第三話
おかしな話だ。先程までの自分は動かせない身体に絶望していたのに、今は制御出来ているのだから。
思う。果たしてありえる事なのだろうか?と。現状を理解していない訳じゃない。だけど、理性を失い食欲だけを頼りに彷徨っていた亡者が理性を取り戻した。そうして起こる筈だった悲劇を回避出来た。
確かに自分の頬を全力で殴った左腕。痛覚こそ無いが、その衝動で抜けた歯が幾つか道路に転がり落ち、赤い液体と透明な液体が混じり合って飛び散る。
目の前の彼女はそんな様子を虚ろだった瞳に光を取り戻して眺め、そして呆けていた。一体何が起きたのだと。しかしいつまでもそうしている訳には行かない。許されないんだ。ここには自分以外の亡者が何人も居て、未だ他の人々を喰らっているのだから。
確かに取り戻した身体の制御権を確認するかの様に慎重に立ち上がり、右腕の拳を開いて閉じてを何度か繰り返した。うん、感覚こそ無いけど、普通に動かす事が出来る様だ。
道路に転がったまま呆ける彼女の両腕を掴み、力を入れ過ぎない様にゆっくりと起き上がらせる。腕を伸ばした最初こそこちらを警戒してかピクリと肩を震わせた彼女だが、こちらの動きに敵意が無い事に気付くとすぐに体重の移動に協力してくれた。
そうして立たせた彼女の両目と一瞬だけ視線を交わし、コクリと頷いて未だ悲鳴が聞こえる背後を向く。
喰らった人の肉がもう無い食道から胃へと移動しようとして道路へ転がり落ち、しかし気にしない様子で食事を続ける亡者達。
「ひぁ……」
それを見た彼女が小さく悲鳴を零し、恐怖に震えて縮こまってしまう。そんな彼女を背後に隠して亡者達の様子を見守る。どうしたものかと。亡者達は一人や二人では無く、大勢いる。なら戦うなんて選択肢はありえない。自分が勝てたとして、やっと制御権を取り戻した身体を百信用できる筈が無い。守りながら戦う事が出来る訳が無い。こいつらの弱点も、強さも理解できていないのだから。
今の自分の脚力と腕力なら彼女を抱えて逃げる事は出来る。けどその後はどうする?
彼女を一人にして生きていけるだろうか。ならば自分が守るべきか。そう考え付くも即座に自分の中で否定する。自身が身体の制御権を取り戻す事が出来たのはこの時だけなのかもしれない。また理性が食欲に蝕まれ、人を喰らう様になる可能性がある。今自分に出来るのは、一刻も早く彼女を信頼できる人々に預ける事だ。
「ヴぉえア゛ら、イヴぃを゛……」
背後に居る彼女に声をかけようとしたが、家族だったモノ達に喉を噛みちぎられた事を思い出す。何かを言葉にしようとした事が伝わったのか困惑した表情を見せる彼女。
その時だった。
遠くがほんのり明るくなり、荒げた叫び声で近付いてきた人達。彼らは鉄パイプや手斧、松明の様な物を手に持ち全力で傍のゾンビ達の方へと駆け、そして手に持った物を叩きつけていた。狙うは頭だ。脳を潰してしまえば亡者達は動けなくなるらしい。全身に厚い服を着用した彼らはかなり戦い慣れている様で、難なく奴らを制圧していく。
このままでは自分も敵対されてしまうかもしれない。そう思い背中に隠れていた彼女へと向き直り、彼女を指さし、地面を指さす。ここに居る様にとジェスチャーでお願いしてみる。
意図に気付いた彼女は一生懸命頷き、それを確認して彼女を置いて走り出す。人々が来た方向とは反対側へ。途中ですれ違いそうになった亡者達の頭を思いっきり殴り飛ばし、脳をつぶしながら。思ったより脆い奴らの頭部は容易くぶっ飛ばす事が出来た。
気付けば随分と遠くへと来ていた。見渡しやすい擁壁へと登り、上から先程彼女を置いてきた地点を眺めてみる。ちょうど一際ガタイの良い男性に保護されている様で、近くに置いてあった登山用のリュックから出されただろう毛布をかけられている。
良かった。
もう機能してない肺から一息つく。自分が彼女に襲い掛かる心配はこれでもうしないで済みそうだ。心奥底からの安心感を静かに噛みしめ、そして思考を数分前へと戻してみる。
何故身体の制御権を取り戻す事が出来たのか。そう考えながら疲れては居ないが、擁壁の上に腰をかけて青黒くなった足をぶらぶらさせてみる。ちぎれる様子はなく、もっと言えば感覚も無い。制御権が戻って来たとは言え、身体の調子が戻った訳では無いらしい。眺めてる場所から視線を外さないで拳を作って隣の地面を思いっきり叩いてみる。良い音と共にコンクリートにひびが走る。拳を持ち上げてみると破片がパラパラと握り拳の指から離れて落ちた。
と同時に妙な違和感を感じる事が出来た。作った拳に目をやると握りこぶしの指が潰れてる事に気付いた。いくら人間の限界を引き出せる身体になったとしても、所詮は人間の限界。全力でコンクリートを殴れば、肉は潰れ骨も折れたり砕けたりするらしい。
幸い痛みが無い事に安堵しながら、潰れた指をぶらぶらさせてまた遠くに集中する。毛布をかけられて保護された彼女は数人の大人に囲まれ、水筒を受け取って水分補給をしていた。どうも話を聞かれているらしい。
それもそうだろう。他の者達の全てが死んだ場所で一人だけ無傷で生き残っていたのだから。一般的にその状況が意味するのは、よっぽどの幸運の持ち主か、実力者。あるいは殺人鬼か。
彼女が何を言ったのか聞き取る事は出来ないが、彼女が口を動かす度に周りの男たちが驚愕した表情になっていく。おそらく亡者に守られた事を告げているのだろう。果たしてそれがプラスに動くか、マイナスに動くか。
暫くして黒いピックアップトラックが到着するのが見えた。彼女を先に荷台へ乗せ、他の男三人がそれに続いて乗り込む。
グループから離れ一足先に拠点に戻るのだろうか。彼女らを乗せた車は静かに走り出し、街とは反対側の田舎の方へと消えていく。
残った者達はというと、先程言った一際大きい男と何人かが互いに近寄り、言葉を交わし始めた。時々彼女を乗せた車の方向に視線を送りながら。
取り敢えず彼女が保護された事に安堵しながら後ろへと倒れ込む。それで身体の調子が何か変わる訳では無いが、人だった頃の意識からそうしたかったのだ。
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