4・ルミエーラ 孫の痴態、祖父の苦悩
「お早うございます、レイ様。本日は午前中は市井の視察となっております」
……
「馬車を入り口に回しておきますので、今しばしお待ちくださいませ」
…………
「レイ様、南方に雨雲が見えます。視察中にも降る恐れがありますので、レインコートも車内に準備しておきました」
う~ん、小姑のような口五月蠅さは伊達じゃ無かった。なかなかどうして私の孫はしっかりと仕事をしている。
そう、じゃな。『『老兵は消え去るのみ』などという寂しい言葉もあるが、過去に死んだ者ならば尚更に出番はないのかも知れない。
頼もしいやら寂しいやら……
いや、これが正解なのだろう。
私の時間は十四年前のあの時に止まってしまった。だが、レイ様もホルストも今の時代を生きる身。止まっているはずはないのだ。
なれば亡霊は消え去り、この身は本来の持ち主に返すのがすじであろう。
そう考え、ほんのり寂しくも安心していた時期が私にもあったのですよ。
ええ、あったのです。
本当にね、あったのですよ……
「ん、あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ!」
それは不意に聞こえて来た呻き声。
昼間、レイ様の着替えをお手伝いしたときに気が付いた、ホルストの血走った眼。
その眼が妙に気になり悩んでいたその日の晩、眠れずに夜の屋敷を徘徊していた時のことだ。突然に通路の奥から聞こえてきたのは、牛を生きたまますり潰したかのような呻き声。
「な、何よ、この屋敷は獣でも飼ってるの?」
恐怖の余り、思わず乙女時代の語尾に戻る。
あれ? だけど今の声はホルストじゃ? ふと思い出したのは声音の主。
「あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……わ、私の、私のレイッさまぁあぁぁ!」
孫よ、一体何があったのじゃ!?
レイ様に何かあった――
だが、その後すぐに気付く。何かがあったのは、孫の頭脳の方であった。
急いで声のする方に向かってみると、ドアの隙間から覗く明かりと、そして、過呼吸のような鼻息。
背筋を光速で走り抜ける絶対零度の悪寒。
二人に何かあったのではと思い急いで来てみたが、心はそれを拒絶するみたいに部屋に飛び込もうとする身体の動きを止めた。
あれ、何だ?
私の長年の勘が覗くのは危険だと警鐘を鳴らす。しかも、その警鐘はとち狂ったみたいに叩きまくりの鳴りなくりだ。
なんだ? ここまで悪寒が走り抜けたことなど、私の人生では一度もなかった。それこそ、前世でご当主様の外遊に同行して船が海竜の群れに囲まれた際も、ここまでの緊張は覚えなんだ……
落ち着け、それほど危険な何かがこの部屋の中では起きているとでも言うのか?
指先が震える。思うようにドアノブさえも握れない。
こんな状況で、もし万が一にもこの中に敵が居たらどうすればいいのだ。いや、何があろうとも迷わず飛び込むべきだ。
だが、ホルストですら手に余る敵であったなら、今の私が正面から挑んだところで何も出来はしない。
落ち着け。中の状況を確認してから行動に移るんだ。敵が居たなら、確実に勝てなければ意味が無い。
どうじゃ、ここまでは私に落ち度らしきものは見当たらんじゃろ?
ああ、そうだ。ここまでは、と言うか途中からが大きな過ちだったのだ。
そう、『中の状況を確認してから』という判断全てが間違いだった。
ここで踏みとどまり、今日この時この場で起きたこと全てを聞かなかったことにして布団の中に潜り込めば良かった。
そう、本当にそうすれば良かったのだ……
それなのに私は、鍵穴から薄暗い部屋を覗き見てしまった。
そこから見えたのは、ガラス瓶に顔を突っ込んだホルストの姿だった。
そして、その瓶の中には綿のように詰まった……
「ん゛あ゛ぁ゛あ゛レ゛イ゛さまぁ!」
……え?
目をこらして見たら、瓶の中に詰められていたのは黒髪。
この屋敷で黒髪はレイ様しかいない。
まさか、あの瓶の中身はレイ様の髪の毛か?
???????
ホルストのヤツ、何をやってるんだ?
そう、このとき、この時点でもまだ引き返していれば、この後に襲いかかる暗黒のような絶望を知らなくてすんだのに……
ああ、私の馬鹿者めッ!
何故この先を覗き見してしまったのか、私自身を小一時間問い詰めたい!!
「すーはー……ん……ふぁあぁ!! 満たされる! 満たされていく! 私の肺に、赤血球に、ああぁあぁぁ! レイ様があぁぁあぁぁぁ! レイ様が私の中に!! 今、私はレイ様の香と一体化している!!」
……鼻っ面にドラゴンの頭突きを食らった気分だった。
えっと……あれ?
私、今夢を見ていた?
「レイ様に貫かれ、そしてレイ様を貫きたい!」
覗くのをやめて真実を拒絶したはずなのに、聴覚に暴力的に飛び込んでくる孫の奇声。
私の孫は……極上の変態だった。
あ、あれ……私の知っているホルストは、クールで真面目で、どこか危険な雰囲気を纏っていたはず。
間違ってもこんな感じの危険さじゃない!
だが、そうじゃったのか。ホルストのレイ様へのあの忠誠は、愛故だったのか……
前世の私の一族、ホルストが末代!
(※ 誤用)
だが、愛は自由だ。
何だ、絶望しているはずなのに、私のこの肉体の記憶が何故か奇妙なほどにわくわくしている……
何故喜ぶ、我がボディ?
そういや、この娘(私の転生体だが)の書籍には男性同士の恋愛小説が多かった気がするが……うん、ちょっと見てみたい気がしてきた。
じゃなくて、落ち着け私! 喩えこの肉体がそんな展開を望んでいたとしても、この肉体の主導権が今私の手にある以上は孫が望む関係を容認する訳にはいかぬ!
悩むんじゃ私、何が最良であるのかを……






