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「我が主よ。漸く国境にある検問所が見えてきました。あそこを越えればトルニクス共和国に入ります」
御者台と馬車を繋ぐ小窓からゲイリッヒの声が聞こえる。やっと到着したか。前の町を出発して丸二日は掛かったな。
荒野を進むにつれ道は狭く険しくなり、周囲は岩山に囲まれていく。切り立つ岩山の間、馬車がギリギリすれ違えるくらいの道の先に検問所が建てられていた。
大きく重厚な門の先で厳重な検査をクリアした俺達は、特に拘束される事なくトルニクス共和国に入る。
何だか随分とあっさり国境を抜けたので少し拍子抜けした。まぁ、本来ならこの程度なのだが、ヴェルーシ公国のしつこい取り調べを受けたらか、必要以上に身構えてしまったかもしれないな。
兵士には、未知の空飛ぶ魔物が最近目撃されているようだから気を付けるようにと言われた。態々注意を促してくれるとは、できた兵士さん達だよ。どっかの公国も見習って欲しいものだね。
その魔物についてもっと詳しく聞いてみたかったけど、実際に目撃した訳でもないので、生憎と噂以上の事は知らないらしい。
ここは実際に現れるという場所に行ってみるしかないようだ。それには確か、ここから近くにある町で王妃様直属の諜報員と落ち合う予定になっているんだったな。
次いでだから地図を広げて、兵士に聞いて近くにある町の場所を確認し、馬車はトルニクス共和国内を走り出す。
近くと言っても、この荒野を抜けた先にあるのでまだ数日は掛かる。ずっと日がな座りっぱなしは結構キツイものがある。
『相棒が店番してんのとそう変わらねぇだろ? 』
何だと? 全然違うよ! あれは一見暇そうには見えるが、やることはそれなりにあるんだ。馬車でずっと何もせず座ってるのとは訳が違う。まったく、テオドアは何も分かっちゃいない。
でも、隙な時間があるなら日頃出来ずにいた事をするチャンスでもある。旅が始まってから、俺は本格的に新しい酒の開発に着手していた。
切っ掛けはアンネの、甘い米のお酒があったら飲む―― の一言だった。ジパングの米から造った酒は香りも味も日本酒のように素晴しい物だが、どうも妖精達の口には合わないようで、敬遠されている。
それと同じでこの世界は甘味の類いが少なく、渇望している女性達が多い。その証拠に、デザードワインやハニービィ達が魔力収納内で育った花から作る濃密な蜂蜜と蜂蜜酒の売れ行きは良いのだ。
純米酒、大吟醸、焼酎といったものは男性には好評なんだけど、世の傾向が甘味を求められているのも事実。
ならば別の甘い酒を新しく造ろうじゃないかと思っていたところに、こうして隙な時間が出来たので色々と試している訳だ。
何をどうするかはもう決めている。前世に桜の花酵母で造った酒を飲んだ事があるが、しっかりとした甘味と爽やかな酸味、そして桜の香りも感じるのに、日本酒としての味も損なわない。米酒でここまで甘い酒が造れるのかと、初めて飲んだ時は感動したものだ。
それをこの世界で再現出来ないかと奮闘している最中だけど、中々そう上手くはいかない。先ず桜がこの世界にはないので他の花で代用するしかなく、魔力収納内で育った花達から酵母が作れないかと試したところ、幾つかの種類から酵母を分離させる事に成功した。後はそれを培養し、酒を醸すだけなのだが…… これが一番難しく、温度の変化、米の種類、精米歩合等で全く違う味になる。
こんなの、魔力支配のスキルが無ければとっくに投げ出していたよ。それほどまでに根気がいる作業だ。前世でも今世でも、酒造りを生業にしている人達には脱帽ものだよ。
良し、今日の分の仕込みは終わった。後は暫く温度管理をしつつ発酵させるだけだ。
まだまだ納得のいく味には程遠いけど、これを飲んだアンネとエレミア、アグネーゼの反応が楽しみだから、手を抜く訳にはいかない。
『ねぇねぇ、未完成でもいいからさ~ ちょびっとだけ飲ましてくれたって良いんじゃない? 』
『駄目駄目、こんな半端な物は飲ませられないよ。完成したら最初に飲ませてあげるから、我慢してくれ』
『ちくせう、こんな良い香りを前にしてお預けとは…… 拷問だよ!! 』
魔力収納内に建てた酒蔵の前で、アンネが涙を流し悔しがっていた。この花酵母を使った米酒を造ろうと色々試行錯誤し始めた頃から、花の香りに誘われたのか、時折そわそわと酒蔵の周りを彷徨くアンネの姿を見掛けるようになった。
『甘いジパングのお酒なんて、楽しみですね。まさかお花からお酒が造れるなんて考えもしませんでした。流石はライル様です』
いや、これは単にそういうのがあると知っていたからで、俺が見付けた訳じゃないからね? 本当に凄いのは前の世界の人達だよ。
『やれやれ、この酒精の強さと辛みの良さが分からんとは…… やはり羽虫の舌は子供と同じだな』
うん、ウイスキーをチェイサーも無しにストレートで飲み続けるギルもどうかと思うけど? 本当にギルとアンネは何から何まで合うものが無いんだね。
「ライル、何かが向かってくるわ」
エレミアの義眼がこっちに近付いてくる魔力を捉えたようで、壁に立て掛けていた蛇腹剣を手に持つ。
俺も集中して魔力を視てみると、確かに何かが俺達の馬車目掛けて走っている様子が窺える。この魔力の波動は初めてだな、形からして四足動物のようだが、足が二本多い。六本足の生物が四匹か…… どう考えても魔物だろうな。