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好きな作品の感想と考察

映画『この世界の片隅に』 時代の怪物を倒すということ

作者: 639228

 『この世界の片隅に』を鑑賞した感想として、まず、限りなく圧倒されたという感覚がある。そしてこの作品が何かとても重要なことを成し遂げたのだという実感がある。


 それは一体何なのだろうか?一体何がその実感をもたらしているのだろうか?


 それは、この作品がわれわれが生きる社会の巨大な問題を描き出し、それを解決する術を示したのだということ。この現代の、時代の怪物を倒して見せたのだということ。


 われわれの社会には、その時代、その時代において脅威となる事柄が存在する。暗闇、飢え、疫病等々。解決したものもあれば、そうでないものもある。それらは、それに対処する術を持たぬ者にとって手に負えぬ脅威であり怪物である。

 だが、火が暗闇を打ち払い、ワクチンが天然痘を撲滅したように、対処不能で恒久的に存在し続けると思われた脅威は、打ち倒されることで、それが対処可能なものであったと明らかになる。

 問題が提起され、それを解消する道筋が示されて初めて、われわれはわれわれ自身を覆う脅威の形を認識する。怪物とは、われわれが属する社会における巨大な問題の象徴である。


 われわれは連綿と続く時間に、どのようにして「時代」という区分をつけるのか?いかにして時代は終わり、始まるのか?

 それはその社会の巨大な問題の解決でもって、終わり、始まる。

 焚き火が夜を照らし、農耕が飢えから人を救ったように、「怪物退治」はわれわれの生活様式を一変させる。そのような見方でもって、われわれは時代に区切りをつける。


 想像は、現実に先行する。

 物語は常に現実に先行して、ありうべき未来を、怪物とそれに対処する方法を描いてきた。

 最古の物語である叙事詩が、怪物退治を描くことから出発したように、物語の世界は、連綿とこの怪物退治から出発したバリエーションを描いてきた。

 桃太郎のような鬼退治の物語から、泣いた赤鬼に至る流れを考えてみれば、わかりやすいかもしれない。

 映像の断片としての映画が、絵画の連続としてのアニメが、その手段でもって何がしかの事柄を物語ろうとした時から、それらはそういう物語の伝統に接続した。『この世界の片隅に』という物語もまた、われわれにとっての怪物とそれをうち倒す術を描いている。


 では、われわれにとって時代の怪物とはなんなのか?『この世界の片隅に』はいかなる怪物を描き出し、倒したのか?

 それは、人と人との間の、コミュニケーションの不和である。

 その不和が行き着くところまで行きついてしまえば、それは戦争になる。


 戦争というものが、長きにわたって、われわれにとって最大の問題で在り続けてきたことは疑いようがない。

 その問題意識は、人種を越え、言葉を越え、時代を越えて存在する人類という「われわれ」を見出した瞬間から生まれた。

 十六世紀、戦争を経て、モンテーニュがエセーにおいて立てた問い。

 なぜ人は人同士で殺し合うのか?なぜ人は人に対してあれほどまでに残虐になれるのか?

 その答えは、出ている。それは相手を人として見なしていないから。人をわけのわからぬものとして扱うに足る理由を、人が自らの手によって作り上げるから。

 戦争は、「怪物退治」ではない。戦争はその社会における巨大な問題を解決したりはしない。

 なぜならば、本来、人類という一つの種であるはずのわれわれが、倒すべき敵を見失い、互いに互いを怪物に見立てて殺し合うというのが、この事態の本質だからである。

 怪物を見失ったものの怪物退治。その怪物退治は、決して終わることはない。なぜならば、互いが怪物だとみなし退治するそれは、怪物ではないからだ。


 すでに問われ、解答を与えられてなお、それを現実の結果に結び付けられずにいる。互いを怪物として見做し合うことを止められずにいる。それこそがわれわれが抱える、われわれの社会の問題である。


『この世界の片隅に』はそれに対処する術を示した。

 それはいかにしてか?いかにして『この世界の片隅に』はそれを為したのか?


 それは、戦争と日常を等価に眼差す視野によって。

 われわれの日常的な振る舞いの中に、戦争に至る道筋が存在することを示すことによって。

 戦争に、特別な、怪物としての顔を与えないことによって。

 つまりは、兵器の作成やその使用、食料の調達からその配給に至るまで、あの時、あの場所で行われた全てが、徹頭徹尾、人間が行ったものであることを示すことによって。

 つまりは、戦争が止めようのない非常事態などではなく、ひとつひとつ、人が為し、行っていることの積み重ねなのだと示すことによって。


 この作品は、ひとつの構造の繰り返しによって物語を成している。その構造とは、ストレスとその緩和である。

 ストレス。この作品において、主人公であるすずが向き合うことになるストレスは、主に二つある。

 それは生活環境の変化や義姉とのいさかいに代表される日常におけるストレス。

 そして戦争という、非日常からもたらされるストレス。

 たいていの場合において、この二つは、別種のものとして、分けて考えられてきた。なぜならば、戦争からもたらされる事態というものは、われわれにとって圧倒的な異物感があるからだ。それは、われわれが生きる日常とは、かけ離れた事態に見えるからだ。

 特別な事態には、特別な対処が必要である。より新しい兵器が、より大きな壁が、そのような考えに基づいて作られた。


 だが『この世界の片隅に』は、そのような方法とは全く別の対処法を提示する。そして、この二つのストレスが同一の根を持つものだと提示する。

 そのストレスがどこから来るのか?それは人と人との間のコミュニケーションの不和。

 そして、それに対処する方法の一つが、「笑い」だ。


映画公開初期に江川達也氏が述べていることがある。


「最近ヒットした『君の名は』、『シンゴジラ』、『この世界の片隅に』ではそれぞれ、大きな災禍に対してどう生きていくかということが問われている。『この世界の片隅に』では、日々の日常を一生懸命、それも笑いをもって生きることで、原爆という災禍がもたらすストレスに、現実的に対応していく。それは具体的な、僕らでもできる対応の仕方である。それゆえに『この世界の片隅に』は現実対応に人を導ける作品である(注1)」


 この対処法は、客観の力を利用することによって成り立っている。

 ただ「私」が「私」の中で生きている時、自らに降りかかってくるストレスは、形ないもののように感じられる。それは不定形の怪物であり、対処しようのないものに感じられる。私にとってそれは、終わることのない圧迫の中にいるように感じられる。

 だが自らを、苦しみや悲しみといった、生きていることの真っ只中から切り離し、外側から眺めることができたなら、その苦しみからは解放される。あやふやだったストレスは形をとり、明確な、対処可能な問題として立ち上がる。それこそが客観の力である。


「笑い」についてもう少し例をあげて説明しよう。

 小説において、笑いを生み出すのに有用な形式として、三人称がある。

 試しに、人が落とし穴に落ちる場面を想像してみよう。人が穴に落ちる時、それは誰にとって面白いことだろうか?

 穴に落ちる当事者にとって、それは面白いことではない。穴に落ちる「私」にとってそれは驚きであり、恐怖であり、ひいては痛みを伴う出来事に過ぎない。一人称、つまり「私」の視点で描かれる落とし穴体験には、面白みはない。

 だが、「第三者」にとっては、そこに落とし穴があることを知り、そこに誰かが落ちることを待ち受ける者にとっては、そうではない。

 事態を外側から見る者にとって、それは面白いことである。用意された落とし穴に、何も知らない誰かがやってきて、ずぽっとはまる。そこには、予測と達成がある。そしてそこには、落ちる者への感情移入と、平静から驚愕に染まる落下者の外貌への観察がある。三人称が、笑いを生み出すのに適した理由がそこにある。

 そして時には、第三者でなく、穴に落ちた者自身が、自らを笑うこともある。

 それは、どんな時か?

 それはこの客観の視点を、自らの視点に重ね合わせる時である。自らの頭のハゲを笑えるのは、そういう時である。

 笑う時、人は自らの苦しみと自分自身を切り離し、少しの間、楽になる。この客観の力が、この作品の「現実対応」を支える力の一つである。


 この作品は、われわれの生きている「現実」に降りかかってくる脅威を明確に描いている。

 そしてそこで描かれた「現実」が克明であるからこそ、すずたちが行う「現実対応」はとても実際的な力を持つ。

 そして、その克明さは同時に、すずたちが抱えるストレスというものがなんなのか、それがどこからもたらされたものなのか、明確な解答を与える。

 それは、人を侮り、蔑ろにし、排除すること。人間を、非人間として扱うこと。

 その行いが、行き着くところまで行き着いたならば、それは殺人になる。

 人が人に対して行う否定の究極が殺人であるならば、その対象を広げ、規模を拡大させたものが戦争になる。ゆえに戦争こそが、人間にとって最大のストレスになる。

 人災がもたらすストレスは、自然災害のそれを上回る。東日本大震災の原発の問題が、地震それ自体より重いのは、それが人間が生み出したものだからだ。戦争も同じだ。人が人を殺すために作った機械で、実際に人が殺されていく。人間が人間を排除し、否定すること。その問題が深く横たわっている。


 すずが始めることになる新しい生活。嫁入りの翌日から始まる朝ごはんの支度。

 そこにストレスがあるのはなぜか?

 すずは切り開いていかなければならないからだ。自分がいないことが当たり前の空間の中を。

 なにによってか?

 物として、労働力として自分が有用であることを示すことによって。

 見知らぬ男と枕を共にすることから始まる生活は、幸せだろうか?

 女として、男に自分のものとして扱われることから始まる生活は、幸せに満ちたものだと言えるだろうか?

 答えはノーだ。

 すずは、お義母さんや、周作との関係においては、それなりに、物として有用に振る舞うことができる。

 だからすずは、半分の人間として、まだ人間に属するものとして扱ってもらえる。

 だが、径子との関係では、違う。そこには、明確な否定があり、侮りがあり、排除がある。

 径子が行っているのは、攻撃なのだ。煮干しを奪い、自分で下処理を行ってしまうということ。それは、お前の居場所はここにはないのだ、ということなのだ。

 径子は、すずのことを家のための労働力としか思っていない。そして、道具として、有用でもなんでもないそれ(・・)は、かけがえのないものでもなんでもない。それはなんにでも代用可能ななにかだ。

 だから、すずは苦しい。

 だからすずの生活の中で、なによりも、明確な壁として直面するのは、義姉径子との関係になる。

 自らを、非人間として扱われること、それがすずの苦しみの根源である。


 日常で被るストレスと戦争で被るストレス。強度の差はあるかもしれないが、それらは同一のものだ。

 そしてもたらされるストレスが、どこからもたらされるものであろうと、それらに向かい合うべき態度は、同じだ。

 われわれはそれぞれが、ひとつの体を持った人間であり、被害を被る体もそれに対処するのもそのひとつの体なのだ。

 戦争に対処するための特別な鍵をこの作品は必要としていない。特別な事態に対処するための、特別な魔法を、この作品は必要としない。なぜならそれは、すずに降りかかってくるその事態は、特別な事態ではないからだ。

 だからこそ、この作品は日常と戦争を等価に描く。単に、後半にやってくる戦争の悲惨さを描くために前半の日常描写があるというような、浅ましい描き方をしない。


 つまりはこの作品は、生活環境の変化や義姉とのいさかいといった日常の出来事から戦争までを包括する巨大な問題設定を行う。それらをいっしょくたに、同一の根を持つ問題として扱う。

 この問題設定こそが、この作品の最大の達成である。そこでは、もはや戦争は怪物ではない。

 この問題設定を行った時点で、巨大な怪物としての戦争は、解体されている。

 この映画は戦争に特別の意味を与えていない。『この世界の片隅に』はその一貫した態度によって、戦争の持つ特別の地位を打ち崩してみせた。

 この映画が「反戦映画」ではないと言われるのはなぜか?

 それはこの映画が、相対すべきもの、打ち倒すべきものとして戦争を設定していないからだ。

 解決できない巨大な現象としての戦争ではなく、われわれの生活の続きに、生きていく態度の延長に、戦争が存在するのだとはっきりと示して見せたからだ。


「戦争」という怪物はいない。打ち倒すべき怪物としての戦争はいない。突き詰めてしまえば、個々の人間同士のいさかい、不和があるだけだということ。戦争とは、解決せずに放置した不和の積み重ねに過ぎない。われわれは、その積み重ねにヒビを入れなければならない。人を排除しようという意思の積み重ねを崩さなくてはならない。


 いかにして?


 それは相手を知ることによって。

 つまりは、「あなた」を知ることによって。


 この作品では、すずと径子との関係を、映画の一番中心的な主題として描く。

 彼女たちの関係はその背後で行われる巨大ないさかいの象徴として描かれる。

 入れ子細工のように、最小のいさかいと最大のいさかいは、同じ構造を持つ。

 ゆえに径子との関係を回復することが、世界を貫く不和を打ち崩す第一歩になる。


 彼女こそが、この映画にとって一番重要な「あなた」である。


 すずは、日々の生活の中で、径子を知っていく。

 タンスにしまわれた径子の洋服。柱に刻まれた晴美や久夫の背たけの印。部屋に置かれた時計。布団の上で見る、周作に似た顔。

 知るということが彼女との和解への第一歩になる。


 この作品の一番のハイライトはどこにあるだろうか?

 径子との関係が、映画の一番の主題であるならば、径子との和解こそが作品の一番のハイライトになる。

 では、彼女との和解が描かれる場面とはどこにあるだろうか?

 それは、原爆投下の日、径子が、すずがここにいることを受け入れる時だと思う人も多いかもしれない。宣言と受容の場面。

 だが違う。ここの場面だけでは、まだ足らない。

 この二人の真の和解は、玉音放送後にある。

 それは、彼女たちが、互いが互いの感情を分かち合うところにある。


 晴美を失った時、径子は真正面から悲嘆することすらできなかった。

 径子が爆発し、すずを責める時、母親がなだめてしまう。

 豆腐の配給が、というような言葉で。

 径子は、自分を抑制することを強いられてきた。

 だが、径子の怒りは?悲しみは?誰にもぶつけようのない悲しみはどこへいけばいいのか?


 径子の感情は、玉音放送後、すずの怒りの表明に呼応するようにして露わになる。


 まだここに5人もおるのに、左手も両足も残ってるのに、と叫ぶすず。

 彼女の怒りに応えるようにして、径子の、せき止められていた感情は吐き出されていく。

 壁に(すが)り、晴美を呼ぶ径子。その慟哭に共鳴するように、すずは自分の心情を吐き出していく。

 心情的共有。

 この時、二人は互いが互いの感情を代弁する。

 二人の真の和解はここにある。

 ここで初めて、二人の女性は「われわれ」になる。

 ここで初めて、すずと径子は「あなた」と「わたし」であることを越える。

 ここで描かれるものこそが、この作品で一番重要な「われわれ」である。

 わたしは、あなたを受け入れますよ、という表明だけでは満たされなかったものが、ここで満たされる。


 なぜ、われわれは、爆弾投下後の市街に足を運び、傷ついた人々を救おうとするのか?

 われわれが草履を編むのは、なんのためなのか?

 そしてその一方で、黒焦げで隣保館に座り込む人間に手を差し伸べなかったのは、なぜなのか?

 それは、それ(・・)がもはや人間ではないとみなしたからだ。焼けただれ、正体不明になったそれは、もはや人間ではないからだ。

 刈谷さんのエピソードが悲痛なのはなぜか?

 それは彼女が、誰よりも人間であったそれ(・・)を非人間と見なしたからだ。

 その怪物(・・)は、いったいだれに会うために、黒焦げの体を引きずって歩いて来たのか?

 なぜその場所を、自らが座る場所と見定めて座ったのか?

 なぜ、綺麗な死体から、先に片付けてもらえるのか?

 人間が何を人間と見なし、何を人間と見なさないのか?

 われわれは敵国の人間だけを、非人間として扱おうとしたのではない。

 なぜ回天を載せた船から望む景色をこの作品は描く必要があったのか?

 水原が、自分が死んでいくことを当たり前のものとして受け止めねばならなかったのはなぜなのか?

 われわれが抵抗しなければならなかったものは、なんなのか?戦争を止めるために必要な、根本的な出発点とは、なんなのか?


 NHKのクローズアップ現代+(注2)では、この作品を「平和への祈り」と評した。

 なぜこれが平和への祈りなのか?

 戦争の全てが、人間の手によって行われたものであるならば、それは必然的に、人間の手によって止めることができる。

 そしてまた、人間の手によって行われ、止められる全ては、必然的に人間の手によって描き出すことができる。

 だからこそ、アニメーションという表現は選択されている。それこそが、この作品の作り手が、アニメーションの志として為したこと。

 祈り願う者の手が、ひとつの手と、もう一方の手を重ね合わせることで形作られるように、だからこそ、この作品は平和への祈りたりうる。

1)TBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYOナイツのちゃきちゃき大放送』2016年11月19日

江川達也氏の発言は上記のラジオから引用させていただいた。この引用は、一言一句、江川氏の発言を書き起こしたものではなく、私なりの理解と解釈でもって要約を行ったものである。

2)NHK 『クローズアップ現代+“この世界の片隅に”時代を超える平和への祈り』2017年1月12日

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