◆7 首吊り塔の花嫁
塔の真上には、銀月を覆い隠すほどの黒雲が渦を巻いていた。
それに呼応するかのように、青白い数多の人魂が塔の周りを回り廻る。十や二十では事足りぬ、数多の光は黒い渦に吸い寄せられるように集まってくる。恐らく、この都市にて十数年間、死んだ全てのものが。
それらは、塔の壁から伸びていった黒い鎖に絡め取られ、縛り付けられ、塔の上から吸い込まれていく。本来なら浄化の道となる筈の其処は、鎖が充満していた。
異変はそれだけにとどまらない。コンラディン家の屋敷の庭、その周りの森からも、鎖に巻き付かれた色褪せた骸骨達が根を千切り、土の中からもごりと姿を現す。人魂が虚ろな髑髏の眼窩に吸い込まれ、ランプのように灯ると、骸骨達はぎくしゃくと、生前の得物であろう剣や槍を掲げて歩き出した。
「ば、化け物の群れだ!!」
「きゃあああ!!」
屋敷の住人達は当然恐慌状態に陥った。我先に館へと逃げ込む者達を先導するのは三男坊のエールだった。
「皆、落ち着け! 家の中へ――うわああ!?」
カタカタと歯を鳴らす骸骨達が追い縋ってきて、溜まらず悲鳴を上げてしまった瞬間。僅かに空気を裂く音がして、骸骨達は粉々にその身を散らした。舞い散った青い火も吹き散らされるように、その姿を消していく。
「あ、貴方は……?」
「ご安心ください。こちらの館は私がお守りいたします」
かなり古めかしいメイド装束に身を包み、丁寧な礼をしたのは、年を随分と重ねた針金のように細い女性だった。
「申し遅れました、シアン・ドゥ・シャッス家にお仕えしております、ドリスと申します。お見知りおきを」
深々と礼をし、ドリスと名乗った老女は何か粉の入った小瓶を手に取り、蓋を取るとその中身を屋敷の周りに無造作に蒔いていく。
「茨の森を十重二十重、幼子よ眠れ深く深く」
謳うように呟いたその女性の声に、ふらりとエールの体が傾ぐ。他の者達もみな騒ぐのを止め、まるで夢遊病のようにふらふらと屋敷の中に戻っていく。
それを追うように地面の中からもごりと茨が生えて来て、まるで網目のように広がって屋敷を囲んでいく。骸骨達も攻めあぐねているようだ。
これで一瓶使い切ってしまったので、外套から二本目を取り出す。触媒の原材料については先日、急ぎで瑞香が用意してくれた為、突貫ではあったが数を増やせた。これで一晩は防衛出来るだろう。
「うむうむ、ご苦労だったドリス。用意は良いかね?」
「仰せの通りに」
屋敷から出てきた饅頭のように丸い主に、ドリスは深々と礼をして、特注の上着をその肩にかけた。
「では、行ってくるよドリス」
「仰せの通りに。ヤズロー、必ずやお役目を果たすように」
「はい、ドリス様」
しっかりと頭を下げてから、のたのたと走っていく主の背を追う弟子の姿を見届け、ドリスは魔女として愛用の樫の杖を構える。
「退きなさい、悪霊の尖兵達よ。僭越ながらお相手は私がさせていただきます。ぼっちゃまの――失敬、旦那様のお心を乱すような行為はお控えくださいませ」
×××
「ンッハッハッハ、これぞ終焉の日とでも言うべきものかね!! 向こうも大盤振る舞いのようだ!」
「旦那様、繰り言を言っている暇があるならもう少し早く足を動かし下さい」
「これが全力であるよヤズロー!! いざとなったらまたこの背を蹴り飛ばしてくれたまえ!!」
「恐れながら、最後の手段に致します」
幸い、ビザールの外套には「身軽」の呪いも仕込まれているので、息が切れる前に塔の前には辿り着けた。やはりこちらが古戦場としては本番らしく、次々地下から出てくる骸骨に暇がないが、断続的に襲ってくるだけの空虚な傀儡は、全てヤズローの槍斧に吹き飛ばされる。天の黒雲はさらに分厚くなり、渦を巻くそれはまるでこちらを睥睨する巨大な目のようだった。
悍ましい光景に、しかしビザールはいつもの様子を全く崩さず、タイを直してさっと前髪に櫛を通す余裕すら見せた。
「さて、それでは参ろうか。ここは頼んだよヤズロー、邪魔が入らないように」
「お任せください。旦那様も、女性に恥をかかせるようなことはなさらぬように」
「ンッハッハ、言うようになったなヤズロー! ――しばし待て!!」
言葉だけは格好よく決めて、丸い体をぼんぼん弾ませながら塔に駆け込む背を見送り、ヤズローはしっかりと塔の入り口を閉じる。そして改めて銀色の戦斧を両手で構えた。
骸骨達は全く動きに躊躇を見せず、ただ数を揃えてヤズローを蹂躙しようとする。戦としては正しい判断だ、いかな強い騎士でも一人では十の雑兵に劣る。それが百では、千では? とてもかなうまい。
しかしヤズローの気迫は全く衰えることなく、ずしりと重い切っ先を、体幹をぶらすことなく構え、銀の具足を地面にめり込ませんばかりに一歩踏み出す。
「ここから先には行かせない」
カタカタと骸骨の顎が鳴る。笑っているのか、それは辺りに伝播し、耳障りな不協和音になる。それでもヤズローは怯まない。
「今、我が主は己の人生を賭けた、大切な行為を行おうとしている。それを邪魔する奴は、誰だろうと許さない」
ぐ、と手甲に力を込める。ゆっくりと持ち上げられた槍斧の刃先が、八双に構えられたヤズローの肩上に伸び上がる。ぐ、と体を捻り、骸骨達が一斉に駆け出すと同時。
「――ぅお、らァッ!!」
銀の一閃は旋風となり、ありったけの死骸を薙いだ。
ぼきぼきと、軽々と、骨が折れる音が辺りに響き、一度に十体。あるものは肋を、あるものは腰骨を、あるものは大腿骨を折られ、ぎしぎしと呻き声のような音をあげて地面に転がる。怯む者はいないが、一瞬動きを止める骨たちをぐるりとねめつけ、ヤズローは叫ぶ。
「――俺の、主の、邪魔をするなっつってんだこのデクどもがァッ!!!」
抑えに抑えていた怒りを気焔に変えて吐き捨てて、主と師匠に間違いなく叱られる悪罵を思い切り放った。
×××
『見るが良い、我が娘よ。これぞ終焉、貴様が望んだ有様だ』
眼下一杯に広がった骸骨と人魂の群れを見下ろしながら、リュクレールの顔はいつもよりも更に蒼褪めていた。今にも風に吹き散らされそうな細い体を、首吊り塔の渡し台の上で震わせながら。
『この地に染み込んだ数多の血肉は腐り、残されたのは純然たる抜け殻と恨みのみ。まさしく、まさしく我等に相応しい有様ではないか!』
嘲り笑う鎖の男――否、その姿は最早人の形をしていない。塔の上を覆いつくす天蓋の如く広がった数多の鎖が、蠢き、擦れあい、嗤う。
唇を噛み締めて、リュクレールは立ち上がる。何度も鎖の鞭で打たれ、彼女の体はあちこちが千切れ飛んでいる。霊質を削られたのだ。物質の血も少量だが零れ、石畳を濡らしている。
それでも――彼女の、魔の金と人の青を携えた二色の瞳は、絶望していなかった。取り落とさぬよう、布で掌に縛り付けた剣を構え、未だ徹底抗戦の構えを取る。
『ふん。どこまでも生意気な娘よ』
黒雲の中から伸びる鎖が一本、ずるりと持ち上がり、リュクレールが僅かに息を飲む。彼女に従おうとした霊達は皆、その鎖で黒雲の体に縛り付けられ、ゆっくりと取り込まれている。その中の一人、引き摺り出されたのは、ぐったりとした紫髪のメイドだった。
「……お、嬢様! どうぞお逃げくださいませ! 私共のことは捨て置き、どうか――あああ!!」
必死の言葉が、悲鳴で途切れさせられた。黒い靄から伸びた鎖で編まれた、まるで熊の様な鉤爪が、ヴィオレの体を簡単に引き裂いた。腹の中からずるりと赤黒い臓物が引き出される痛みと恐れに、ヴィオレが叫ぶ。
「やめて! やめて!! もう二度とその子を殺さないで!! やめてえええええ!!!」
「ヴィオレ! お止め下さいお父様!!」
『ふん。未だ未練にしがみつく哀れな霞共が、徒に逆らうからだ』
思い通りの恐怖と悲鳴を引き出せて満足したのか、鉤爪は闇の中に溶けて消える。だが無惨に引き裂かれたヴィオレの体はそのままだ。霊質を傷つけられた上、体を鎖と同化させられた身では治すことも出来ない。気を失うことも出来ずに苦しみ続ける大切な従者の姿に、リュクレールは浮かびそうになる涙を必死に堪える。それこそが、父の――他者の負の感情を食らうという目的であると知っているからだ。
『ふん、生意気な娘よ。貴様の悲しみこそが我が糧、憎しみこそが我が力。そしてお前の絶望こそが、我が身の甘露よ。いい加減、諦めてしまえ』
じわじわと黒雲が近づいてくる。取り込まれた霊達はもはや輪郭を失いかけて、ヴィオレもぐたりとしたまま動かない。助けは、こない。
リュクレールは――大きく息を吸い――吐いた。ぎゅっと両手で剣を握り締め、恐怖を押し殺す。若芽のように折れぬ姿に、不快そうな音が鎖の奥からしたことにも気づかずに。
「……負けません。わたくしは、負けません!」
『愚かな。これ以上如何に足掻く。お前の母親のように、お前が誘惑したあの男はもうおらぬぞ。今度は敬虔な神官でも、股を開いて誘ってみるか?』
あからさまな揶揄と侮蔑を、ぐっと唇を噛んで堪える。悲しんではいけない、苦しんではいけない、思うのならば――
(男爵様)
彼の事を思うと、別の思いが湧いてくる。謝罪もある、礼もある、だがもっとも彼女の心臓を揺らすのは――
「……あの方は、沢山の事をわたくしに教えて下さいました。そのような下種の勘繰りなどなさらぬとも、とても紳士的な方でした」
『何……?』
声が訝し気に問うたのは、その言葉の内容に対してではない。立ち上がり、まっすぐに悪霊を見詰める少女の顔が、まるで花が綻ぶように笑っていたからだ。
「お父様、貴方の思い通りにはなりません。貴方の指図も、もう受けません。わたくしは――あの方にもう一度胸を張ってお会いする為に、貴方と戦います!」
『ハ――ハハハハハハ!! 愚物めが!』
「っう!」
鋭く走った鎖の鞭が、少女の体を絡め取り、締め上げる。ぶらりと塔の中空に吊り下げられるが、リュクレールの顔には怯えも怯みも無かった。
『ならばこのまま縊り殺してくれる! その悍ましい肉の体を捨て、我が糧のひとつと成り果てよ!』
「――お好きなように! それでもわたくしは屈しません。お父様の魂を内側から切り伏せて差し上げます!」
『生意気な……ならば、こうだ!』
「っあう!」
「お、じょう様……! ア、アアア!!」
苛立ちの籠った声と共に、リュクレールの体が塔の屋上に放り棄てられた。同時にぐったりとしていたヴィオレの体が浮き上がらせられ、その四肢が黒い鎖によって引きちぎられそうになる。悪霊は勝ち誇り、その姿を晒して娘を見たが。
彼女は泣かなかった。ほんの一瞬、済まなそうな顔をしてヴィオレを見て――彼女としっかり視線を合わせてから、叫んだ。
「どうぞ、お好きなように! わたくしの魂はそのような脅しには、決して怯みませんので!」
『な、に』
動揺は確かだった。リュクレールにも解るほどに。人質を取るような輩は、人質が役に立たなければすこぶる弱い、何故なら人質を取らなければ戦えないのだから――男爵様の言っていた通りだ、とリュクレールは思った。そして、それによって出来た隙を、彼女は見逃すほど鈍くもない。
「――はっ!」
僅かな気合と共に、僅かに煌めく刃を構え、走る。狙うのは眼前に晒されたヴィオレの体――その首に巻き付いた鎖の端!
ぎん、と僅かな金属の音がして、鎖の欠片が散った。
「――お嬢様ッ!」
『小癪な!』
驚愕の声は二つ。体を解放されたヴィオレと、己の鎖が切り裂かれたことに気付いた悪霊の。
今にも崩れ落ちそうなヴィオレの体を背中に庇い、リュクレールはすっくと立つ。その手に銀細工の剣を構えながら。
「脅しには怯みません。わたくしは決して、ヴィオレを見捨てることなど有り得ませんから!」
「お嬢様……!」
未だ傷から血を流しながらも、ヴィオレは己の主に心底感じ入った視線を向け、感極まったように呟く。主に救われたこの魂、如何様にもお使いくださいとばかりに彼女の傍に控えた。少女は僅かに微笑み、しかし悲しそうに眉を下げてしまった。
「……ごめんなさい、ヴィオレ。これ以上は無理かもしれないけれど」
目の前の鎖の塊はどんどん膨れ上がっていき、周りの霊達もほぼ輪郭を留めていない。あれが塔の屋上に落ちてくれば、間違いなく彼女は従者ごと引き裂かれ、存在を無くしてしまうだろう。
「そのようなこと、仰らないで下さいませ。ここまでお気を使って頂いただけで、望外の喜びですわ」
しかし従者は全く怯まず、そっと主に寄り添う。ほんの一瞬、顔を見合わせて母娘のような主従は笑い、覚悟を決めた時。
『この――恩知らずガアアアアアッ!!!』
怒りに任せ、鎖の束が嵐のように二人へ向かって襲い掛かった。咄嗟にヴィオレがリュクレールを庇うも、耐え切れず二人揃って弾き飛ばされる。ヴィオレの体はまた半分以上が吹き散らされ、リュクレールは――塔の屋上から放り出され、どうにか渡し板にしがみつく。
「お嬢様ッ!」
『この塔に捨てられ! 死ぬしかなかった貴様を! 今の今まで我が鎖で留め、慈悲で生かしてやったのは我だ! その借りを返すことも無く逆らうとは何と無様な!!』
「……感謝は、しております。ですがわたくしは、貴族です。この塔にいる数多の死者に、最期の安らぎすら与えず苦しませ続ける行為を、見過ごすわけには参りません……!」
『黙れ黙れ黙れ……!!』
激昂が、巨大な腕に取って代わった。鎖で編み上げられた闇の鉤爪は、今度こそ彼女の体を容易く引き裂くだろう。
リュクレールは恐怖を堪え、どうにか渡し板の上に立ち上がる。震える体で、細い剣へ縋るように構える。
今度こそ、自分には死が与えられ、魂はこの男に粉々に引き裂かれてしまうとしても。
負けるわけにはいかない。
(男爵様、もう一度だけ)
生まれて初めて、持てた希望を捨てるわけにはいかないのだから――
「ちょおっと待ったあああああああっ!!!」
辺りに響き渡る大声に、周りの音がぴたりと止まった。その声に、誰よりも早く反応したのはリュクレールで、ばっと塔の中に続く階段へ振り向き、
「ちょっとま、っふ、げっほげほげほげほォエ!! ふぐゥ!!」
階段から体半分出した状態で限界を迎えたのか、蹲ったまま咳き込んでいる肉団子を目撃した。
「だ、男爵様っ!?」
あり得ない再会が起きている事に驚く前に、その息も絶え絶えな状態に、状況も忘れて慌ててリュクレールは駆け寄る。
「ンッハッハッゲフ、流石に一息に昇るのは無理があったねゲーッホゲホゲホォ!! できれば水の一口も、貰えると有難いのだがハァーッ」
「も、申し訳ありません今は少し……」
「ああいや、大丈夫ですよハァーッハァーッ、このビザールンッゲホ、これ以上貴女に御手間は取らせませんとも」
喋っている間に少しは息を整えられたらしく、立ち上がった男は丸い体をぽんぽんぽん、と叩いて埃を落とし。
「ふう、お待たせいたしました淑女。まずはお招きも頂かないのに詣でてしまったことをお詫びいたします。何せ少々、急がなければならないようで」
「あ、あの、男爵様」
『貴様、性懲りもなく何用か? その無様な姿、見ているだけで不愉快だ。塔の上から放り落として肉塊として散らせてやろうか』
周りを全く見ることなく、リュクレールにだけ話しかけてくるビザールに少女がおろおろと視線を彷徨わせていると、すっかり無視されていた体になっていた悪霊が苛立ち交じりの声を上げる。じわりと近づいて来た黒雲に、さっと男爵の極太の腸詰のような指が翳される。
「外野は黙っていてくれたまえ、今とても重要な所なのだ」
『な――』
悪霊が絶句する。これだけまがまがしい姿を晒し、いつでもこの男を縊り殺せる状態でありながら、この太った男は全くの無視を貫こうというのだ。あまりの言いざまに怒りも忘れて悪霊が呆然としているうちに、ビザールはとうとうと言葉を紡ぐ。
「淑女、あいにく吾輩は貴族と言えども家督は少なく、貴女に不自由をさせてしまうかもしれません。ですが少なくともこの塔よりも、広い世界へお連れすることをお約束しましょう。貴女が自由に泣けて、自由に笑える世界へ」
真っ直ぐな言葉に、リュクレールは思わず呼吸を忘れかけた。あまりにも場違いなその言葉は、まるで彼女にとって――
「だ……男爵様。あの、それは、どういう」
「おお、これは失礼、先走りすぎました。どうにも緊張しているようです、お恥ずかしい。では改めまして――」
そしてビザールは、短くて肉付きの良すぎる足をどうにか畳み、その場に跪いた。剣を握ったままの彼女の手を恭しく取って、その指先にそっと口づけ――外套の下からさっと、夜にしか咲かない月光草の小さな花束を、差し出して告げた。
「どうかこの吾輩、ビザール・シアン・ドゥ・シャッスの求婚に、応えて頂けませんか? リュクレール・コンラディン殿」
「――」
今度こそ、リュクレールの息が止まる。まさか、と思ったし何で、とも思った。そんな数多の驚きと疑問を、それ以上の喜びがあっという間に押し流そうとする。込み上げてくる様々な感情を堪えて、少女は必死に言葉を紡ぎ出した。
「だ、男爵様」
「はい」
「わ、わたくしはこの通り、人とも霊とも取れぬ有様です。貴方に相応しいとはとても思えません」
「吾輩の個人的な嗜好で言わせて頂けるのなら、色白で羽のように軽い、とても魅力的なお体だと思いますよ? 相応しいか相応しくないかで言うのなら、吾輩よりも貴女の傍に似合う男はいないと自負しておりますが」
「あ、あの! わたくしは、不義の子です。男爵様の家名に、泥を塗るやも」
「ンッハッハ! 今更泥玉の百や二百は看板にぶつけられておりますし、一つ二つ増えてもかすりもしませんな! それで貴女が苦しまれるのなら非常に不本意ですが、それしきのことから守れないと思われるのであればまた心外です」
「いいえ、いいえ! 男爵様のお優しさは、とても良く解っております。ですから、どうか、これ以上、ご迷惑をおかけするわけには――」
「結婚とは、互いに迷惑をかけられても良いと思う相手とするべきだというのが吾輩の持論でしてな。吾輩のこの求婚が、貴女に新しい痛みを与えてしまうとしても」
そこで言葉を切り、彼女の手を柔らかい両手でぎゅっと包み込む。
「貴女にそれよりも多く、喜びを与えるとお約束致しましょう。どうぞそのお返しなどは考えず、貴女が応えてくださるだけで吾輩は、一生分の喜悦を手に入れられますので」
そう言って、男爵は笑う。肉付きの良い頬っぺたをむにりと弛ませて。その顔は随分と愛嬌があって、決して逸らされることもなく――リュクレールの瞳から、涙が零れた。
それは決して、悲しみの証ではなく。溢れ出る喜びが声よりも先に形を成した結果だった。
「謹んで……お受け、致します。――男爵様ぁ……!」
まるで子供のように、少女は男爵に抱き付いて泣き出してしまった。今までの心細さと、張っていた虚勢も全て剥がれ落ちて、涙に代わる。ビザールの方は安堵と、歯噛みする悪霊に対し勝ち誇った顔のまま、彼女の背を優しく撫でてやった。
「男爵様! 男爵様!! ごめんなさい……ありがとうございます……!」
「謝罪は必要ありませんよ、リュリュー殿。さてさて、後は一仕事終えなければ」
すぐさま妻を愛称で呼ぶふてぶてしさを醸しながら、漸くビザールは悪霊の方へ向き直る。怒りに満ちた黒雲は数多の鎖を伸ばし、塔を覆い尽くす天蓋の網になっていた。決して逃がさぬと言わんばかりに。
『愚者共が。その舐めた口をそろそろ閉じろ、その魂を細切れに磨り潰してくれる』
はっと息を飲む妻となった少女の背をそっと撫でて宥め、男爵はやはり全く余裕を崩さずにその場に立つ。
「それはこちらの台詞だよ、初代コンラディン伯爵殿」
『ふん。吾の名を知っているのならば、この地全ての土地と民は我がものであると承知の上であろう。その出来損ないの娘に求婚だと? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある、それは吾の所有物だ。貴様如きに奪えるものでは無いわ』
じわじわと降りてくる禍々しい鎖の束を見ながら、ビザールは、ハッ、と心底馬鹿にしたように首を竦めてみちっと肉の音を鳴らした。
「やはり悪霊というものは実に時代遅れですな、リュリュー殿。己の立場を何も解っていない」
『何だと……?』
「良いかね? そもそも死者にとって現世の全てに対する所有権は無い。現コンラディン領を所有、支配しているのはコンラディン伯爵殿であるし、既に伯爵殿には、この塔の怪異の排除及び、リュリュー殿に対する求婚の許可を頂いている。お前は生者の世界に不法滞在している邪魔者でしかない。そんなものがこんな麗しい淑女を我が物顔で傷つけるなど、万死に値する。我が母の名に誓い、徹底的に駆除させて頂こう! ンッハッハッハッハッハ!」
得意の舌をぐるぐる回して言いたいことだけ言い、挑発するかのように高らかに笑う姿に、地を這うように低い声が怒りを吐き出す。
『……良かろう。その無駄な肉を全て削ぎ落して、日干しになるまで吊るしてやる――!!』
数多の鎖が天を衝く。まるで檻のように天を覆い、雨のように降り注いでくる。咄嗟に庇おうとするリュクレールから一歩前に出て、男爵は悠々と――その大口を開き、一言囁いた。
「頂きます」
じゃりじゃりと擦れる鎖の音が響き、沈黙。
反射的にぎゅっと目を瞑っていたリュクレールは、その違和感に、ビザールの肩に埋めていた顔をはっと上げた。
『ば――馬鹿な』
悪霊の声が漏れる。辺りにはたくさんの鎖が散らばっていて、
「ふーむん。歯応えは悪くないが、味は粗雑であるね。量だけならば満足できそうであるが」
嚥下する音の後に、口元を取り出したナプキンで拭いながら男爵が呟く。もう片方の手には、銀色に光るフォークが握られ、その先に刺さっているのは――霊体の鎖が一本。
「おっと、食べ残しは宜しくないね」
そう言って、男爵は笑顔のままその一本をぽいと口に放り込む。僅かな咀嚼音の後、彼は間違いなく――霊質を、食べた。ぺろりと唇を舐めて、一言。
「知らなかったのかね? 吾輩は悪食男爵。――悪霊を食らい、その身に封ずるものだよ」
『そんな、馬鹿な――!』
「吾輩の家は昔から、祓魔を生業としてきたが、吾輩には全くその素養が無くてね。昔から父に叱られてばかりさ」
伸びてくる鎖は、更に取り出した銀製のナイフですぱすぱと切り裂かれる。後ろのリュクレールへと向かったものも、何故だか男爵の口に吸い込まれるように動きを変えていく。嵐のような鎖の中で、半分ぐらいになってしまったヴィオラの体を如何にか抱き寄せた後、寄り添った男爵の背中が酷く熱くなっていることにリュクレールは気付いた。
「それ故に父は吾輩を如何ともしがたく――吾輩の腹にせめて役立つ術式を刻み込んだ。霊を集め、喰らい、封じる場をこの腹の中に作ったのだよ。そう正しく――この塔と同じものをね」
べろりと伸ばしたビザールの舌の上に赤黒い線で刻まれたのは、死女神ラヴィラの神紋。そこに吸い込まれるように鎖たちは飛び込んできて、また彼の歯で砕かれ、飲み込まれる。ふうと息を一つ吐き、男爵は尚も続けた。
「額に戦、右手に暴虐、左手に病、口に死、腹に崩壊を。当然、本来ならば壷や家屋に刻んで使用するものだからね。効果を発揮することは無く――業を煮やした父は、吾輩を地下墓地へ放り込んだ。あそこには溜まった淀みと浮かばれぬ霊が幾百といるからね。その中の霊を全て片付けるまで、出てくるなと言われたよ」
「男爵様――」
言われた事実の恐ろしさにリュクレールが息を飲むと、手と口をせわしなく動かしつつも、男爵は彼女の顔を見て笑う。大丈夫だ、と安心させるように。
「何日も何日も、外に出られぬまま、空腹に耐えられなくなった吾輩は、喰らったよ。喰らったとも。地下墓地に残っていた数多の霊質を。躊躇いもなく、容赦もなく。ただただ、腹を満たしたいがための獣の如く。その中に、既に埋葬された母も、一月後に様子を見に来た父もいたのにね」
「!!」
悪霊の鎖を食みながら、男爵の顔は一瞬だけ、途方に暮れた子供のように見えた。耐えられず、リュクレールは彼の背から手を回し、その体をぎゅっと抱きしめる。大きな腹回りには到底手は届かなかったが、小さく「有難う、リュリュー殿」という声は聞こえた。
『くそ、何故、何故だ――この体すら、引きずり込まれるだと!?』
悪霊の体は端からずるずると形を失って崩れ、黒い靄となって次々と男爵の口の中に吸い込まれていく。
「勿論、この吾輩、運動は頗る苦手なのでね。あまり動かずに食事を行えるよう、下拵えは完了している。この塔の一階、要の銀月女神の神紋と、吾輩の腹の崩壊神の神紋を、少々品が無いが、唾を付けて繋げさせて貰いました、淑女。事後承諾お許しを」
そこで、リュクレールもやっと気が付いた。吹き抜けの下に見える銀月女神の紋が、月も見えないのに輝いて、ぐるぐると渦を巻いている。それはまるで消化器官のように扇動し、この塔の中の空気を動かしているようで。
「この塔は既に、吾輩の腹の中も同じ。抵抗は無駄だよ、悪霊殿」
『有り得ぬ! このようなことが――!』
「さて、少し本気を出そうか。……リュリュー殿、申し訳ないが、ご自身とヴィオレ殿の身を第一に。細心の注意を払いますが」
巻き込まれる危険性がある、という言葉は、細い腕がそっと背に添えられた手で留められた。そして、小さく囁かれる鈴のような声。
「……大丈夫です。男爵様を、信じます」
「有難う、リュリュー殿。――では、一口に行こうか!」
『こんな! こんなことがあってたまるか! 貴様などに――貴様などに!!』
未練がましく叫ぶ悪霊の体は既に半分以上崩れている。彼に囚われていた霊達もその身を解放され、必死に男爵に吸い込まれないように抵抗している。
まるで台風のように霊質が渦を巻き、大口を開けた男爵の口に吸い込まれる一瞬前、悪霊が体を大きく振う。その身に繋がった数多の鎖の殆どを切り離し、塔を離れようとしたのだ。
『シアン・ドゥ・シャッスの封印も最早我には効かぬ! この塔の得手は糧のみ、それが無ければすぐさま捨ててやるわ――!』
「いけません、逃げます!」
半分は食われてしまったとしても、あれだけの容量があれば、寄る辺が無くともそう簡単には消えないだろう。慌てるリュクレールの背がぽむぽむと柔らかく叩かれ、口元をナプキンで拭いつつビザールは慌てなかった。
「ご安心ください淑女、吾輩の従者は優秀なのです。――ドリス、準備をしたまえ」
『仰せの通りに、旦那様』
不意に老婆のような声が聞こえてリュクレールとヴィオラが驚くと、男爵の胸ポケットからにゅるりと小さな翠玉色の蛇が頭を出した。かぱりと開いた口から、ドリスの声を発しながら。
『龍の息吹を解放致します。皆々様、少々お待ちくださいませ』
次の瞬間。ぶるりと身が震えるほどに辺りの気温が下がった。塔をぐるりと囲むように、地面がぴしぴしと凍り付いていく。春から夏になる節目の季節だというのに、その冷気は塔に向かいどんどんと広がっていく。
塔の周りの骸骨達も、氷の蔦に絡みつかれて動けなくなった。同様に伸びて来た氷を、ヤズローは気にした風もなく躱して踏む。具足に巻き付いて来たものも、全て切り飛ばした。
そして氷の蔦はみるみるうちに塔に巻き付き、上り――黒雲に飲み込まれようとしていた鎖の塊を捕え、引きずり降ろした。
コンラディン家の屋敷からその様を見ながら、ドリスは手に持って掲げていたものをそっと下ろした。
先日、王太子妃の体調不良を改善したことの褒美として賜った、氷龍の牙の欠片だ。もう既にその中の力を使い果たしてしまい、見る見るうちに手の温度で溶けてなくなってしまったが。
自然に剥がれる鱗よりも貴重なもので、これだけで城をひとつ立てられるぐらいの金が動く。それを全く惜しげもなく、標的が逃げを打った時に使えと厳命したのは彼女の主である。最も彼女も、敬愛する主人が意中の女性に求婚する為に必要なのだと言うのならば、使うことに全く躊躇いが無い。
「……そろそろ、こちらの家の方々を起こしましょうか。旦那様と未来の奥様をお出迎えにいかなくては」
使い魔である蛇の目と耳を借りてその顛末を知っていたメイド長は、表情を動かさずともうきうきとした足取りで屋敷の中へと向かった。
氷に縫い付けられた黒い体は、その身を非常に小さく縮めていた。氷龍の力を躱す為に鎖の殆どを使ってしまったのだろう、その体は人の形を取ってはいるものの黒い靄のようなものだけになっている。
「――最早これまで、ですかな。初代コンラディン家当主殿」
皮肉たっぷりのビザールの言葉に、腹立たしげな声が返す。
『抜かせ、他者の力を借りねば何も出来ぬ者が――』
「貴族とはそういうものですよ。鞭打って働かせる部下よりも、褒めて褒美をやって育てる部下の方が腕が立つのは当たり前ではありませんか、ンッハッハ!」
『おのれ――おのれ! 貴様だけは許さん!!』
えへんと腹を張るビザールに、闇の中で金の目が閃く。次の瞬間、如何にか保っていた筈の靄の体が、ぞわりと散って消えた。
「――どこへ!?」
リュクレールの驚きの声に、絶叫が被さった。
『この地に討ち捨てられた数多の亡骸よ! 我を糧として啜り、この塔を叩き壊せ――!!』
地面に侍っていた氷は、すぐに溶けてしまったようだ。再び剥き出しになった地面には、砕かれに砕かれまくった骨が散乱していた。
塔の入り口を背に立つヤズローの周り、半円状に骨の堤が出来ている。ヤズローはやや荒く息を吐いているものの、その場所を動くつもりは無いらしく、再び使い込んだ銀斧を構える。
すると、天空からの絶叫が聞こえ、それ応えるように、がたがたと一斉に散らばった骨が震えだす。
「!?」
何か拙い、と思った瞬間、骨の山はがさがさと動き、まるで一つの生き物のようにうねり――あるものは頭蓋を、あるものは腕と足を形成し、巨大なる一体の骸骨と化した。その丈は塔の半ばまで至り、腕は遠慮なく振り回され、塔の外壁を抉った。中の者達が逃げる前に、この塔をへし折るつもりだ。
「チッ!」
僅かな舌打ちをして、ヤズローは駆け出す。じりじりと動き出す巨大な骸骨の足を踏み、膝に飛び上がり、思い切り槍斧を振り上げ――
「おぅ、らっ!」
裂帛の気合と共に、その大腿骨に刃を思うさま食い込ませる。寄せ集めならばこれで砕けると思っていたが、
「な――」
そこを形成するのは数多の骨顎で、ひとつひとつが槍斧の刃を噛み、動きを阻害する。引くか、手放すか、一瞬迷った隙に丸太よりも太い骸骨の腕が襲い掛かった。
「ッが!」
空中で避けることも出来ず、鈍い音が響く。骨が折れた音では無い、銀色の手甲が飛んだ音だ。
変に折れ曲がったり壊れたりすることは無かったが、肘から下の継ぎ目に当たったようで、僅かに拉げた手甲が骨の山を転げ落ちていく。片手では巨大な得物を扱うことは出来まいと、骨達が喝采のように互いの体をぶつけて鳴らす。
塔の壁面に激突しかけた体をぐるんと反転させ、窓の桟に着地しながらヤズローは叫んだ。
「――少しは役に立て、虫ッ!」
ふわりと、闇夜では見えない程の細い糸が舞う。それは今まさに地面に落ちようとする銀の腕を掬い上げ、まるで生き物のように彼の元へと戻した。
その正体は、蜘蛛だ。ヤズローの右耳にずっと着いていた、レイユァが遣わせた蜘蛛。片腕が飛んだ時、反対の腕で既に投げていたのだろう。自分の体の数百倍もある腕を軽々と持ち上げ、糸をぐるぐると吐き出すとヤズローの腕に繋げ直す。如何なる術か繋ぎ直した瞬間にその手指はぎしりと動き、しっかりと槍斧を握り締める。
戻ってくる蜘蛛の姿を見た、ヤズローの顔は死ぬほど不機嫌だった。必要だから使ったこと自体に後悔は無いが、あの女の力を借りねばならなかった己の未熟が腹立たしいのだ。しかし今何よりも優先すべきことは、主人の命に応えること。その為ならどんな手でも使うし、自分の感情にかまけている暇もない。
「使ってやる。――上に行け!」
小さな蜘蛛に怒鳴りつけると、極細の糸がヤズローの手に絡みつき、引き上げられる。見る見るうちに体は巨大な骸骨の上の上、塔の屋上が見えるところまでぐいんと飛び上がり――しっかりと少女の傍にいる自分の主の姿を、目端で捉えた。
主は全て任せると言いたげに、ぐっと親指を立てて見せて――疲労が溜まっていた筈のヤズローの体が、滑らかに動く。最早何の憂慮も要らぬとばかり、巨大な槍斧を振りかぶり――重力と全体重をかけて、薪割の如くその刃を下に向けて振りかざした!
「お、っらあああああああ!!!」
教育係に聞かれたら叱られるだろう下品な罵声と共に。
数多の骨で形作られた頭蓋が、真っ二つに割れた。