凰鵡之章 Chapter:1
【前書き】
※本作は『降魔戦線』シリーズ(https://ncode.syosetu.com/s8577g/)の第4作目であり、前作『呪胎編』の後を描く外伝作品となっております。前作までの内容を踏まえた描写が多数あることをご了承ください。
※本作にはグロテスク及び性的表現が含まれます。
※また宗教的なニュアンスを想起する語句がありますが、本作はいかなる宗教および団体とも関係はありません。
Chapter:1
満月が雲にけぶる。
麓の街明かりを眼下に、アスファルトの山道はまるで重油の川のごとく、空よりもなお黒い。
踏み込めば呑まれそうな闇の上を、凰鵡は走る。
息は荒く、眼はせわしなく周囲を警戒している。
「ッ──?!」
突然、足下から何本もの闇色の触手が立ち昇り、凰鵡を包み込もうとする。
間一髪、真上に跳躍して捕縛を免れる。
と思いきや、さらに上空から、それは襲いかかってきた。
毛むくじゃらの丸い体に、何枚もの翼を生やしたような────
「──!」
凰鵡は倶利伽羅竜王を繰り出し、天にかざしていた。
キィ────
甲高く短い悲鳴。おぼろな月影のなか、光刃が襲撃者を貫いていた。
(しまった──!)
竜王が刃を呑み、顎を閉ざす。
凰鵡がアスファルトに着地すると、襲撃者もまた、目の前に墜落した。闇の触手は消えていた。
折りしも雲の幕が流れ、その正体が生の満月に曝される。
体長五〇センチほどの、長い柔毛に覆われた生き物だった。
体は玉のように丸く、手足が何処にあるのかはよく分からない。兎のような長い耳らしきものがあるが、本当に耳なのかも不明だ。恨めしそうに凰鵡を見上げる顔は、獣というより、どこかカエルを思わせる。
(蟆兎子──?!)
容姿を現すようなその呼び名を、凰鵡は知っていた。
キ……キゥ……
それは毛を震わせ、山野へと飛び込んだ。
「あ、待って!」
呼びかけても無駄なのは分かっていた。蟆兎子は人語を解する種ではない。
「ぅ……」
追いかけようとして、凰鵡は路面に残ったものに立ち止まる。
常人には見えない、色のない液体。
エクトプラズム──蟆兎子の血でもあり、武器でもある。これを自在に操って、自分より大きな相手も狩ってしまう。さっきの触手も、蟆兎子が作りだした罠だ。
凰鵡はあらためて妖種のあとを追った。
繁る枝葉が月光を遮る、真っ暗闇の獣道。
音を立てぬよう慎重に進む。
土や樹に附着した血痕のおかげで、見失わずに済みそうだ。霊的物質のため、視力に関係なく凰鵡には視ることが出来る。
だが、迷いが歩みを臆病にさせる。
(どうしよう……どうしよう……)
今夜ここへ来たのは、近辺で続発する行方不明事件の調査のためだ。その犯人が蟆兎子なら納得がゆく。
だが、蟆兎子は本来、人が入れないほどの山奥に生息する妖種だ。こうも里近くにいる理由は分からない。
討滅を禁じられてはいないが、出来れば傷つけることなく山奥に返してやりたかった。兄ならそうするだろう。
それが、軽率な反撃で深手を負わせてしまった。逃げはしたが、そう長くは保たないだろう。
竜王から伝わってきた手応えは、それが命を奪う一撃だと教えていた。
(ごめん……ほんとに……)
悔やみ、謝りながら、凰鵡は血痕を追う。
やがて、一本の大きなブナの木にたどり着いた。
太い枝の上に、蟆兎子は身を横たえていた。
凰鵡が登って近づいても動かない。息絶えたかと思ったが、そうではなかった。
幹にできた瘤に向かって、一心不乱に毛をなびかせている。
その毛から瘤へと、霊気が流れ込んでいる。
凰鵡は息を詰まらせ、胸を押さえた。
やがて、霊気が途絶えた。
そして蟆兎子は砂が散るように消え去った。
直後、幹の瘤が割れた。
「ッ……?!」
瘤ではなかった。エクトプラズムによって擬態させられた卵だったのだ。
……キゥ……
裂け目から、体長五センチほどの小さな蟆兎子が産まれた。目が開いていない。親の匂いを探して枝の上をフラフラと這う。
そして次の瞬間、足を踏み外した。
「あ──!」
凰鵡は枝を蹴って地面に飛び降りた。
ダンッ──木の葉と土を撒き散らして着地し、蟆兎子の仔を受け止める。
小さな毛玉は驚いたように身を震わせたが、やがて凰鵡の両手に顔をこすりつけ始めた。
(ああ……どうしよう)
今度は、凰鵡のほうが震えた。
(落ち着け、落ち着け……とにかく……)
蟆兎子を片手に、ズボンのポケットからスマートフォンを出して電波が届く場所まで走った。
「どうした?」
二回のコールで顕醒が出た。
(なんで、兄さんに掛けたんだ……?)
本来なら支部長に相談すべきなのに。
反射的に兄を頼る癖が抜けない。
ようやく単独調査を任されるようになったというのに。
「凰鵡?」
「あ、はい。えっと……」
落ち着け、落ち着け。自分に言い聞かせる。
「調査中に蟆兎子に襲われて……それを討滅してしまって……」
兄は黙って聴いている。
「それで、えっと……その蟆兎子に子供がいたんです」
自分の運命も知らず、小さな毛玉はもぞもぞと動きながら、ときおり凰鵡の指に吸い付いてくる。
「本当に、小さな子供なんです。産まれたばかりみたいで、ヒトも襲えそうにないし……どうしたら……」
嘘をついた。〝みたい〟どころではない。
「たしかに蟆兎子か?」
「え? はい。前に資料で見ました。似てる種って、いませんよね?」
「ない」
しばらくの沈黙。
やがて、小さな溜め息が聞こえた。
「殺せ」
めまいと浮遊感が凰鵡を包む。
「親を手にかけたなら、どんなに小さくともヒトを敵視する。そうなってからの保護に成功例はない」
「そう……なんですか……?」
意味のない質問だった。
「親を通してヒトの霊力の味を覚えていれば、なおさら危険だ。次の犠牲者が出る前に殺すほかない」
兄の言葉が遠い声のようにぼやける。
凰鵡の求める言葉がなにも出てこない。
欲しいのは、殺さねばならない理由ではない。
いっそ、すべてを打ち明けようか。
だが、その勇気が出ない。
もし何もかもを話して、それでも「殺せ」と言われたら……嘘を吐いたことを怒られたら…………
「気が咎めるなら、私がそちらに行く」
「……大丈夫です。ボクがやります」
声の震えを殺して、凰鵡は通話を切った。
スマホをしまい、仔蟆兎子を両手で包む。
さわさわ……エクトプラズムの柔毛が掌をくすぐる。
このまま握れば、潰せる。
やれ。いま殺さなければ、犠牲者が出る。
両手の包囲を縮める。
……キゥ……
小さな命も、身を縮める。
ためらうな。これまでも、危険な妖種を何体も殺してきた。それが自分の仕事だ。
兄のようになりたいのだろう?
その兄が、殺せと言ったのだ。
スゥ──凰鵡は深く息を吸った。
懊悩を振り払い、決意を腕に込める。
そして────
「…………ッ!」
ゆっくりと開いた両手の上では、小さな命がスゥスゥと寝息を立てていた。