◆2 夜会
乗合馬車に半日揺られて、ビザール・シアン・ドゥ・シャッスと従者のヤズローは、王都の貴族が一堂に会する謝恩会へ出席していた。
既に夜の帳は降りていたが、迎賓館は煌々とした光に満たされている。壁や天井に据え付けられた水晶には、領主お抱えの魔操師達が“光”と“染色”の術式をかけており、様々な色の光を降り注いでいた。
小高い舞台の上には草原の民の楽団と、朗々と歌い上げる、人の姿はしているものの、硝子と真鍮でその身を造られたオルゴール・ゴーレム。
一季節に一度の、貴族達が一同に会する宴に、皆用意された様々な山海の美味に舌鼓を打ち、貴婦人達が語り合う。
そんな中――一つだけ、随分と遠巻きにされているテーブルにて、ビザールはみっちりとその身を椅子に詰め込んでいた。
王家直属の料理人達が粋の限りを尽くした料理を所狭しと並べた円卓を一人で貸しきり、銀色のナイフとフォークを操りながら、仕草だけなら優雅なのに物凄い勢いで料理を口に運び続けている。
しかも、苦みの強い黒茶用に用意されている砂糖壷と蜂蜜の瓶を、ちゃんと味付けがされているであろう肉料理の上に逆さにしてどばりとぶちまけた。只でさえ周りで珍獣を見る目で見ていた他の貴族達が、不快そうな呻きを上げて後退る。
そんな、料理に対する冒涜としか思えない味付けをした太った男は、満足そうに舌なめずりをしてから、薄切りにされた肉を三枚ほどまとめてフォークで浚い、そのまま全部を口に入れた。ナプキンで軽く口を拭い、恐らく粗目糖でじゃりじゃりとしているだろう口の中のものを全て咀嚼、嚥下し、割と渋い声で笑った。
「ンッハッハ、流石殿下お抱えの料理人、見事な腕前であるな! どうだヤズロー、お前も食べるかね?」
そう言って、社交界に連れ出すとしては随分と年若の従者を振り向いて呼びかける。このような公の場にも関わらず、相変わらず両手両足を具足で覆った少年は、愛想など微塵もない顔だった。唯一の洒落っ気としてか、右耳を覆うような蜘蛛の形のカフスが却って不気味に見える。
主の揶揄とも取れる誘いに対し、眉ひとつ動かさず何の愛想も無く、ぽつりと告げた。
「お気持ちだけ頂いておきます。旦那様ほど意地汚くはございませんので」
従者が主人に利くには、例え真実でもあまりにも酷い口に、周りの貴族達の方が鼻白む。しかし主の方は気にした風もなく、また独特な口調で笑う。
「ンッハッハ! 素直じゃない奴め、好き嫌いをすると背が伸びないぞ?」
「生憎と、背丈の伸びは数年前に止まりました。縦ならともかく横に伸びるのは、絶対御免でございます」
そんなやりとりをしながらも、主の手は止まらない。見る見るうちに皿の料理が無くなっていくのを、貴族達は遠巻きに眺めながらひそひそと囁いた。
「……何だね、あの無作法な男は」
「ご存じないのですか? あれが、あの有名な悪食男爵ですよ」
「まぁ、聞きしに勝る体型ですこと。歩くより転がった方が早いのではなくて?」
「何故あんな男が、王太子殿下のご信頼を得ているのか……」
ひそひそざわざわと、潜めているように見せてしっかりと聞こえる声で言い放つ周りの貴族達へ、男の後ろに控えていた少年従者が視線を向ける。
その顔は、凍ったように動かない無表情だが、僅かに寄った眉間の皺は彼が不機嫌であることを知らせている。しかし貴族達にとっては、使用人の存在など空気と同じ、多少の視線など気にする風もない。更に上がる声の音量に、足甲に包まれた爪先が一歩踏み出しそうになったその時――
ちん、と銀のスプーンが皿を叩いた。それと同時に、振り返ろうとしていたヤズローはぴたりと止まり、その音を出した本人――即ち、テーブルにかけたままの太った男に向き直る。
「失礼致しました、旦那様」
「気にすることは無いよヤズロー。さてそろそろデザートに行くとしようかね」
「まだ甘い物を摂取するおつもりですか」
「ンッハッハ、デザートは別腹なのだよ!」
「よう、男爵。楽しんでるか?」
うきうきと体を揺らして追加を望む主と、心底呆れた顔をしながら取りに行く従者に、第三者の声がかけられた。辺りの貴族達の視線が一斉に注がれる。
燃える火の如し赤い髪を綺麗に後ろへ流し、髪と同じ色の顎髭をしっかりと蓄えた精悍な男。豪奢な装束を飾るのは、光輪を背負った竜の紋章と、まるで巨大な真珠を磨き上げたかのような輝く白色の石を全体に飾った見事な外套。彼こそがこの国の王太子、グラスフェル・グトゥ・ネージュ殿下であった。
賢王である父が在位40年を超えて病に伏してより、王太子の地位のまま様々な政務に励んでおり、国民の信も厚い。まだ年若い頃から様々な縁談が持ち込まれていたがいずれも歯牙にかけず、それでありながら数年前に、自ら「妻を得たが、王位を賜るまでは臣民へ発表は控える」と宣言した、色々と型破りな男でもある。
「おお、これはこれは王太子殿下。無作法で失礼致しますよ、何せ椅子から立ち上がるのは吾輩、中々の重労働でしてな、ンッハッハ! 妃殿下の御容体は、その後いかがですかな?」
冗談とはとても思えない口調で、座ったままたぷたぷと顎肉を揺らして笑う太った男の無礼さに、取り巻き達は目を剥く。且つ、どんな高位の貴族も全く明かして貰えない王太子妃のことを、この太っちょは何故知っているのかと辺りはまたざわめき出す。
そんな周りなど全く意に介さず、王太子は悠々と対面の椅子に腰かけ、長い脚を組んで続けた。
「知っているから気にするな。ああ、お前のメイド長殿のお陰ですこぶる良好だ。最近はすっかり南方からの輸入宝石に夢中でな、新しい首飾りを欲しがって仕様がない」
そんな妻に対する愚痴を言いながらも、王太子は笑顔だった。それだけで、彼が自分の伴侶を大変愛している様が伺える。
「ンッハッハ、お元気なのならばそれが何より。宜しければ今度、南方国の腕利き商人をご紹介しましょう。――して、そちらの方は?」
「ああ、助かる。紹介が遅れて悪かったな、エール。こっちに来い」
所在無げに王太子の後ろに立っていた青年に、ビザールが水を向けると、我が意を得たとばかりに呼びかけた。近づいて来た方は、困惑を隠せない顔のまま、おずおずと呟く。
「有難うございます、殿下。あの……この方が――」
まだ、あまり社交界に慣れ親しんでいないぐらいの若者だった。貴族位を持っていることは間違いないだろうが、まだ面の皮を千枚貼れる貴族達には遠く及ばないらしい。そんな青年に助け舟を出すように、皇太子は不敵に笑って太った男の名前を呼ぶ。
「ああ、そうだ。――仕事の依頼だ、ビザール・シアン・ドウ・シャッス男爵。彼――エール・コンラディンの家に起こっている、奇怪な事件を調査して貰いたい」
「奇怪、奇怪。ふむふむ、つまりは我が家に相応しいものが、彼と彼の御家族を苛んでいると、そういう解釈で構いませんね?」
「そうとも――ああ、安心しろ、エール。言っただろう、こいつは――」
未だ不安そうにする青年に、自信のみを持って王太子は続ける。
「この国で一番腕の良い、祓魔――所謂、『化物退治』を生業にしている貴族だ」
×××
王太子が他の貴族達に捕まってさっさとその場を去ってしまった為、悪趣味なテーブルには三人だけが残された。
「さてさて、それではお話をお伺いしましょうか、エール殿。ああ、良ければお一つ、いかがですかな?」
「い、いえ、結構です」
目の前に差し出された、デザートとして皿に並べられたパイ――こちらには魚醤のソースと塩がたっぷりかけられていた――をエール・コンラディンは仰け反って断る。悪食男爵はさして残念でも無さそうに、寧ろ嬉しそうに「左様ですかな」とその皿を手元に戻す。可哀想にも思える料理を男は二口で平らげて、満足げに口元をナプキンで拭う。そして随分と柔らかいパンのような両手で、エールの手を取ってにこりと笑った。
「では改めて、ご挨拶を。吾輩の名はビザール、ビザール・シアン・ドゥ・シャッスと申します。ですが通りは『悪食男爵』と名乗った方が宜しいですかな? どうぞ、お好きにお呼び下さい、エール・コンラディン殿」
「は、はい。お初にお目にかかります、エール・コンラディンと申します。この度は――」
正式に貴族の礼をしてから、まだ年若い青年は僅かに躊躇うように唇を震わせて噛んだ。話すことを迷っているのだろう。だがこのまま黙っていることは出来ないとばかりに、決意を込めた顔で口を開く。
「……その、シャッス男爵は」
「ビザールで構いませんよ、エール殿。コンラディン伯爵家に比べれば我が家等、吹けば飛ぶような木端貴族ですからな! ンッハッハ!」
自虐にしては随分朗らかに笑われて戸惑っていたようだが、咳払いをしてエールは続ける。
「ええ、ビザール殿は、その……失礼ですが、本当に『祓魔』の方なのでしょうか」
「おや、殿下からお伺いでない? これは失敬、改めてご紹介させて頂きましょう」
気づけばテーブルの皿はほぼ空っぽになっており、ワイングラスを綺麗に呷って締めとしたらしいビザールは、丸い頬をにんまりと持ち上げながら語った。
「吾輩の家系は古くから代々、生業として『祓魔』を行っておりましてな。例えばお伽噺に謳われる、邪神の眷属として生まれた、邪竜や悪魔、人狼等。人に仇名す人に在らざるモノの狩人を指して、昔からそう呼ばれてきておりました。しかし神々が眠り竜が去り、魔が封印されてから一千年、仕事量は右肩下がり。お陰ですっかり吾輩も痩せてしまいまして」
「旦那様、判別不可能です」
ぽんぽんと見事な太鼓腹を叩きながら朗々と喋る主に向けて、何の感情も籠らない声でぼそりと従者が刺す。
「ンッハッハ、小粋な冗句という奴だよヤズロー。ああ、その手の者に出会ったことが無い方には信じがたいと言うのは承知の上ですが、貴方ならば信じて頂けるのでは? エール・コンラディン殿」
漫才のような主従の会話について行けなかったエールは、不意に突きつけられた言葉にはっと息を飲んだ。己の家の恥部がこの男にも知られているのか、という羞恥と後悔の顔だろう。対するビザールは悪びれた様子もなく、焼き立てパンのようにむちむちとした短い手指を組み、たっぷりの顎を載せて笑いながら彼の言葉を待つ。
何度も口を開け閉めし、それでも耐え切れなくなったのか。藁にでも縋りたいような顔で――藁よりは、目の前の男の方が幾らかましなのか、と思ったのだろう――静かに告げた。
「……ビザール殿。恥を承知でお尋ねいたします」
「どうぞ、ご遠慮なく」
「幽霊、とは。人の首を絞めることが、出来るものなのでしょうか?」
僅かな怯えが籠った声に、ビザールはたぷたぷと顎を揺らして頷いた。
「ほう、ほう、なるほど。そのようなことをお尋ねになるということはつまり、幽霊に首を絞められたと思われる方が、貴方が知る限りにいらっしゃると?」
あくまで笑みを湛えたまま、太った男の瞳がきらりと輝く。其処に不審や揶揄は見えなかったことに、取り敢えずエールは安堵したようだった。馬鹿げたことをと我ながら思っているが、そうとしか説明が出来ないものを見てしまったが為に。
「ビザール殿、お話し致しますが、どうかこの話は他言無用でお願いします」
「無論ですとも、我が母の名に誓いましょう」
「……あの忌まわしい事件は、我がコンラディン家領地内に立つ、『首吊り塔』にて起こりました」
真剣に聞こえた男爵の声に促され、エールは訥々と語った。家名の汚点とも言える過去から、順々に。
「初代のコンラディン家当主は血気盛んな方で、異民族の攻勢を弱める為、塔の上から――捕虜を吊り下げ、その遺体を晒すことによって敵を退けたと言われています」
「ふむ、中々に野蛮な行為ですが、戦争とは元々が野蛮なもの。敵の戦意を削ぐ方法としては悪くありますまい」
慰めのような男爵の言い方に感謝の頷きを返し、エールは続けた。
「そんな、曰くのある塔だから、かもしれません。戦争が終わり、防壁が崩されても塔だけは残され、家の者は近づいてはならぬと固く言い聞かされておりました。それを破ったのは……真に恥ずかしながら、私の母でした」
屋敷からその姿が見えると言えど、馬車で森の中の細道を進まなければ辿り着けぬ遠く離れた塔へ、何故母は一人で出向いたのか。理由は解らないが、父が気づいた時には、母は塔の一階広間に倒れており、当時身籠っていた子供は流れてしまったという。
「私はまだ幼かった為、詳しくは知らされませんでしたが……それ以降母はすっかり気落ちしてしまい、寝室へ籠りきりになりました。父以外は部屋の中へ入ることすら許されず」
「それはそれは。さぞかし、お寂しかったことでしょう」
「いえ……その後は、曲がりなりにも穏やかな日々が続きました。しかし、ほんの一ヶ月前です。上の兄の縁談が持ち上がった際、かの塔のことが再び話題に上がりました。曰くのある塔など、壊してしまうべきだと。下の兄も私も、異論はありませんでした。子供心にあの塔は不気味な場所でしたし、母の気も少しは紛れるかもしれないと思いましたから。しかし、父は頑として首を縦には振りませんでした。あの塔に近づくな、触れてはいけないの一点張りで」
話は平行線になり、業を煮やした兄は、父には内密のまま塔の内部を調べ、何も無いことを証明しようと息巻いたのだ。
決して、仲の良い兄弟では無かったとエールは言う。いずれ家督を継ぎたいと、多かれ少なかれ三人とも思っていたのなら尚更だ。それでも、それでも――
「あのような死に方を望んでは、決しておりませんでした……!」
顔を覆って俯くエールに、ビザールは何も言わなかった。そっと顔を上げたエールを真剣な顔で、見つめて問う。
「して、兄上様方は噂を恐れず、塔の中へと入ったのですな?」
「……はい。ここから先は、兄の友人に聞いた伝聞なので、正確さの保証はありませんが。古びて黴臭い、何の飾り気もない塔だったそうです。中は吹き抜けで、持ってきた行燈を点けなくても銀月の光がずっと差し込んできて、明るかった。そこで、そこで――」
不意に。地の底から響き渡る、嗤い声を聴いたのだと言う。そこにいた、全ての者が。
もしかしたら、嗤い声ではなく恫喝だったのかもしれない。とにかく、塔全体を震えさせるような大声がわんわんと響き渡り、ほぼ全員が恐慌状態に陥った。唯一気を確かに持っていたのは、長兄だけだったらしい。
「兄は、怯むなと皆を叱咤し、声の主を誰何したそうです。すると、次の瞬間、大きな声は止まり、兄が」
一瞬だったという。長兄は己の襟に手をやり、まるで首を絞められているかのように苦しげに呻き、暴れた。見えぬ何かに抵抗するように。しかし、彼の体はあっさりと、宙に浮いた。まるで首に縄を巻き付けられ、吊るされるように。
他の者達が呆然としている内に、兄の体はあっという間に上へ上へと引き上げられ――天井の吹き抜けに吸い込まれていった。
その姿を何も出来ずに見送り――誰かが「外へ」と言った。誰かは覚えていない。その声に押されるように、皆我先にと外へまろび出た。
そして――見た。
首吊り塔と言う名に相応しい、屋上から中空へと張り出された渡り板。そこから吊り下げられた、ぼたぼたと汚物を零す肉袋。恐怖と苦悶に顔を歪めたまま事切れている、兄の変わり果てた姿を。
あとは、エールが見た通り。夕暮れの塔、その屋上に張り出された渡し台の上、白いドレスを翻す銀色の髪の少女が、自分達を見下ろしているのを見ただけ――。
「なるほど、なるほど。故に、『幽霊は人の首を絞められるか否か』なのですね」
思い出したくないが、忘れることも出来ない悪夢を語ったエールが漸く口を閉じると、悪食男爵は顎をたぷたぷ揺らしながら何度も頷いた。どうにも間抜けな姿だったが、それによりほんの少しだけ現実に立ち返れたらしく、エールもそっと息を吐いた。ずっと心につかえていた恐怖を、やっと吐き出すことが出来たのだろう。
「そうですな。そもそも、エール殿は何故、『幽霊は人の首を絞められないのではないか』とお思いになられたのですかな?」
「え? ……それは」
言葉遊びのようなことを言ったビザールに、戸惑いつつも、エールはおずおずと答えを紡ぐ。
「その……幽霊というものは、昔話で聞く限り、体が透けていて、壁を擦り抜けたりもして……何と言いますか、ものに触れることが出来ないのではないか、と」
「ほう、ほう、ほう! なるほど確かに理に叶っておられる!」
ずずいと身を乗り出され、依頼人は思わず仰け反る。ビザールは嬉しそうに揉み手をしながら、とつとつと舌を回し始めた。
「エール殿、貴方の見解は確かに正しい。幽霊というものはそもそも、『物質の肉体を失った』存在なのです」
ヤズローが注いだ新しいワインを遠慮なく飲み干しながら、男爵はそう言った。
「野菜が種から葉と根を生やすように、人は魂から骨と肉を作り上げて肉体と成します。古い文献には、魂を構成するものを『霊質』、肉体を構成するものは『物質』と記されておりますな。この世界の理を命じた神、世界を形造った龍、世界から零れ落ちた魔――それらには皆物質の肉体は無く、霊質のみの存在なのだそうです」
いきなり話が神話にまで飛んでエールは目を白黒させているが、男爵は気にした風も無く喋り続ける。
「では何故人間はそうならなかったのか? 神が自分達の奴隷として作り上げたから、などという説もありますが――有体に言えば、霊質だけでは、殆どの人間は魂を維持することが出来なかったのですな。己と世界の境界すら曖昧で、すぐに他の霊質へ溶けて混ざってしまう。肉体という、ある程度の強度があり経年劣化をし辛いものが無ければ、人は人としてあれなかった。つまりは――」
「旦那様。話が長いです。エール様が退屈していらっしゃいます」
滔々と語る悪食男爵に水を差したのは、他ならぬ彼の従者だった。先刻よりも眉間に深い皺を寄せ、主人を諌めるというよりは、いい加減にしろという苛立ちを堪えているようにも見える。使用人としてはすぐに首を切られてもおかしくない態度と口の利きぶりにエールは慄くが、主の方は全く気にした風も無く笑顔で詫びた。
「おお、これはこれは失礼しました! いつもヤズローには諌められているのですが、つい興が乗ってしまいました。許されたい」
「い、いえそのような」
「エール様、ご遠慮なく。黙らせるには肉を口に叩き込むのが一番です」
「は、はあ……」
無表情のまま、先刻取り置きしたらしい新しい料理の皿をそっと前に置いてくる従者にどう反応していいか解らないエールに対し、男爵はさりげなくその皿を自分の方に引き寄せながら、こほんと一つ咳払いをした。
「つまり、ですな。人は死ぬと物質の体を失い、その身は霊質のみとなる。人間の意志で霊質の体を保つことは非常に難しい為、殆どはそのまま消えゆくのですが――逆に言えば、霊質の体を保てる程の意志を持てば、世界に己を繋ぎとめることが出来るわけです」
そこまで言われて、漸くエールも、ビザールが何を言いたいのか気づいたようだった。
「つまり幽霊とは、霊質……のみの死んだ人間、意志を持って残っている人間、ということで宜しいでしょうか?」
「素晴らしい! エール殿、貴方はとても聡明な方だ。そして更に言わせて頂くならば、霊質は決して物質に干渉できないわけでなく、ただ物質の方が在り方として強靭である、というだけの話なのです。例えば――失礼」
そこでビザールは一旦言葉を切り、じっとエールを見つめて言う。
「吾輩は、貴方を、殴る」
一瞬、エールはひゅっと息を飲んだが、実際に殴られたわけでも無い。すぐににこりと笑った丸い顔に促されて緊張を解いた。
「どこか痛いところはございますかな?」
「え? ……いいえ、まさか」
「ンッハッハ! 勿論、吾輩は言葉に己の意志を乗せただけです。肉体はそれだけで傷つくことは滅多にありません。しかし、貴方の心、即ち魂はほんの僅かでも、驚きを得たのではありませんか?」
「それは、確かに」
「重ねて申し訳ない、ご無礼を致しました。つまり霊質とは、それだけ脆いものなのです。意志だけでは傷つかない肉体よりも、余程」
そういうわけで、と言葉を切った際に皿の上の肉を綺麗に浚い、口の中のものを全て飲み込んでから男爵は言う。
「人間の肉体に触れられる幽霊など、滅多におりません」
そう言われて、エールの背から力が僅かに抜ける。しかしその安堵を否定するように、男爵は尚も続けた。
「つまり、そうできる幽霊は、生きている者に対する凄まじい意志を持っている。即ち、悪霊と呼ばれるものなのですよ」
「悪霊――」
塔の上に立つ白い影を思い出し、背筋をぞっとさせるエールに気付いていないように、男爵は言葉を続けた。
「幽霊になる理由は、様々です。例えば憎悪、例えば悲嘆、例えば愛情。己の命が尽きようとした時、それでも得られぬ、欲してしまった未練が、人の霊質をこの世に繋ぎとめるのです」
「愛情、もそうなのですか?」
「愛というものは綺麗なだけではありませんよ、エール殿。大切な相手を守る為、他者を害するもまた愛と呼ばれるのです」
恋物語に目を輝かせる貴族の子女達に幻滅されそうなことを言いながら、男爵はまだ続ける。
「たとえその思いが尊いものだったとしても。その遺志に正当性があったとしても。先ほど申し上げた通り、霊質は危うく、魂は脆い。故に幽霊は、狂っていくのです」
「狂う、とは」
「さて、正しさの定義とは中々に難しいものですな。これ以上話を長くするといよいよヤズローに蹴られそうなので自重させて頂きますが、とかく人の思いというものは少しずつ変質してゆくもの。厄介なことに、幽霊はその変質に気づきにくいのが曲者なのです」
意味がいまいち咀嚼できなかったらしく、戸惑うエールの顔をどう思ったのか、ビザール爵はほんの僅か、苦笑の様な笑みを浮かべてこう言った。
「例えば、の話です。ある女性が子供を産み母となりましたが、その子供が幼いうちに病に倒れてしまう。当然、子供の事が心配な彼女は、肉体が滅んでもその思いを捨てず、幽霊となった。大変結構、尊い愛の形のひとつでしょう。しかしその子供には幽霊となった母の声も聞こえず姿も見えず、悲しみにくれながらも母の死を受け入れます。するとその時、幽霊はどうするでしょう? 己を構成する要素は子供への愛しかないのに、子供は既に己の存在を否定しているとしたら?」
「それは……いえ、本当に子供を愛しているのなら。悲しみに囚われずに成長した子供を、喜ぶのではないでしょうか」
言ってから、随分と青臭いことを、と自分で思ったのかエールの頬に朱が昇る。しかしビザールはどこか嬉しそうに、満足げに頷いた。
「ええ、エール殿、貴方の選択もまたとても尊い。きっと貴方は例え命を落としても、悪霊に成り果てたりはしないでしょう。しかし、そうなれぬ者が、その事実を認められない時――人は狂うのです。己を律する為に、生者を排除するしかないと」
「その、母親は。……子供に仇名す、悪霊になる、ということですか」
「然り、然り。さて、すっかり話が長くなってしまいましたが、改めて。貴方の兄上の命を奪った者が、首吊り塔に住まう悪霊だとするのなら、それを排するのが吾輩の仕事です。どうぞお任せ下さい、なあに我が血筋に連なるお歴々に比べるには随分と未熟な身ではありますが」
そこで一度ビザールは口を閉じ、まるで舞台俳優のように気取ったポーズをしてみせる。椅子に座ったままだし、悲鳴を上げる服の軋みがなんとも間抜けではあるが、堂々と。
「この吾輩、ビザール・シアン・ドゥ・シャッス。シャッス家十五代目当主にして、幽霊の専門家なのですよ! ンッハッハッハッハッハ!!」