◆番外 商人と王子
本当に、足の速い王太子様だ、と瑞香は密かに思う。
ビザールからの紹介状を携え、王城に連絡を入れた所、すぐさま王太子から会いたいと返事が来たのだ。驚くやら嬉しいやら、すぐさま売り込む品物を見繕い、次の日の夜には城の応接室に通され、赤毛の王子と向かい合うことになった次第である。
偉い人ほど腰が重くなることを、本国でもこちらの国でも良く知っていたので、寧ろ感心してしまう。勿論顔には出さないが。
「この度は、お招き頂き誠にありがとう存じます。藍商会の藍瑞香と申します」
「ああ、楽にしろ。ビザールの紹介ならば信用できる」
丁寧にこの国の最敬礼をすると、いっそ気軽に言い切られた。しかし威厳が無いわけでは無く、寧ろ絶対的な自信を持って悠々とこなすその様には寧ろ安心感がある。商人の笑みを絶やさずに、控えていた小目に視線をやると、次々と南方産の大粒の宝石を机の上に並べた。
「ほう、これは……! 素晴らしいな」
「まずこちらは翡翠です。我が国では一番産出量が多く、市井の者にも出回っておりますが、これほどの大粒は滅多にありません。続いて、瑠璃。こちらは鮮やかで濃い青が特徴で、我が国では花嫁衣装に多用されます。更にこちらの金剛石はこの国でも産出されましょうが、我が国が誇る職人による加工の腕を見て頂きたく、お持ちした次第でございます」
「成程、成程……どうだ? 気に入ったものがあるか?」
流れるような瑞香の説明に応えるよう、照明の下で輝く宝石たちを前に、グラスフェエル王太子は胸元に着けているブローチに声をかけた。
(……徹底してるな)
内心舌を巻く。目通りが叶ったことで、もしかしたら噂の奥方様と顔を合わせられるかと密かに期待したのだが、どうやら通信石――離れた相手へ言葉や映像を届けることが出来る石で、国宝級の代物だ――を使い別部屋にいる妻と会話をしているらしい。そこまで隠す理由があるのかと、好奇心が首を擡げかけた時、王太子が話しかけて来た。
「すまんが、もう少し白色に近い石は無いだろうか」
「白色、でございますか。かしこまりました、少々お待ちを」
かなりの自信作だが、残念ながら王太子妃のおめがねに叶わなかったらしい。こうなると瑞香にも負けん気が湧いてくるので、近づいて来た小目の耳元で命令を告げる。すぐに従者は踵を返し、隣の部屋から用意しておいたとっておきを持ってきた。
「では、こちらは如何でしょうか。――わが国でも大変珍しい、貝の中で生まれる宝石でございます」
「貝の中で?」
「はい。海に住まう巨大な貝が、何年も、何十年もかけて身の内で造り出す神秘の石にございます。――どうぞ、ご照覧くださいませ」
「――おお!」
幾重にも絹に包まれた中からころりと現れた、虹色を僅かに湛えた白く大きな球体に、流石の王太子も感動の声をあげた。自然の中でここまで巨大に育つのも珍しく、手に入れるのにかなりの大枚を叩いたので、それに相応しいだけの値段で売りつけたい。
「ああ、解った解った。……見えるか? うん、そうか……何?」
どうやら奥方様も食いついて下さったようだが、何やら揉めているらしい。顔を逸らし、小声で何やら言い合っていたようだが、どうやら奥様ではなく王太子の方が難色を示しているらしい。
王子ならパーッと払っちゃいなさいよ、と期待を顔に出さず待っていると、どうやら奥方様に押し負けたようだ。渋々と言った体を崩さず、無造作に自分の衣装に飾られている白色の石を、一枚剥がして瑞香の方に差し出して来た。
「これを貰おう。代金はこちらで構うまい?」
「は――……!? これは」
訝しげに首を傾げてから、すぐにそれの正体に気付いた。まさかと思うし、有り得ないと思ったが――自分の目利きは信用している。思わず顔を上げると、王太子はやはり不機嫌そうな顔のまま――どちらかというと、髭を生やした精悍な顔に似合わず、拗ねているようにも見えた。
「渡すのは正直業腹だが、あれが対価を払うといって聞かなくてな。足りるだろう?」
「ええ、……勿論です。まさか、生きた龍鱗に御目にかかれるとは」
正しく、大陸の北にしか住まわない筈の、氷龍の鱗だった。手で触れるとひんやりとした冷気を感じることが出来、様々な術式や呪いの触媒となる、貴族や魔操師を始め、誰もが欲しがる貴重な一品だ。
神話の時代が終わってから、龍は人の前に姿を見せることはまず無くなった。現在市場に出回っているのは、皆力尽きた龍の死骸から取られたとされるものばかりで、こんな力を持った鱗をどうやって手に入れたのか。思わず瑞香は身を乗り出すが、先に王太子の方から釘を刺して来た。
「入手経路は聞くなよ、今後とも贔屓にするからな」
「それは……有り難き幸せにございます。どうぞ今後とも、良しなに」
喉から手を出したいのを堪え、深々と礼をする。結局用意した宝石を全て売り払ってもお釣りが来るぐらいの価値がある。それが今後も手に入る好機があるのなら逃す手は無い。色々な感情を全て笑みで押し込めて、深々と頭を下げた。
×××
回廊を歩く瑞香の後ろに続く小目が、不意に口を開く。
「――瑞香様。兄上様に報告をなさいますか?」
故国の言葉で、且つ自分から小目が話しかけてくる理由を瑞香は理解している。
国が龍の庇護を受けているというのは、その国力の高さを示している。南方国にとっても決して無視できない存在に今後なっていくだろう。瑞香は既に向こうの国の地位を捨てているが、未だ残る兄にとって、報告すれば他者を出し抜ける情報となるかもしれない。
瑞香は、眉を顰めたままこちらの国の言語で返す。彼だけではなく、恐らく耳を欹てているだろうこの国の間者にも聞かせる為だ。
「要らないわよ。お客様の信用を売り飛ばす気は無いわ」
小目は全く逆らわず、礼をして一歩下がる。その様を不機嫌そうな視線で睨み付けた後、瑞香も歩き出す。
小目は、正確には彼の従者では無い。彼の兄の従者であり、瑞香が生まれた時に下賜された者だ。命令に従い、どのような仕事でもこなす、完璧な従者であるけれど――最終的には自分では無く兄の言うことを聞く。そのことを瑞香は良く知っている。……大切なものの命を、この男に奪われた時から。
だから、悪友とその従者の関係が羨ましくなるのはこんな時だ。あの少年には何の裏も打算も無く、只管に、愚直に主に仕える気概があり、主の方もまた、従者を大切に慈しみ、頼りにし、また育てている。どこか親子のようにすら見えるその様は、心底羨望の対象だ。国を離れなければ碌に呼吸も出来ない自分には。
勿論、では彼らと同じ道を自分が歩いたとして、同じような信頼を得られたかと言われれば、有り得ないと思う。もし四肢を失った子供が目の前に転がっていても、自分は眉を顰めるだけで捨て置いただろう。――ビザールにしか、出来なかったことだ。
「無い物ねだりって情けないわよねぇー」
自嘲をしても、小目は何も言わない。先刻のような例外が無い限り、主の命令でも無いのに答えを返してくることはない。嘆息だけして、窓の外を見遣り――
「……頑張りなさいよ」
王城から遠く離れた森の中の塔の上、大きく広がる黒雲を見ながら、誰にも聞かれないように小さく囁いた。
×××
ひやりとしたものが頬に触れ、グラスフェルは目を開ける。目の前に広がる真っ白い肌に、愛しげに口付けを落とす。
「やはり、寒さ避けの秘薬というのは素晴らしいな。お前に触れても、唇を凍て付かせなくて済む」
氷龍の鱗を組み込んだ外套は、寒さを全く厭わなくなるが、肌の露出した部分はそうはいかない。それを、悪食男爵の部下が用意した火種の薬を飲めば、凍てついた氷に触れても全く痛みや冷えを感じることが無い。全くもって有難い――これさえあれば、自由に妻に触れられるからだ。
王城の一番深い地下室は、全ての壁が氷で覆われている。これも妻の為に王太子がわざわざ同じ相手――魔女ドリスに頼んで作らせたものだ。これから夏になる際、妻にもしもの事があれば耐えられない。
「……そう言うな。俺が不満なのは、商人にまでお前の鱗を渡したことだ。ただの悋気では無いぞ、あの男は南方国の皇族の血を引いている。あいつらは龍信仰もしている者も多いからな、何かあったら……、そうだとも。お前が奪われるのが一番耐え難い」
彼が話しかけているのは、目の前に鎮座する、氷の鱗で覆われた一頭の巨大な龍だった。牙も瞳も全て氷で形作られたその首に、昨日手に入れたばかりの美しい真珠が、他の宝石たちも連ねた首飾りとなって輝いている。氷の竜は、それを何度も舌先で突き、随分と気に入っているようだった。
「……解っているとも。誰かがお前を選ぶのではない、お前が俺を選んでくれたのだ。愛想を尽かされないように、これでも必死なのだぞ?」
言葉を交わしているわけではない。グラスフェルの心に直接、龍の感情が伝わってくるだけだ。それだけでも進歩なのだ、数年前に冬山で出会った時には、人間などに全く注意を払ってくれなかった。妻の――龍には生殖も必要なく、性別も無いのだからこの呼び方はおかしいかもしれないが、伴侶としてグラスフェルがこう呼びたいから呼んでいるし、拒否はされていないので遠慮しない。
この龍の美しさに見惚れ、かき口説き、春になればその身を消してしまうことを知って、どうか自分に未練を持ってほしいと懇願した。そしてこの気高く美しいものは、僅かな好奇という了承を返して、この地に羽を降ろすことを良しとしてくれた。それだけで充分だし、望外の喜びだった。
「……ん? ああ、そうだとも。ビザール・シアン・ドゥ・シャッス。役に立つ男だ、出来ればもっと取り立ててやりたいのだが……未だ祓魔に目くじらを立てる者も多くてな。神秘に目を背ける者達に、この地の底にお前がいることを知らしめてやりたい」
自分を飲み込めるほどの大きな顎をゆっくりと撫でてやりながら、ほんの少し照れくさそうに王太子は笑う。
「あいつも身を固める決意をすれば、もう少し真面目に働くと思うんだが。……本当だぞ、俺とてお前に会う時間を限界まで削って、仕事に勤しんでいるのだ」
龍はほんの少し目を眇め、ゆっくりと顎を床に降ろす。どうやら眠りにつくらしい。そもそも春に氷龍が存在できている筈もない、冬にならなければ本来は形を保てないのだ。出来る限り休む為にも、眠っていることが多い。
「……解ったよ、真面目に働いてくるとも。だから、次に来るときは目覚めて迎えてくれ」
妻に軽くあしらわれ、溜息を吐きながらもグラスフェルは立ち上がる。やるべき仕事はいくらでもある、王太子として愛にかまけているばかりではいられないのだ。