紫藤之章 Chapter:2
Chapter:2
「前、よろしいですか?」
黄色がかった冬の夕陽が差し込むラウンジ。声を掛けてきた零子に、紫藤は少し驚いてから「どうぞ」と応える。
ボックス席の向かいに腰を下ろした零子は、テーブルの上を見て苦笑する。
書類、ノートPC、スマートフォン、真っ黒いコーヒーの入った紙コップ──その隣では空になった同じカップが四段重ねになっている。
「すこし休んだ方がいいのでは? 今日は翔くんも来るのでしょう?」
零子は両手に持っていたカップの片方を紫藤の前に置いて、もうひとつを自分で飲んだ。
両方ともココアだ。
「ええ、そのつもりです」
コーヒーの残りをひと息に飲み干し、五段重ねにする。ここではこれが限度と決めている。酒は飲めないしタバコもやらないが、頭を使うときにはひたすらカフェインを摂ってしまう癖がある。翔が似てこないか心配だ。
「前回の件の追跡調査ですか?」
零子が訊ねる。
「ええ。せめてマヤ達の身元だけでも分からないかと思って」
あれ以来、紫藤は十五歳前後の行方不明児の記録を虱潰しにしていた。現場にはDNAが採取できるような肉片すら残らなかった。名前も研究所で付けられたもの。手がかりはミーヤの記憶にあった変異前の二人の容姿だけ──しかも維の脳裏を零子が視て描いた人相書きだ。
「そのことも含めて、紫藤さんにご相談が……」
「なんでしょう?」
「提出していただいた報告書を、裏で流出させようと考えています」
紫藤は即応できなかった。
「支部長の案ですか?」
「ええ」
「……鳴夜捜索と、日本政府への牽制ですか」
「そうです」
研究所に関する質問状を防衛省に送ってはみたが、いまだ返答はない。
妖種の能力を研究すること自体は衆でも行っている。だが人体実験や、非敵対的妖種の狩猟は固く禁じられている。
まして田島達の計画は妖種能力の兵器化だった。離れた相手の心を読み、念じるだけで粉々に破砕する。
そんな人間を大量に生み出して、何と戦おうというのか。
おそらくは妖種だ。
妖種事件そのものは多くない。だが、対処できる人材はもっと少ない。命の危険も多分にある。細胞移植ひとつで人材を確保できたら……この道に関わるものなら、一度は考えてしまう。
また、おなじ研究を他国が完成させ、軍事利用したら、という危機感もある。兵器開発競争──これも、永遠に繰り返されるだろう人の業だ。
そして今回、その業のひとつが、多くの犠牲を生んだ。
「物的証拠がないのを幸いにしてか、政府は沈黙を通しています。このまま正攻法を続けても進展はないでしょう」
「悪評を流布して藪を囲みますか──いつでも突けるように」
温和で真面目な零子だが、場合によってはどんな手段も辞さない怜悧さを秘めていることを、紫藤はよく知っている。
「報告書の作成者として、許可していただけますか?」
零子の問いに、紫藤は静かにかぶりを振った。
「リスクが大きすぎます。情報漏洩となれば支部長の立場が危うくなりますし、警察組織との連携にも悪影響が出かねません。自分は反対です」
「……そうですか」
ため息とともに、零子はうつむく。
その視線の先を追うように、紫藤は出されたココアを取って、口を付けた。
「……私が断ると分かっていましたね」
零子は憤っているのだろう。それを否定はしない。紫藤とて同じ気持ちだ。
だが、義憤に任せてみずからの立場を危険にさらして欲しくはない。
《三眼の麻霧》という名が示す眼の三つめは〝慧眼〟。彼女本来の智慧である。
謀略や、詭道であってはならない。それは自分の役目だ。
「鳴夜が私に寄越した告発文を、それとなく他組織にも渡らせましょう──鳴夜本人がばら撒いている体で」
零子が顔を上げた。
「ミーヤ達の名は伏せて、彼らの手がかりに繋がる情報と、細胞元の妖種達、政府と研究所との癒着も書き加えておきます。周辺の緊張を煽ることになりますが、うまくすれば新たな証言や動きが現れます。情報源が鳴夜とあれば、政府も迂闊には動けないでしょう」
紫藤の案に、少し考えてから零子は応えた。
「わかりました。ではその手段で。早急に、情報部へ辞令を──」
「いえ、この件は私ひとりで」
「導星さん?」
「よしんば拡散したのが私だと気付かれても、まったくのデマでない以上、大事にはならないでしょう。しかし万一の際には、私の独断ということにできる」
「それは……容れられません」
「支部長?」
「あなたを消すときは、私も消えます。それくらいの責任は負わせてください」
自分を抱くように、零子は右手で左腕を強く掴む。
話が平行線に陥ったと、紫藤は悟った。
「出過ぎた提言でした。この案は、保留させてください」
「そうですか。いえ、ごめんなさい。休めと言いながら、結局こんな話ばっかり」
「構いません。急を要するのは事実ですから。出来れば今夜のうちに方針を纏めたいのですが、部屋とお時間をいただいても?」
そう訊ねたときだった。ラウンジそばの階段を伝って、階下から「お疲れさまです」と翔の声が聞こえた。玄関の守衛に挨拶したのだろう。
紫藤は机の書類をブリーフケースへしまい込む。
「翔くんも、一緒に泊まってゆかれますか?」
零子の提案に、紫藤は眉を顰める。
「訓練が終わったら、アイツは帰らせます。凰鵡くん達と会う予定があるらしいので」
「それはいいのですが、彼との時間も、もっと必要では? ──肉親として」
「近いうちに、嫌でも二人きりになりますよ。ココア、ありがとうございます」
ケースを手にして紫藤は立ち上がる。
ちょうど翔が階段を昇り終えて、こっちを見つけた。
「先生、よろしくお願いします!」
叔父に対して、勢いよく頭を下げた。