◆6 決意
「やあやあ、リュクレール・コンラディン殿! 立て続けの来訪、どうぞ許されたい。この想いを封じることなど出来兼ねましてな!」
「男爵様……!」
相変わらず幽霊がひしめき合う塔の一階に慌ててリュクレールが駆け下りていくと、その真ん中に囲まれているビザールとヤズローがいた。
「どうして……」
「招かれざる客であることは百も承知ですとも。ですが吾輩にも、譲れぬものがありましてな。まずは――」
笑顔のままはっきりと言い、従者を前に出るように促した男爵に対し、戸惑いと恐怖を堪えている内――ヤズローがその場に跪き、小さな細い箱をリュクレールに向けて差し出した。
「どうぞ、お納めください。少しでも貴女のお慰めになりますように」
「……、ありがとうございます、男爵様。ですが――」
拒否の声を出そうとした唇の前に、ついと指が一本伸ばされて声を止めた。腸詰のようなみちみちとした指を振りながら、ビザールは静かな声で囁く。
「どうぞご心配なく。我がメイド長に頼み、姿隠しの香水を振って貰いました。下手に騒がなければ、地下のものに気づかれることはありますまい」
「――!」
驚愕に、リュクレールは両手で口を覆ってしまう。周りの霊達にも動揺が広がっていく。
「……男爵様。貴方は一体、どこまでご存じなのでしょうか」
「吾輩が知りたいのは貴女の事以外にありませんよ淑女。そしてやりたいことは、貴女の力になることです」
ヤズローが掲げたままだった箱を、ビザールはひょいと手に取り、無造作に箱を開けた。その中のものを思わず見て、リュクレールはまた戸惑った声を上げる。
「これは……」
「貴女の体捌きならば、十二分に使えるものでしょう。どうぞお持ちください。暴力と蔑まれるものでも、手に持っていれば勇気となります」
「……男爵、さま」
リュクレールは今にも泣きそうに顔を歪め、何度も首を横に振り――細い腕で、そっと箱の中身を手に取った。美しい細工の銀の剣は、彼女の手にしっくりと収まる。
「ご覧の通り、霊質にも干渉力の高い聖別された銀製です。貴女が振うべき力となってくれるでしょう」
「……。……男爵様」
ぎゅっと剣を握り締め、リュクレールは俯く。その顔に浮かんでいるのは、困惑と恐怖、それと――どうしようもない、縋り、乞いたいという思い。それを必死に堪えている顔だった。
「男爵様。恥を忍んで、お伺いいたします」
「ええ、どうぞご遠慮なく」
彼女自身気づかないままに、兄と同じ言い方をした彼女は、真っ直ぐな、金と青の混じった瞳でビザールを射抜くかのように見て問うてきた。
「大切なものを、他者に奪われ、徒に害され――それを止める力も無いとき、どうすれば良いのでしょうか」
「ふむ、ふむ、ふむん。淑女、貴女はどうやら吾輩が思う以上に鉄火場に向かわねばならぬご様子。ならば吾輩、その火の粉を払って差し上げたいところですが――どうやら貴女はそれを望みますまい」
「ええ。わたくしが、やらなければならないことなのです。男爵様にご迷惑をおかけするわけには――」
「先日も申し上げましたが、迷惑など何もございませんよ。ですが淑女、貴女が望まぬというのならば、ひとつだけ助言を」
身を固くする少女に、太った男は変わらぬ明るい声で続けた。
「人質を取る者というのは、大変弱いのです。何故なら、人質を取らなければ戦えないのですから。貴女の前でそのようなことをやらかす以上、確実にそれは貴女よりも弱い。恐れることなど何もありますまい」
言いきられて、リュクレールは何度も目を瞬かせた。瞳に浮かぶのは困惑だ、そんなことが有り得るのか、というような。
少女の戸惑いを気にした風もなく、両手を広げて悪食男爵は堂々と宣言した。
「淑女、貴女はお強い。僅かな寄る辺しかないにも関わらず、貴族の淑女としての矜持を、気高さを持っていらっしゃる。欲望のままに他者を汚す者に、貴女のような方が負ける筈もない」
恐怖に震える少女の魂に、ビザールの声が少しずつ染みこんでいく。庇護者ではなく、誇り高き貴族としての彼女を祝福する声が。
「故にやるべきことは一つです。人質を取り戻すために全力を尽くすこと。取り戻した後は遠慮なく、煮るなり焼くなり揚げるなりすれば宜しいのですよ。ンッハッハ!」
最後に、いつも通りの気の抜けた笑い声で締められて。リュクレールは、ふうと息を一つ吐き――ほんの僅か、唇を緩めた。
「……ありがとうございます、男爵様。本当に――ありがとうございます。わたくしは、もう逃げません。戦います」
「その戦いに、吾輩も加えて頂けませんか? 淑女」
「いいえ――いいえ。そのお言葉だけで充分です。わたくしは、これ以上望んではいけないのです」
だからこそ、少女の瞳はしっかりと意志を湛えていた。感謝と、他ならぬビザールだけでなく、この塔に住まうもの達すら守ろうとする気概だ。しっかりと視線を合わせ――先に逸らしたのは、ビザールだった。
「ふむん。――畏まりました。ヤズロー、戻ろうか」
「旦那様?」
意外そうに声をあげた従者に対し、ビザールはぺちりと掌を額に当てて、気障ったらしく声をあげた。
「これは吾輩一世一代の不覚! 贈物だけで、捧げる為の花を忘れてくるとは! 次にお伺いするときは、花束を持ってお迎えにあがります故、今暫しお待ちくださいませ」
笑顔だが、ビザールの瞳はまっすぐに淑女を射抜く。先刻のお返しのように。
少女は、一瞬だけ辛そうに目を眇めて――微笑んだ。先日と同じ、拒絶する為の笑みだった。
「男爵様――ええ。ありがとう、ございます。どうぞ、末永くご健勝に」
×××
銀の扉が閉まる。納得のいっていない顔で、もう一度ヤズローは問うた。
「旦那様、よろしいのですか?」
ヤズローも気付いていた。あの塔の中に蔓延る黒い鎖の数が、増えていることに。地下にいるであろう悪霊が、段々と力を強めている証拠だ。このままでは昼間でも、塔の上階に現れ――いずれ外に這い出てくるかもしれない。
ビザールは、ほんの少し――滅多に見せない苦笑を一瞬だけ見せた。それに従者が驚いているうちに、いつもと変わらぬにんまりとした笑みに変えて、肉に埋まるようなウィンクをする。
「あの方の望みに沿わぬことはしないよ、ヤズロー。それに、丁度いいところにいらっしゃったようだ」
「……あ!」
思わず、今回も鍵の番をしていたエールが声を上げる。屋敷から向かってくる道を走る馬車には、コンラディン家の紋章が入っていた。
慌ただしく停まり、降りてくるのは髭を生やした偉丈夫。その身形は隙の無い貴族の佇まいだったが、顔には隈が浮き、疲れを隠せていなかった。
「どういうつもりですかな、シアン・ドゥ・シャッス男爵殿」
「おお、これはこれはコンラディン伯爵! 遅いおつきですな、それとも――流石の貴方もこの塔へ近づくのは、臆しましたかな?」
「貴様――」
揶揄のような声で言われて、男――コンラディン伯爵はその顔に明確な苛立ちを向けた。彼にとっては、息子が詐欺師に弱みを晒して連れ込んだようにしか見えなかったのかもしれない。ヤズローは自然と主を守る位置に立つが、ビザールは気にした風もなく笑いながら続けた。
「まあ丁度良かった、吾輩もぜひ一度伯爵とお話させていただきたかったのですよ。この塔の中で起こる悍ましい事件について、答え合わせをさせて頂きたい」
「……何事ですかな。今回の件はエールが勝手に貴方を招き入れたこと。かのシアン・ドゥ・シャッス家のご当主はいつから押し入り強盗に成り下がったのかね?」
「ンッハッハ、これは耳が痛い! 貴族として、どうしても女性の涙を止めねばならぬ故の行動でした、どうぞご勘弁いただきたい!」
その言葉に、ほんの僅か、コンラディン伯爵の顔色が変わった。海千山千の貴族当主としては迂闊だったが、やはり彼も家の状況に疲れ果てているのかもしれない。
「……女性だと? 何を世迷言を、」
「おや、てっきり貴方は御存じだと思っておりましたが、コンラディン卿。この塔にお住いの、麗しき淑女のことですよ」
「――何を馬鹿な事を! あの塔は先日まで、誰も立ち入らず封印されていたのだ!」
「嘘ですな?」
「なッ――」
間髪入れず断じられて伯爵は鼻白むが、ビザールは止まらない。両手を広げて芝居っ気たっぷりに、朗々と告げた。
「あの塔の封印は既に解けていたのですよ、長男殿が侵入するよりも前に。恐らくは無理やりでは無く、鍵を使って。鍵を自由に持ち出せる、貴方の家のどなたかが、封印を既に解いていたのです。ええ、十五年前に」
「黙れ! 貴様、それ以上は――」
激昂して近づこうとした伯爵を、ヤズローが遮る。男爵は全く怯まずに尚も続けた。
「吾輩の目的は、あの塔に囚われた姫君をお助けすること。そしてこの家に蔓延る悪霊を祓うことです。もしそれが貴方の地位か何某かを脅かすのだというのならば――申し訳ありませんが吾輩は、全力で戦わせて頂きます。美しい少女を泣かせるのは、貴族の誇りを汚す行いではありませんかな? 伯爵殿」
伯爵の足が震え、僅かに後退った。彼の従者たちが慌てて支えようとするが、それを振り解いてビザールと向き直る。
「貴様は――貴殿は、何を知っておられる」
「まだすべては想像の域を出ません。故に貴方にお伺いしたいのですよ、全てを」
×××
コンラディンの屋敷の客間に通され、改めて伯爵は口を開いた。先刻の問答で更に5年は年を取ったように、その声に張りが無くなっていた。
「……ここからの話は他言無用に願いたい。決して、外に漏らさぬよう」
「誓いましょう、我が家名にかけて」
男爵が自分の母親ではなく、家名に誓う時は前者よりもあまり誠意が無いことを勿論ヤズローは知っていたが、黙っていた。
「感謝を。……事の起こりは十五年前。我が妻が、あの悍ましい事件に巻き込まれた時だ」
苦虫を噛み潰したような顔のまま、伯爵は訥々と話し出した。
「何故そうなったのか、私は知らぬ。気づいた時には我が愛しの妻はあの塔の中で倒れていた」
息子が言っていたのはもう少しえげつない内容だったが、把握していないということはあるまい。裏切られていても、妻の名誉を守ろうとしているのだろう。
「幸い怪我はそれ程でも無かったが――その、体は」
僅かに言いよどむが、ビザールは容赦をしない。
「赤子を孕んでいた。そうですね?」
深く息を吐き、伯爵は天を仰ぐ。苦悩を堪え切れぬ声のまま、尚も続けた。
「……不義の子と蔑むことも出来た。だが、そのことが知れてより、妻は壊れた。悍ましい悪霊が、私を縊り殺しに来ると夜毎泣き叫んで暴れた。そんな有様にも構わず腹は大きくなり続け――あの子が――、生まれた」
ぐしゃりと白髪交じりの髪を掻きまぜ、伯爵は絞り出す。
「産婆が取り上げた子供は――その体が、半分、透けていた。慄いて産婆が取り落としても、全く泣くことも無く、笑っていた。妻は耐え切れず気をやり、私は――私は」
許しを乞うように、伯爵の視線が動くが、ビザールは逃がさなかった。僅かに口元に笑みを讃えたまま、ただ見つめている。観念したように、懺悔が聞こえた。
「あの子を――塔の中へ、捨てた」
僅かにヤズローと、同席を許されたエールが共に身じろいだ。
「私も狂っていたのかもしれない。あの地で宿ったのなら、あの地に帰そうとした。厳重に鍵をかけ、決して誰も入らぬようにと申しつけた。それで終わったと、思っていたのだ」
「ええ、ええ、伯爵殿。貴方その苦悩は汲んで余りあります。ですが――」
みちりと体を傾がせて、ビザールが立ち上がる。悠々と対面のソファへ近づき、まるで囁くように伯爵へ告げた。
「その子はまだ、生きておられるのです」
「なん、ですと……?」
「生きている、というと若干の語弊がありますが。その赤子は元より、霊質が非常に優れていたのでしょうな。あの塔の中には快い幽霊達が多くおり、面倒を見たおかげで、彼女は生きながらえたのです。残念ですがあの塔の中では肉体の成長が殆ど望めなかったため、体の大部分を構成するのは霊質ですが。生きた幽霊、とでも言えば良いのでしょうか」
「では、あの少女は――私の、」
心当たりに気付いたエールが身を乗り出す。先日受けたビザールの薀蓄が効いていたのだろう、理解も早い。対する伯爵は、信じられないとばかりに首を大きく振った。
「そんな、馬鹿な!」
「様々な偶然が重なったうえでの奇跡ですとも。そして彼女は健やかにお育ちになり――今、戦っております」
「戦う、だと? 一体何と」
「正しく、貴方の奥方に乱暴した憎き悪霊と、ですよ。更にあの悪霊は彼女をも苦しめて、己の力を高めている。いずれあの塔から這い出してくるやもしれません。そしてあの方は、塔の中の幽霊達だけでなく、乱入者の吾輩すら守ろうとしておられる」
「……」
ずるずると伯爵の体がソファに沈むが、ビザールの声は止まらない。片眼鏡の下の瞳をきらりと光らせて、堂々と言い放った。
「そんな気高きあの方が、このまま悪霊の餌とされるだけなのは余りにも不憫すぎます。どうか、お力をお貸しいただきたい」
「……私どもに、何をせよと」
深く深く息を吐きだし、伯爵は呟いた。苦悩、諦観、恐怖、嫌悪、そんな感情ばかりを向けてくる彼に、ビザールはあくまでにんまりと笑い。
「あの塔に入る許可と、もう一つ。――を」
「は――」
「此度の事件、吾輩がどうにか致しますので、どうぞ伯爵殿からその二つを頂きたいのですよ」
×××
ゆっくりと、日が沈んでいく。塔の天辺、襤褸の渡し板が残ったままの処刑所。そこに、リュクレールは佇んで眼下を眺めている。
「……よろしいのですか、お嬢様」
そっと声をかける、傍に控えたヴィオレに、笑顔で頷く。
「ええ。これ以上、あの方に甘えるわけには参りません」
遠くに見える、コンラディンの屋敷。そこから走り去っていく馬車を見送っていた。きっと無事に家に帰ったに違いない。それでいい――自分の存在など、忘れて下さって構わない。
手先は僅かに震えているが、先刻彼に頂いた言葉が、恐怖を留めてくれる。それで十分だと、本気で思った。
ゆっくりと、階段を降りる。沢山の幽霊達が、彼女の後に続く。皆黒い鎖で戒められているにも関わらず、リュクレールの決断に賛同してくれた者達ばかりだ。
わたくしは恵まれている、とリュクレールは思う。あれの言う通り、実の父母に疎まれ、閉じ込められた地で死に、魂を食われてしまっても当然の形で生れ落ちたにも関わらず、ヴィオレを初めとする者達が守ってくれて、紛い物のような形でも生き延びることが出来た。そのおかげで、貴族の娘としての矜持を持つことができたのだ。感謝しかない。
その上、自分が今までしてきたことと、これからすべきことを肯定して下さる方がいらしてくれた。本当に、嬉しかった。この塔に暮し、常に奥底にあった筈のあれの恐怖を、彼と話している間だけは忘れることが出来た。
「……わたくしは、幸せ者ですね」
一階まで辿り着き、銀月女神の神紋の上で、リュクレールは微笑んだ。普段はほとんど動いていない自分の心臓が、ゆっくりと、しっかりと脈打つのが解る。この気持ちだけは、絶対にあれに奪われない。例えこの身が引き裂かれ、自分が自分でなくなったとしても、決して離さないでいようと誓う。
銀の小剣を鞘から抜き、自分の眼前に掲げる。
「――参ります。お父様。いいえ、リアン・シェーヌ・コンラディン殿。貴方の乱暴狼藉、最早見逃すことは出来ません。――家名に誓い、貴方を滅ぼしましょう!」
彼女の宣誓に、幽霊達が一斉に鬨の声を上げ――
次の瞬間、床から溢れ出た黒い鎖が、塔を埋め尽くした。