1.ルミエーラ 黒執事といきなりバトル
「ふう……」
吐き出した吐息に疲れが混ざる。
まさか、ルゼルヴァリアの首都から海峡を渡り隣の大陸に渡られていたとは……
居ても立っても居られず屋敷を飛び出したのが三ヶ月前。
戦時中ということもあり国境を越える鉄道は封鎖。よもやの徒歩による峠越え。しかも野山を越えてる最中に山賊に襲われるし、危うく奴隷商人に売り飛ばされそうにもなった。
これ、私に文才があったら『令嬢の一人旅』とかってタイトルで書籍を出せるんじゃないだろうか?
「よっこいしょっと」
木の陰に腰を下ろす。
「ふぅ、疲れたわい……と、いかんいかん、油断するとすぐにじじぃ言葉が出てしまうのぅ」
前世の記憶を思い出して三ヶ月。
色々と混乱することもあったが、それも今は昔。私が図太いのかそれとも年の功なのか、まぁ今はそれなりに馴染んでおるが……
「考えたところで仕方も無いか。さて、あともう少し。あの丘を越えれば、レイ坊ちゃまが住まわれるルーデリア子爵家の避暑地があるんじゃが……」
それにしても思い出しても腹が立つ。
戦えないという理由だけで、坊ちゃまを不要と見切りを付けたご当主がレイ坊ちゃまをこの館に追いやるとは。
昔は、ご当主様も心優しいお方だったというのに、どこでどうねじ曲がったら自分の息子を追放するなどと言う愚行を行うのやら……
しかも、レイ様の弟君を跡継ぎにするとは。
……失礼ながら、レイ様と比べて弟君は確かに優秀な方だった。
だが、人間性は正直……
いや、そもそもが貴族という物にまっとうな人間性というのを求めるのは間違いなのかも知れない。だが、どんなに大人げないと言われようと、私はレイ様とは真逆な、人間性を母体に忘れてきたかのようなあの弟君を好きにはなれなかった。
それに、町中で情報を集めるうちに驚いたこともあった。
何と驚くべきことに、あの救いようが無かったルーデリアの財政状況が好転しているというではないか。しかも、それがレイ坊ちゃまが厳選した茶葉だというからさらに驚きだ。
いや、驚きはそれだけでは無い、カーヴェル家がメインで取り扱っている茶も、坊ちゃまが厳選した茶葉だったという事実。
レイ様、ご立派になられて……
だが、そんなレイ様の功績を無下に踏みにじったルーデリア子爵家。
ルーデリア子爵家には前世に受けた恩義はあれど、今世においては関係の無い話だ。しかも、あの心優しいレイ坊ちゃまを追放するような者達に忠義など尽くせませぬ。
我が忠義はレイ様にあり。
あり、なのですが……
さっきから何でしょうか、このネットリとした絡みつくような視線は?
レイ様の物とは明らかに違う、あまりに殺伐とした殺意と邪気に満ちた視線。
はて? 何処かで覚えのある気じゃが……気のせいか?
ま、今はそんなことを考えている余裕は無さそうだ。
スカートの中、ガーターに刺したナイフを両手に構――
「いっ!?」
それは、あまりに突然だった。
ナイフを取ろうと下を向いたら、私の小柄な影にもう一つの影が重なったのだ。
反射的に前方に回転する。
「ほう、良い反応ですね」
良い反応もクソも無い。
何事も無かったみたいに淡々と言ってくれるが、何処の誰だか知らないこの執事風の男、私の首があった高さをショートソードでためらいも無く薙ぎおった。
正直まぐれだった。本当に運が良かった。そうでなければ、今頃首が吹き飛んでいた……
「貴方、どこのアサシンですか?」
「失礼ですね。私をアサシンなどと言う無粋な職業と一緒にしないでください」
「なら、貴方の正体は?」
「答える義務は無いと言いたいところですが、喩え何者が相手であろうと礼を欠く行為は主の顔に泥を塗るのと同じ。私、レイ様の専属執事のレインホルスと申します」
「レインホルス……」
はて、どっかで聞いたような? 聞き覚えがあるということは、私が思い出し切れていない前世に纏わる相手の可能性がある。
とは言え、今は思い出しきれないことにかかずりあってはいられない。
まずはこの厄介な自称執事をどうにかせねばなるまい。
しかも、レイ坊ちゃまの専属執事を自称する以上、手荒く扱う訳にも――
?? 何処に行!?
ほんの一瞬、瞬きした瞬間に姿を消したレインホルス。
ゾクリと背筋に冷たい殺気が走り抜ける。
横に反転すると同時に、脇を駆け抜けた銀光。
この男、またいつの間にか私の背後に!
「ふむ、忌々しいことですが二度も回避されたとあってはまぐれとは言いがたいかもしれませんね」
「ほぼほぼというか完全にまぐれなんですけどね。ところで気配を消して人の背後に現れるとか、貴方本当にアサシンなんじゃありませんか?」
「先ほども言いましたが、そのような無粋な輩と一緒にしないでください。私は執事です。そして、執事とは主の影となり付き従う存在」
「執事のお仕事ぐらい私も知っています」
「黙って聞きなさい小娘」
「ぐぬっ」
「執事とは決して目立たず、主を立て、そして影ながら主を守らなければなりません。他者に気付かれず、時には主にさえその存在を悟られないよう気配を消す必要があるのです。そう、己の存在を消しきる究極のストーキング能力を身に付けた者のみが、真なる執事と呼べる存在なのです」
「……そこがわからない」
「ふん、小娘如きには永劫に辿り着けぬ境地があるんですよ」
レインホルスが薄く微笑む。それは凍てつくほどに冷たく、この世界に属する物とは思えぬ酷薄な微笑み。
「さて、貴女とのつまらない遊びにもう何分使ってしまったことでしょうか? 私、これでも忙しいのですよ。なにせ執事ですから。ですので、もう終わりにさせてください」
爆発的に膨れ上がっていく殺意を前に、私の身体は為す術無く硬直していく。
もうすぐレイ様に会えると言うのに……
よもや、ここまでか。
「執事の仕事、執行させて頂きます。塵は塵に灰は灰に……」