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◆3 首吊り塔 

 それから数日経ち、ビザールは使用人のヤズローと共に、エールの用意した馬車でコンラディン家へ向かっていた。目的は勿論、首吊り塔だ。

「まずはかの地を調べないと如何にもなりませんな。何がいるにしても、まずは場所のいわくを確認せねばなりますまい」

「そういうものなのですか」

「幽霊とは不安定なもの、と先日ご説明したでしょう。肉体が無いのなら、次に寄る辺とする物質は土地や家屋です。だだっ広い平原のど真ん中に出る幽霊というものは、吾輩浅学ながらとんと見かけません。見たものがいないだけの話かもしれませんがな、ンッハッハ!」

 相変わらず解り辛い冗句を飛ばす男爵に、向かいに座ったエールは馬車の中、苦笑いするしかない。そうなってしまう程度には、大分この奇矯な男に慣れてしまったらしい。ヤズローは、首吊り塔へ向かうのをどうしても嫌がったコンラディンお抱え御者の代わりに、御者台で馬の手綱を握っているが、ここにいたらあの不機嫌そうな顔で主を睨み付けていただろう。

 しかし中々にスムーズに馬車を進ませる従者の目が届かないところで、主である悪食男爵は一層愛想よく、エールに向かって問う。

「エール殿、非常に心苦しくはありますが、もう一度兄上殿の事件が起こった際の状況を、少々お尋ねしたいのです。よろしいですかな?」

「ええ、勿論です。ご遠慮なく」

「ありがとうございます。ではまず――塔の入り口に当たる扉は、兄上殿達が訪れるまで鍵で閉まっていた。それは間違いありませんかな?」

「はい。父の部屋に仕舞いこまれていたものです。ここに」

 そう言って、エールは上着の内ポケットから銀製の鍵を取り出した。男爵は肉に埋まった両目をぱちくりさせて、ちょっと驚いた顔をする。

「おや、再度の持ち出しを許されたのですかな?」

「いえ……恥ずかしながら兄の件以来、母がすっかり不安定になってしまって……父はそちらにつきっきりで、私に構う時間もありません。下の兄もすっかり怯えてしまい、家にも寄り付かなくなってしまって……持ち出すのは、容易でした」

「成程、成程。いや、不躾なことを伺いました、申し訳ない。少々お借りしても?」

「はい」

 手渡された鍵をしげしげと眺め、丸々とした指で意匠をなぞりながら一言。

「この鍵と対になる扉は、塔が建てられた時から付けられたものなのですかな?」

「いえ……、解りませんが、恐らくそうではないかと」

「ふむ、ふむ、ふむん。ではもう一つ、塔の内部はかなり荒れ果てていたのではないかと想像しますが、床の埃などはいかがでしたでしょうか?」

「埃、ですか? ……すみません、私は塔の中には入りませんでしたので……申し訳ありません」

「ああいえ、謝罪など必要ありませんよエール殿。その辺りは吾輩、僭越ながら己の目で確かめさせて頂きますので」

 男爵は納得したようだったが、エールの心には疑問符しか湧かないようだ。塔に潜む悪霊を退ける為に、扉や床の埃など関係あるのだろうか、と。首を捻っている内、男爵がふむん、と鼻を鳴らしながら窓の外をちらりと見遣る。

「しかし、エール殿。首吊り塔へ向かうにはまだかかりますかな?」

「ええ、これぐらいの刻限ではまだ半分も近づいていないかと」

「ほうほう、すぐそこに塔が見え、道も通っている筈なのにおかしなことがあるものですな。――ヤズロー!」

『畏まりました、旦那様』

 名前を呼ぶことが、何かの命令か、それとも許可だったのか。不躾な好奇心が湧き、エールがそっと御者台に続く窓を覗き込むと、執事の青年は相変わらず銀の手甲に包まれた片腕で手綱を器用に操りながら、自分のポケットから何かを取り出して口に咥えた。葉巻でも吸うつもりなのかと思っていると、顔の傍に似たようなものが差し出された。当然、持っているのは男爵だ。

「宜しければエール殿もどうぞ。恐らく御者一人が噛めば如何にかなるでしょうが、まぁ念の為です。あまり美味ではありませんが、ご容赦を」

 そういう男爵の口には、やはり同じものが既に咥えられている。かなり枯れた色をした木の葉を丸めただけの代物で、火を着けるわけでは無く、噛み煙草のようなものらしい。悪食男爵ですらあまり好まぬ味ということにエールは恐れをなしたようだが、それでも好奇心に勝てないらしく端をほんの僅か噛んだ。

 妙な苦みと辛みが舌を刺すが、構わずビザールはもっちゃもっちゃと噛み締める。同時に馬車の速度が上がり、まるで目の中に付着していた膜が剥がれたかのように、視界の眩しさが増した。朝からずっと晴天の筈なのに。

「あれっ……」

 思わず、というようにエールから間抜けな声をあげた。彼の視界も同時に晴れたのだろう、先日同じ頃合いに馬車から見えた塔よりも、随分と近い位置に見えるのだから。

「うちのメイド頭に用意させた、『頭冴え』の葉です。中々の効き目でしょう?」

「い、一体どういう事なのですか?」

「ンッハッハ、南方の昔話には獣が人を化かして道に迷わせると言うものがあるそうですが、此処で起こるのなら間違いなく原因は、首吊り塔の幽霊とやらでしょうか。迷わせるだけで拒絶はされない、つまり時間をかけて呼ぶことが重要なわけです。魔の者にとっては金陽が沈み銀月が輝く時間こそが、己の力を発揮できる時分ですからな」

 先日エール達が塔を訪れた時は、確かにもう日が暮れていた。それすら、あのおぞましい惨劇を起こした者の策略であったのかということに気づき、エールが蒼褪める中――馬車が止まった。

『到着しました、旦那様』

「ありがとうヤズロー。では参りましょうか、エール殿! 何、まだまだ金陽は中天、お気になさることなどありますまい!」


××× 

 

 果たして、塔は変わらず其処に在った。

 ビザールとヤズロー、そしてエールは塔の入り口前に立つ。その外観はごく普通の、古い見張り塔だったが、塔の壁に真新しい黒い染みが出来ている。雨にも流されずに残った、アルテ・コンラディンが惨たらしい処刑を受けた際、壁にぶつかった後だろう。

 それを見て、苦しそうに眉を顰めるエールと対照的に、ビザール男爵は背中で両手を組みながら、優雅と言うにはちょっと色々足りない姿で、塔の周りをゆっくりと歩き出した。当然のようにヤズローも後に続くので、慌ててエールも駆け寄る。一人でこの場に置いて行かれるのは、また塔の上に幽霊を見つけてしまいそうで恐ろしいのだろう。

 ビザールはまるで獲物を探す猟犬のように――一歩間違えると茸を探す豚のように――前屈みになりながら、ふんふんと鼻を鳴らして森の下生えの中を歩いていく。

「北の扉に死、西に闘争、南に暴虐で東に病と」

「ビザール殿、それは……?」

「塔の壁面に、神紋が刻まれております。古代から伝わる神の力を借りた結界ですが……ふーむ」

 ビザールが指さす先の壁面は、苔むしてはいたが確かに何かの模様があるのが解った。神紋とは、この大陸で古くから信仰される神々のシンボルであり、街中の神殿や、住所を表す石畳にも簡略化されたものがよく刻まれているものだ。その中の四柱――暴虐と病、そして死と崩壊の神は、この国では邪神と呼ばれ廃された神々の為、エールには見覚えの無い神紋だったが。

「戦に勝つべしという闘争神ディアランの神紋はまだ解りますが、他は全て邪神の紋とは、いやはや中々に物騒ですな」

「ど、どのような効果があるのですか?」

「端的に言うのならば、魔の者を呼び寄せるのですよ。此処に封じるというよりはまるで――」

 そこまで言って、ビザールは言葉を止めて空を仰いだ。何を見ているのかとエールが視線を追うと、正面まで戻ってきた塔の壁面、そこに開いている上階の窓一つを見つめているようだった。

「ふむ、ふむ、ふむん。この塔が何の為のものかは粗方理解できましたが、それが今やどのように成り果てているのかは、やはり中に入らないと解らぬようですな。ヤズロー、準備を」

「畏まりました」

 執事は最敬礼を取り、背負っていた荷物を地面に下ろして中のものを次々と取り出す。行燈やロープという解りやすいものから、エールが見ても何なのかさっぱり解らない水薬の瓶まである。しかしそれよりも彼が聞き捨てならないのは、

「塔の中へ……入るのですか?」

 まさかそんな、とすっかり怯えたように後退るエールに対し、ビザールは笑って宥めた。

「ご心配なく、まさかエール殿にまで中に入れとは申しません。まだ日は高い故問題は無いかと思いますが、万が一もございます。どうぞこちらでお待ちいただければ」

 そう言いながらビザールは、自分の窮屈そうな懐から金の時計を取り出し、ぱかりと蓋を開ける。

「では、一刻。我々が中に入ったらすぐにこの扉を閉め、一刻経ったらまたすぐに鍵を開けて下さい。もしその時我々が一階広間に居らず、出てこなかった時は――もう一度扉を閉め、すぐに吾輩の家まで連絡をお願い致しますよ」

「そ、そんな」

「何、ご心配なく。吾輩は先日お教えした通り、幽霊の専門家! この程度の場所に遅れはとりません。では、今しばらくお待ちください。行こうか、ヤズロー」

「はい、旦那様」


×××


 しんと静まり返った塔の中に、扉が閉まる、錆ついた重い音が響き渡った。

 塔の中は思った以上に広い。エールの言っていた通り完全な吹き抜けで、見上げれば綺麗に丸く切り取られた空が遠く見える。丸い壁面には恐らく屋上まで上がれる、壁に据え付けられた階段が続く。しかしどうも途中からは壁から突き出された只の棒になっているようで、昇るのは中々に恐ろしいだろう。窓は見えないが、階段の途中に幾つか扉が見えるので、見張り部屋のようなものがあるのだろう。

 ヤズローは上を見上げながらそう考えていたが、主の興味は床にあるようだった。また体を前に傾げてふんふんと歩き回り、石畳の綺麗な床を見て――首を傾げる。

「おかしいな」

「はい、旦那様」

 主の疑問はヤズローにも解った。十五年前から封じられていた塔の中、吹き抜けから落ちてくる雨風や埃などで、床が汚れていてもおかしくない。だが、一ヶ月前に入ったアルテ達の痕跡は確認できないばかりか、床自体が綺麗に磨かれていた。まるで誰かが掃除しているとしか思えない程に。

 そして、主の興味は次に、綺麗に磨かれた床に刻まれた神紋に移った。

「しかも、ふーむ。まさか床に銀月とは」

「どのような効力があるのですか?」

「なんだ、気づかなかったのかヤズロー。神紋による結界の効果、ドリスにちゃんと習わなかったのかね?」

 シアン・ドゥ・シャッス家に古くから仕えるメイド頭であり、自分の教育係でもある女性の名前を出され、ヤズローの眉間に明確な皺が寄った。確かに習った気がするが、字すらろくに読めない彼にとって覚えるのは非常に骨が折れる行為だった。他に沢山仕事を任されている故、ついついその手の知識は疎くなってしまう。

「……申し訳ありません、浅学なもので」

「ンッハッハ、今にも舌打ちしそうな顔で謝られても怖いだけだぞヤズロー! まあ覚えておくと良い、闘争、暴虐、病と円を描き、死女神を門へと刻む。典型的な『魔の集約』の奇跡だ。ここは封じると言うよりは集める、吹き溜まりのような場所だと言う事だよ」

「……ですが、中心に銀月があれば変わる、と?」

 円形の床に彫り込まれているのは、銀月女神ルチアの神紋。邪神扱いはされていないが、金陽に背を向ける者――罪人や、侠者、娼婦、物乞いなど、法の網から零れる者達の信仰を集める存在であり、この国では地下街ぐらいにしか神殿が建てられていない。

「銀月の女神が司るは、解放。地に刻まれれば其処は空となるだろう。少なくともこの塔に紋を刻んだものは、集めるだけで終わらせるつもりは無かったということだね。しかし、ならば何故――」

「……! 旦那様、お下がり下さい」

 顎に手指をもちりと当てて考え込んでいたビザールの言葉が途切れ、一瞬遅れで気づいたヤズローが素早く彼を守る位置に立つ。

 床に敷かれた石畳の隙間から、じわりと湧いて出た黒い煙のようなもの。それはゆらゆらと揺らぎながらも、集まり、絡まり、形を成す。

 それは、鎖だ。黒い何某かで造り出された、数多の鎖。それは、じゃり、じゃり、と鈍い音を立てながら、何かを地の底から引き摺り出してくる。

 古めかしい装束を着込み、頸を大きく折り曲げた貴族を。

 西方の衣装を纏い髭を生やし、その身に無数の矢が突き刺さっている戦士を。

 甲冑にその身を包んだ大柄な、兜に包まれたままの首を小脇に抱えた騎士を。

 他にも、他にも、ありとあらゆる場所から滲み出た、黒い鎖に繋がれた白い靄は次々と人の形を取り、塔の中を埋め尽くさんばかりに増え続けていく。

 数多の幽霊達は、その姿に差異があれど――皆、やってきた侵入者を胡乱な目で睨み付けている。

「これはこれは、随分と物騒な歓迎ですな」

 そんな、常人ならば腰を抜かしそうな状況に、男爵は全く緊迫感を見せず、軽く肩を竦めてみせた。ヤズローが主を守るために腰を落とし、背負った武器に手を伸ばしかけた時、一体の幽霊が口を開く。

『何奴か! 此処をコンラディン家の領地と知っての狼藉か!』

 一番豪奢な衣装を着けた、折れ曲がった首のまま壮年の男が問う。

『ここは我らが民の最期の地。何人たりとも侵すことは許されぬ!』

 次に西方の装束を纏った、矢ぶすまにされているもう老境に差しかかった男が宣誓する。

『……!!』

 最後に板金鎧に身を包んでいるが、首が無い為声を出すことが出来ない男が、腰の剣を抜いてビザール達に向けてくる。

 周りの幽霊達も次々と武器を構え――やはり兵士の人種も、兵装も様々であった――侵入者たちを血祭りにあげるべく気焔を吐いている。

 しかしでこぼこ主従はこの程度の修羅場に慣れているのか、何を気にした風も無く。

「ふむん? おかしいね」

「何か?」

 目の前の敵から目を離さずに身構えていた従者が、その体勢を崩さずに主の疑問を促す。主は全く緊張感無く、豊満な顎をもちもちと摩りながら答えた。

「まずそちらの彼はコンラディン家の者だと言うが、矢傷の彼の衣装はどう見ても長らく我が国と争っていた西方のもの。首なしの彼の鎧には家名も何も入っていないし時代が古すぎる。何の共通点もない、嘗ては敵対もしたであろう彼らが、この地にて共闘する理由があるのかね?」

 全く緊張感のないまま紡がれた言葉に、幽霊達は皆一様にその身を僅かに震わせた。驚きの後、警戒心が高まっていくのが解る。恐らくは男爵の指摘が事実なのだろう。

「更に、先日こちらを訪れたアルテ・コンラディン殿は、名乗りを上げた瞬間何の申し開きも出来ずに首を吊られたと聞いた。それよりは圧倒的に胡散臭い我々がやってきたというのに、不意打ちもせずに堂々と脅してくる。故に問いましょう、貴方がたはアルテ・コンラディン殿殺害の下手人ではありませんな?」

 断言すると、しんと塔の中は静まり返った。幽霊達はざわめきを止め、初めて見る奇矯な存在に戸惑っているようにも見えた。

「どうにもあなた方は随分と警戒しておられるようだ。突然の訪問については、まず謝罪させて頂きましょう。しかし吾輩達の目的はあくまで、この塔に起こった悲劇を解明すること。そしてそれはコンラディン家の御令息、エール・コンラディン殿に依頼されたものです。もしそのことについて、何か思うことがあるとするならば、ここの主殿にぜひともお話を伺いたいのですよ」

 幽霊達の緊張が高まる。ヤズローは己の銀の手甲をぐっと握り締めて構え直す。一触即発の空気が塔に満ち、今にもはじけ飛びそうになった時――


「皆、下がりなさい。わたくしが直接、お客様にお話を致します」


 凛と響く、まるで清らかな鈴のような声が、塔の上から響いた。

『お嬢様!』

『お嬢様』

『リュクレール様』

 ざわざわと幽霊達は一層さざめき、一斉に塔の上方を見る。つられてビザールとヤズローが顔を上げた其処には――

 真っ白な、少女がいた。

 屋上に続く階段、其処に立つ少女は、雪のように純白のドレスの裾をふわりと広げ、何の躊躇いも無く、宙を舞った。

 思わず、受け止めるべきかとヤズローの足甲が一歩前に出るが、主の手がちょいと服を引っ張った為止められた。

 そうしているうちに、白い少女はまるで花びらを散らせず、房ごと落ちてくるかのように、しかしゆっくりと舞い降りてくる。

 幽霊達は自然とその場を開け、少女の足を包んだヒールがこつんと床を鳴らすと同時、彼女はドレスの裾を抓み優雅にお辞儀をしてみせた。正しく、貴族の淑女の如く。

「おお、これはこれは」

 思わず、といった風に男爵の口から感嘆が漏れる。そうしてしまうことが納得できるほど、その少女は美しかった。

 年の頃は精々、成人したばかりの15,6にしか見えないが、透き通るような色白の肌と、ほんのり乗せられた淡い桜色の唇、そして、瞳孔を中心として縦に分かれた二色、金と青の混じった不思議な瞳をしていた。貴族の淑女としては珍しく髪はかなり短く切っていたが、それが惜しいと思える程に美しい銀髪だった。

 淑女は、傍に控えて腰を折った幽霊達に労うような視線を向けてから、改めて招かれざる客人であるビザールとヤズローに近づく。その顔は僅かに強張っていたが、敵対心というよりは、どこか怯えを堪えているようにも見えた。

 傍らに、恐らく従者なのであろう紫髪のメイドの幽霊をひとり連れ、少女は恭しく、丁寧に客人たちに向かって告げた。

「突然のご無礼、申し訳ありません。彼らはわたくしを守るために、気を昂ぶらせておりました。どうぞ、お許しくださいませ」

「いやいや、これはこれはご丁寧に! どうぞお気になさらず、どう考えても狼藉者は我々ですからな! しかしこのような美しい淑女がいらっしゃるのならば、花のひとつも手土産に持ってくるべきでした。このビザール・シアン・ドゥ・シャッス男爵、一生の不覚! こちらこそ、どうぞ許されたい!」

 まるで戯曲に出てくる気障男のように、短い手足を繰りながらおどけた礼をしてみせる男爵に、美しい少女は不思議な色の瞳を瞬かせて――ふ、とほんの僅か、硬い表情を緩ませたように見えた。

「不思議な方ですね、貴方様は。男爵様と、お呼びすればよろしいでしょうか?」

「もったいなきお言葉。まことに僭越ではございますが、美しいお嬢さん、貴方の事は何とお呼びすれば」

「まあ、これは失礼をいたしました。わたくしの名は、リュクレール。リュクレール――コンラディンと、申します。初代コンラディン家の娘として、この塔を領地として預からせて頂いております」

 もう一度、ドレープを優雅に抓み一礼をしてから、ほんの少し辛そうに、少女は口を開く。

「……お客様に対して、とても心苦しく思いますが、どうぞお帰り頂ければと存じます。さもなくば――アルテ・コンラディン様の悲劇が、再び行われることになるやもしれません」

 そんな、脅しのような台詞を綺麗な声で告げた少女に対し、男爵は――面白そうに、にんまりと笑って見せた。

「成程、つまり――貴女の手では、アルテ殿の悲劇を止めることが出来なかった、ということですかな?」

 僅かに少女の肩が揺れ、俯く。同時に、傍に控えていたメイドと、武器を下げていた男の幽霊達が一斉に怒りをあらわにし、男爵を睨み付けたが、すぐに少女は顔を上げた。そこに、僅かな驚きを乗せて。

「皆、おやめなさい。……はい、わたくしは、出来ませんでした。ですが、どうして……男爵様は、わたくしがあの傷ましき事件の、下手人ではないとお分かりになられたのですか?」

 言われて、ヤズローもそこに思い至り、驚いた。この塔の幽霊達を率いる謎の少女、恐らくエール・コンラディンが見たという白衣の少女に相違ないだろう。アルテ・コンラディン殺しの容疑者としては筆頭だ。しかし己の主、ビザールは最初から彼女のことを、悲劇を止めようとした側であると断じていた。

 さわさわと辺りに疑問の波が広がると、男爵は丸い腹をずいと突き出して見せた。たぶん胸を張ったのだろう。

「ンッハッハッハッハ! これは異なことを仰る。もし貴女がその細腕で、大の男の首を括ったのならば、吾輩がこの塔に入ってきた瞬間に同じようにすれば済むことではないですか。こうやって吾輩の前にお出で下さり、且つ丁寧に辞去を求めて下さる、この時点でかの下手人とは一線を画しているでしょう。何より、こんな美しい淑女が下手人とは、俄かに信じたくありませんからな! ンッハッハ!」

 途中まではそれらしい理由が語られたが、最後は完全な個人の感情だった。思わずヤズローは瞼を半眼にして主の背中を睨み付けたが、それに対している真白き少女は。

「……、」

 ほんの少し、青白い頬に朱が乗っていて、口をもごもごと動かしている。どうも、社交の場に慣れてはいないらしく、このような軽い褒め言葉でも彼女にとっては中々の威力だったようだ。少女が戸惑っているうちに、男爵は改めて周りを見渡すと、すいと少女に向かって短い腕を伸ばして宣誓する。

「吾輩の望みは、コンラディン家に横たわる暗鬱たる黒雲を排すること。貴女がかの家に連なる方だと仰るのならば、決して忌避したいものでもありますまい。どうかほんの僅かでもよろしいので、この吾輩にお時間をいただけませんかな?」

 少女は、やはり迷っているようだった。辺りを見回し、他の幽霊達が戸惑いつつも彼女の決定を待っているのを感じたようで――、ふ、と諦めたような吐息を一つ漏らし、膝を折って頭を下げた。

「畏まりました。お客様を玄関でお帰ししては、コンラディン家の恥ですもの。何分、初めてのお客様ですので、何のおもてなしも出来ないやもしれませんが、どうぞ、お上がりくださいませ」

「ンッハッハ! ――光栄です、淑女。では参ろうかヤズロー! 麗しの乙女の花園へ!」

「言い回しが不愉快です、旦那様」

 最後に余計な事を付け加える主に思わずいつも通りの容赦ない罵声を浴びせると、周りの幽霊達はやはり戸惑い、白い淑女は――驚いた後、困ったように、眉尻を下げてみせた。


×××


 塔の内壁をぐるりと取り囲むように続く螺旋階段を、静かに少女が上がっていく。先行するメイドの幽霊は、青白いランプを掲げて吹き抜けを飛んでいくが、彼女は客人に合わせて律儀に歩いているようだ。

「どうぞ、こちらへ――あの、男爵様、大丈夫ですか?」

「フウ、フウ、いや失敬、どうぞご心配なく、ゲッホ!」

「男爵様、ここでお諦めになるならどうぞご遠慮なく」

 塔の中腹辺りまで登ったところにある扉の前で、リュクレールが振り向くと、そこから十段ほど下がったところで肉饅頭が力尽きかけていた。彼の背中を支えつつ、従者が心底不愉快そうな顔をしている。

「ンッハッフ、容赦ないなヤズロー! 心配無用だとも、この吾輩、何を隠そう健康の為、ハァ、毎晩階段の上り下りをしているのだ!」

「居間から寝室に上がって下がる時の往復一度きりで既に体力が尽きているのですね、納得致しました」

 最終的に背をぐいぐいと従者に押されながら、やっと男爵は目的地に到着した。

「では謹んで、フウ、お邪魔致します。……おお!」

 僅かな軋みを立てて木戸が開き、淑女の後に続いて入った部屋は、幽霊塔の中の一部屋とは思えないほど明るかった。

 無論、その灯りは天井や壁に据え付けてある蝋燭に灯っている青い灯火なのだが、古ぼけていながらも立派な持て成し用の机と椅子、毛足の長い絨毯、天蓋つきの寝台など、貴族の寝室としては充分な広さと豪華さがあった。少女はほんの少し恥ずかしそうに、客人達に椅子を勧めながら言う。

「何分、お客様をおもてなし出来る部屋がわたくしのものしか無くて……落ち着かないでしょうが、お許しください」

「なんのなんの、吾輩には勿体ないほどの、フウ、歓待ですとも。出来ればお水を一杯頂きたいですな!」

 遠慮なく椅子を力いっぱい軋ませて座り、更に図々しいお願いをする招かれざる客に、恐らく先行して部屋に入っていたのだろうメイドの幽霊が眉を吊り上げながらも、茶の準備をしている。

 銅のポットの底に鬼火が灯り、湯が沸く。サーブされたカップは彼女の主と客の二脚のみだったが、

「ヴィオラ? こちらの、ヤズロー様にもお茶を」

「いえ、私は――」

「これはこれは忝い! ヤズロー、お前も喉のひとつも乾いただろう、席まで用意して頂いたのだから座りたまえ」

 本来、貴族つきの従者にまで席や飲み物を用意する等有り得ない。実際、メイドの方は僅かに戸惑っているようだったが、彼女の主もぜひ、と勧めてきたので、逆らうことはないようだった。

「……では、失礼いたします」

 ヤズローの方も、貴族の使用人としての礼儀は叩き込まれてはいるが、自分の主が勧めてくるのなら否はない。深く頭を下げてから、ビザールの隣の席に収まった。

「……うむ、これは美味い! 月光草ですかな?」

「お分かりになるのですか? 何分、碌に金陽の光が届かないので……ヴィオラが育ててくれているのです」

「ええ、吾輩のメイド頭もこれで茶を作っておりましてな。部屋の中で育てられる便利な薬草だと」

 舌が僅かに痺れるような辛味のあるすっとした味は、確かにヤズローの覚えにもあった。魔女達が自分の魔力を高める為に、育てだしたと言われる薬草。幽霊達にも、自分の霊体を維持するためにこういうものが必要なのだろうか。

「フウ、有難くも人心地つきました。それでは早速ですが」

「はい――」

 思わず居住まいを正す少女に対し、男爵は悠々と足を組みかえ――正確には悠々に見せて割と無理やり――、改めて身を乗り出した。

「まずは僭越ながら、自己紹介などを。吾輩の名はビザール・シアン・ドゥ・シャッス、お気軽にビザールとお呼び下さい。仕事は祓魔――実に端的に申し上げれば、化け物退治とでも申しましょうか」

「化け物……」

「おっと、誤解の無きよう申し上げておきますが、吾輩が祓うのはあくまで人に仇名す魔の者のみ。例え世界の理に背こうと、銀月女神の許しがある限り、人は死に留まる事が許されます。吾輩は、そこでちょっとやんちゃをしているものに仕置きをするだけです」

 おどけたような男爵の言葉に、少女は僅かに緊張を解いたらしい。ふ、と肩の力が抜けたようだった。

「……お優しいのですね、男爵様。申し訳ありません、正直、いつこの身を裁かれるかと怯えておりました」

「おお、これはこれは重ねて失礼を。ご安心ください、貴女のようなお優しくお美しい淑女に、そのような無礼は致しませんとも、母親の名にかけて」

 歯の浮くような台詞はやはり慣れていないのか、青白い少女の頬にぽっと火が灯る。メイドの眦が吊り上がり、ヤズローが主の足を踏んで止めるべきかと一瞬悩むうちに、リュクレールはどうにか態勢を立て直して答えた。

「わたくしは、そのような――ええと、男爵様のお母様は、誇り高き方なのですね」

「ンッハッハ、父親が誇れなかったが故のやむを得ぬ選択ですがね!」

「まぁ。……いえ、すみません」

 おどけて肩を竦めると、服の中に満ちた肉がミチミチッと音を立てたのが面白かったのか、思わず少女の唇が綻んだようだ。すぐに無作法に気づいたのか、慌てて身を竦めるが、男爵の方は満足げに笑って言う。

「おお、漸く笑って下さった。やはりお美しい淑女には、笑顔でいられるのが一番です」

「わたくしは――そんな」

「ふむん?」

 何か、思う所があったのか。少女は初めて、招かざる客人から視線を外し、僅かに俯いた。唇を少し動かすもそれは音を出すことを叶わず、きゅっと結ばれる。悩んでいるのか、迷っているのか、或いは――

「失敬、美しい淑女と話すなど随分と久々で、ついつい浮かれてしまいましたな。浮ついた話をしてしまい、申し訳ない」

 疑問から僅かにヤズローが身を乗り出した時、男爵自ら話を切り上げた。彼自身も違和感を覚えただろうに、そこを突っ込む気は今は無いようだ。主がそういうやり方をするのなら、従者に否は無い。大人しく椅子に座り直した。

 少女は気を使われたことにも気づいたのだろう、「いいえ、こちらこそ申し訳ございません」と深々と礼をした。間違いなくこの塔の謎を解く手がかりである少女に対し、悪食男爵はあくまで笑って言う。

「では、淑女が楽しめるように、吾輩とっておきの話をさせていただきましょう。海を越え、遠く離れた南方国のお話など如何ですかな? ああ、そうだ――ヤズロー? お前には退屈な話だろうし……失礼ですが淑女、この塔の中を案内して頂いても? 無論、淑女の秘密を暴くような場所には行かせないと約束しますとも」

 成程、この少女を釘付けにしている間に、塔の内部を探れ、と言われたようだった。ヤズローは遠慮なく茶碗の中身を飲み干すと、頷いて立ち上がる。やはりメイドの方は不信感をあらわにしているが、主の少女の方は何の疑問も持たず、笑顔で首を振りつつも答えた。

「いえそんな、お気になさらず……ではヴィオラ、ご案内を差し上げてくださいませんか?」

「……お嬢様がよろしいのでしたら、そのように」

「うむ、ではお言葉に甘えたまえ、ヤズロー」

「畏まりました、男爵様」

 主二人を残して、従者二人は部屋から出た。


××× 

 

 塔の内部は先刻見て予測した通り、吹き抜けの階段を使って上から下まで上がれるものだった。

 女主人の部屋を出てまず紫髪のメイドが案内したのは、そこから一階分下がったところにある部屋だ。

 元は見張り台として使われていたのか、外に通じる窓があるが、しっかりと鉄格子が嵌められている。あちこちに古い瓶などを利用した鉢があり、様々な植物が育てられていた。

「こちらは、私が管理している薬草部屋です。危険なものもありますから、迂闊には触れませんよう」

 メイドの声は硬く、やや冷たい。彼女自身、主の命に従えど突然の侵入者を歓迎するわけもないのだろう。自分がそちらの立場でも同じだろうと思うので、ヤズローも別に咎めはしない。

「……チムの草、月光草、アブルベリーですか」

「ご存知ですの?」

 見覚えのある草の名前をあげると、メイドは驚いたようだった。確かに一般的には珍しい草だろうが、男爵に仕えている魔女術を修めたメイド長も、庭や部屋で同じものを育てていたし、日々の雑草取りなどはヤズローの仕事だ、嫌でも覚えた。

「少しは。陽光が無くとも、ここまで立派に育つものですか」

「お嬢様には必要なものですから。僭越ながら、全て任されております」

 どこか誇らしげに胸を逸らして見せるメイドに対し、ヤズローはもう十分とばかりに踵を返す。

「あ、お待ちください! 勝手な動きは許しませんよ!」

「失礼」

 慌ててひゅっと体を揺らめかせたメイドが、部屋の壁を擦り抜けて吹き抜けまで飛んできた。無礼な客だと眦を吊り上げつつも、主の命を違える気持ちは全くないのだろう、眉間に皺を寄せながらも説明をする。

「あとは一階の部屋は台所で、井戸もあります。他の部屋の扉もありますが、普段は使っておりませんのであまり見れたものではありません。あとは屋上ぐらいですが――首吊りの渡し台しか、目ぼしいものはありませんよ」

「そうですか。……地下の方は?」

「ございません」

 ちゃらりと、首に巻き付きどこかに伸びたままの黒い鎖を揺らし、笑顔でメイドが告げる。流石のヤズローも僅かに鼻白んだ。

 この国は昔から冬は雪深く、どんな建物にも地下は据え付けられていたし、地下街もある。あるものが当たり前の事を躊躇いなく無いと言い切るのは、そこに何かあると宣言しているようなものだが――メイドの笑みは崩れない。言うつもりはないし見せるつもりもない、ということか。

「……心得ました。もう充分です」

 搦め手が出来ない自覚はあるので、ここは引くことにする。地下が怪しいと解っただけで、初回の調査としては上等だろう。

 階段を昇り始めると、メイドはやはり吹き抜けを飛びながら並びつつ――はっきりと告げた。

「……貴方がたから見れば私達は所詮、排除すべき塵でしょう。恨みと歪みに根を張ってこの世に留まり続ける淀みに過ぎないでしょう。ですが――お嬢様にはそのような罪は一切ございません。貴方がたがもしお嬢様に危害を加えるつもりならば、この塔の者達は皆一分の容赦も致しません」

 ゆらり、とメイドの姿が怒りで歪む。己の心のままにその身を変じてしまうのが、霊体しか持たぬ幽霊だ。いつの間にか先刻一階でまみえた兵士達も、あちらこちらから油断なく見ている。足場の悪い場所で囲まれた状態で、しかしヤズローは何ら怯え一つ見せず、メイドを睨み返した。

「……今まさに、私の主が貴女の主と共にいますが」

「お嬢様には常に、腕の立つ護衛がついております」

 事実だろう。幽霊ならば姿を見せずとも部屋の中にいくらでも伏せることが出来る。そう言われてもヤズローは全く気にせず――その様はまるであの太った主を信頼しているかのようだったが――

「それに、あのような何の心得も無さそうな男に――」

 そう言われた瞬間、空気が変わった。辺りの幽霊達に緊張が走り、思わずメイドも口を噤む。

「――主への侮辱は取り消して貰おう。そちらがその気なら、穏便に済ませるつもりはない」

 矮躯の年若な少年にしか見えないにもかかわらず、その迫力は下手な大男よりも強く、激しい。もしここで戦端を開けば間違いなく不利であると解っていながら、一歩も退かぬという気概が見える。それを強く感じて――メイドは、すっと頭を下げた。

「……失言でしたね。大変失礼いたしました、お許しを」

 自分の主を貶されるというのはとてつもなく辛いものなのだというのをちゃんと理解して、丁寧に謝罪した。それを見て、ヤズローも己の怒りをぐっと飲み込み、一つ息を吐いて答える。

「こちらこそ勇み足でした。申し訳ない」

「いいえ。――では、お嬢様の所に戻りましょうか」

 あとはお互い何も言わず、部屋へと戻ることになった。

 

 ×××


「……まあ、本当に翡翠で造られたお屋敷がありますの?」

「ンッハッハ、吾輩の友人の話が法螺でなければですがね。様々な濃さの緑によって葺かれた屋根に、金の龍が飾られているそうで」

 部屋に入ると、思った以上に和気藹々と二人は会話を続けていた。船でなければ辿り着けない南方の国のことを話しているらしく、少女は頬を両手に当てて、好奇心に目を輝かせている。

「想像できません、どんなに美しいのでしょうか?」

「淑女がお望みならば、いくらでもお連れ致しますよ?」

「……いいえ、それは」

 しかしその輝きは、ビザールが上げた提案により僅かに陰ってしまった。慌てたように太っちょの男は両手をむいんむいんと揺らしながら振り、深々と頭を下げる。

「おお、これは失敬! お会いしてすぐの淑女にいきなり逢引を求めるとはあまりにも不躾でした、お許しを」

「い、いえ、そのような! お気持ちだけは――大変、嬉しゅうございます」

 本当に嬉しそうに、でも済まなそうに――ただ本音の言葉だと告げた話に、メイドがほんの僅か悲しそうに目を伏せて――ヤズローは全く空気を読まずに声をかけた。

「男爵様、そろそろ一刻。お時間ですが」

「おお、残念ですがお別れのようです。もし貴女が許して下さるならば、是非もう一度、出来れば二度、お会いしたいものです」

「男爵様。本当に、ありがとうございます。ですがどうか、もう二度と、お会いしない方が宜しいでしょう。これ以上は……男爵様に、ご迷惑をおかけしてしまいますので。……お見送り致しますね」

 立ち上がり、そこで初めて、少女は明確に微笑んで見せた。それは酷く儚く、まるで相手を拒絶するような笑顔で――男爵は何ら気にした風もなく、よっこらしょと立ち上がる。

「ありがとうございます、淑女。すっかり長居をしてしまいました。願わくばどうか――貴女の御心が少しでも、お過ごしやすくなりますよう、僭越ながら尽力させていただきますとも」

 そう言った瞬間、男爵はその体からは想像できない速さで淑女の前にしゃがみこみ。

 真っ白な少女の手を自分のまるまるとした手でそっと包み、透き通るような手の甲に自分の唇をそっと押し当てた。

「あ――」

 驚きに少女が青い眼をまん丸に開いて、傍付きのメイドの眦が吊り上がり、部屋に伏せていた幽霊達が激昂して飛び出すよりも先に――主が笑い、従者が動いた。

「ンッハッハ! では失礼、またお会い致しましょう! ヤズロー!」

「畏まりました、旦那様。――ぅおらァッ!!」

 普段の会話では出さないように厳しく躾けられている乱暴な掛け声と共に、ヤズローは、ちょうどタイミングを合わせて床にその身を躍らせた主の背中を、思いっきり蹴り飛ばした。そのまま肉団子は凄まじい勢いで転がっていき、どばんと音を立てて部屋の扉へ突っ込み――吹き抜けの中に身を躍らせた。

「だ――男爵様っ!?」

 慌てて少女が駆け出して、階段の先へ飛び出そうとするのをありったけの幽霊が止めているうち、まん丸の体は重力に逆らわぬままひゅーんと落ちていき――ぼんよっ、と床に弾んだ。

「ンォッハッハ! ではまた、お元気でえええええ!!」

 肉の体は怪我一つなく、そのままごろごろと丁度開いた正面扉まで転がっていき――、いつの間にかほぼ並ぶ形で並走していた従者も後を追った。人間としては有り得ない動きに幽霊達が呆然としている間に扉は再び閉じられ、何事も無かったかのような静寂が戻ってくる。真っ先に我に返ったのは、淑女の傍付きであるメイドの幽霊だった。

「な、なんなのですかあの狼藉者は……! お嬢様、ご無事ですか!?」

「え、ええ、大丈夫です、ヴィオラ。驚きましたけど……」

 ほんの僅か、真っ白だった少女の頬に、花弁のような赤みが僅かに浮き出ている。その姿に幽霊達が体を恨みのままに変形させている中、リュクレールと名乗った少女は僅かに息を吐き、何の痕も無い自分の手の甲をそっと撫ぜた。まるで、其処に残った温もりを確かめるように。


 ×××


 汗の滲んだ掌で懐中時計を握り締めながら、エール・コンラディンは只管その文字盤を眺めていた。

 きりきりと僅かな発条の音を立てて、一番長い針が少しずつ、天辺に向かって進んでいく。固唾を飲み、それを見逃さないよう目をはっきりと凝らして。

 5,4,3,2,1――

「っ!」

 息を飲み、がちん、と音を立ててもう片方の手で抓んだ、鍵穴に差し込まれた銀の鍵を回した瞬間。

「ぬううううん!!!」

「うわああああ!!!」

 どばん、と音を立てて扉がはじけ飛び、中から肉団子が飛び出して来た。そのまま巨大な肉塊は叢をごろごろと転がっていき、同時に駆け抜けてきた従者の少年が、

「扉を!」

 と声を上げた瞬間、慌ててエールは扉を掴んで閉め、しっかりと鍵をかけた。

「は……、ビ、ビザール殿!?」

 安堵の息を漏らしてから、肉塊の正体の名を慌てて呼ぶと、手近な木にぶつかって止まっていた塊がむくりと起き上がった。

「いやはや、見事なお仕事でしたなエール殿! 待ち合わせに遅れることなく、お陰で助かりました」

「い、いえ……ご無事なのですか」

 草塗れで悠々と歩いてくる丸い物体におずおずと問いかけると、男はやはり快活に笑い。

「ンッハッハ、問題ありません。この装束は絡新婦アラクーネの糸で編まれた軽くて丈夫、滅多に破れず衝撃に強いというかなり便利な代物なのです! この程度の高さから落ちたぐらいでは、玉の肌に傷もつきませんぞ!」

「旦那様、一番の理由はその肉布団かと」

「そうとも、吾輩のチャームポイントだからな! さてエール殿、ご心配をおかけしましたが、色々と解りましたとも。しかしまだまだ一つ二つ三つ、真相に辿り着くには足りません。今お伝えできることは、この塔に入らない限り、コンラディン家の皆様の安全は保障されております。どうぞ不安に思いませぬよう」

「はぁ……ですが」

「無論、無論、この塔にコンラディン家を仇名す悪霊がいることはまず間違い御座いません。それを如何に祓うべきか、まずは作戦を立て直さねばなりません。――ヤズロー!」

「はい、旦那様」

 先刻主を思い切り蹴り飛ばしたことを微塵も見せず、荷物を纏めて立ち上がった従者に対し、ビザールは告げる。

「調べて欲しいことがあるので、洞窟街のレイユァのところへ。吾輩は一旦家に戻るが、客を呼ぶので、日が変わるまでには帰ってくるように」

「畏まりました」


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