意見なのが、凰鵡には分かる。
──殺すべきだ、と。
だが、今それを言わないでいてくれることが(たとえ欺瞞だとしても)嬉しかった。
「やれやれだ」
翔が洞穴の横に座り込んだ。
「翔?」
「乗りかかった船だしな」
「うん。翔……ありがとう」
そう言うと、凰鵡はキュイを抱え、洞穴のなかで身を丸くした。
こんな無茶に翔が付き合ってくれることが、今はただ嬉しかった。
翌朝、凰鵡達が目を醒ましても、キュイはまだスヤスヤと眠っていた。蟆兎子はもともと夜行性だ。昨夜もおおむね寝ていたが、産まれたばかりで体力が備わっていないのだろう。
凰鵡は着ていたパーカーを脱ぎ、そっとキュイを包んだ。
(かならず、また来るから)
そして、静かに山を離れた。