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02


ヒカリは子供の頃から気が弱く、

人に流されやすい人間だった。

それは、成長して高校生になった今なお健在だ。

先生からの委員会や雑務の頼まれ事は断れないし、

友達からの誘いも断った試しがない。

本人は用事や願望があるのに、いつもそうだった。

先生や友達が悪いわけではない。

全て断る勇気のない自分が悪いのだ。

つくづく、そんな自分に嫌気が差していた…


だが、そんなヒカリにも理想とする人物像があった。

それは大人な女性である。

仕事をてきぱきこなして、

自分の意見をはっきりと申す。

しかし、仲間からは慕われ、尊敬される。

休日にはお洒落な服を着て、

都会から離れた隠れ家的なカフェに行くのだ。

そして、お高い紅茶を嗜みながら

ハードカバーの本に目を落とす…

素敵すぎる。

正に、才色兼備。

きっと大人な女性にとってノーと言うのは

朝飯前に違いない。


「それに比べて、私と来たら…」


溜息を吐いてしまうくらい残念だ。

一言で表すならば、怖いのだ。

断ったその先、相手に嫌悪感を抱かせてしまい、距離を置かれるのではないか、と。

折角、好意的に遊んでくれていた友達が、手の平を返す様に去ってしまうのではないか、と。

勿論、そんな筈はないだろう。一回や二回、断ったくらいで拒絶を喰らうなんてことは…

でも、そんな一抹の不安がヒカリにノーと言わせない。彼女は臆病でもあるから…




ヒカリは個展の前で一人、立ち尽くしていた。

人で溢れていたキャラクターストリートとは打って変わって、個展の前は不気味なくらい閑散としていた。

先程まで居た通りでは、店舗の内装が明るいものや、目に付きやすい派手な仕様が多かったが、目の前にある個展はどうだろうか。

正に、真逆。

入口から見る限り、内装は黒一色で統一されていた。

店の看板から、通路と中を仕切る壁まで、まるで数秒前まで真っ白な雪の様な店舗に、ありったけの墨汁をバケツに注ぎ込んでぶちまけた様だった。

まるで洞窟の入り口のようだ、とヒカリは思った。

中は何処まで続いているのか分からない処が、より、恐怖心を煽ってくる。


ヒカリは大人な女性なら、

美術館や個展に行くに違いないと思った。

だからこそ、彼女は変化への一歩を踏み出す為に、

ここに来た。

ついでに言うなら、無料だったからだ。

だが、彼女はその個展の独特の厳粛な雰囲気に飲まれ、萎縮してしまっていた。

そして、根拠のない不安ばかりが脳内を過っていく。


もし、もしだけど、作品の感想を聞かれたりなんかしたらどうしよう。

私には美術とかの芸術を判断する審美眼何てものはこれっぽっちも、そう米粒一粒程も存在なんてしないし…

それに、そもそもインタビュー何て慣れていないし、きっと口篭もるに違いない。

話せたとしても、三歩進んで二歩下がる様な話し方しかできないに違いない。

どうしよう、どうしよう…

ユキが居たら心強いのになぁ…


あれやこれやと考えているうちに、スッと横を通って1組のカップルが手を繋いで、談笑しながら個展の中へと入って行った。まるで、その重苦しい雰囲気を全く気にしてなどいない。

ヒカリは気づいた。自分が考えすぎなのだと。

別にそんな心配などする必要なんて、

最初から微塵もなかったのだ。

なぜなら、そう入場無料じゃないか。

あのカップルの様に、気軽に入って、勝手に出て行ってしまえばいいのだと。

先程まで咽喉に突っかかっていた物が、ポンッとどこかに消えていった。


そう、私は大人な女性になるのよ。

美術だって、音楽だって、違いの分かる良識ある大人に…


ヒカリは服の皺を直し、念のため、携帯の画面の反射を利用して髪を整えた。


「よし!行くぞ!!」


準備は整うと、彼女は大口を開けたブラックホールの中へと一歩踏み出した。





内部は外から見た通り、端々まで黒で統一されており奇妙な雰囲気を漂わせていたが、実際に入ってみると、余計奇妙に感じた。

その理由は、内部の臭いに在った。

お香を焚いた様な、甘ったるくて、妙に眠気を誘う臭いが個展に満ちていた。

その臭いが、黒一色で統一された不気味な内装と相まって、まるで黄泉の世界に来たようだった。

何よりヒカリの神経を弄ったのは、壁にかかった絵画の数々だった。

絵画は天井から付けられた照明の淡い光で照らし出されており、絵画に描かれた人物は舞台でスポットライトを浴びる役者のようだった。

だが、どうだろうか。

絵の中の人物は演技をしているのではない。

死んでいるのだった―――

その瞬間、意識が宙に浮かんだようなぼんやりとしていた精神が、一斉に体内に戻ってきた。

まるで、砂鉄が磁石の磁場に引かれて集まるように…

思わず、両腕を抱いて身震いをする。腕には鳥肌がびっしりと立っていた。


入口を入ってすぐの脇に飾ってあった絵は、美しい黄金色の艶々とした髪を持つ外人女性が真っ白なシーツに横たわっている絵画だった。

いや、ヒカリには絵画に見えなかった。

一眼レフカメラで撮られた様な、精巧な写真のように彼女には見えたのだった。

肌は生きている人間の様に瑞々しく、

張りがあり、艶があった。

唇の色や皺は、完全に生きている人間のそれだった。

思わず、彼女は自分の唇を人差し指の先で、そっと撫でてしまったくらいだ。

さらに言えば、顔や耳の産毛の一本一本まで、生えている様に見えるのだった。

ヒカリは驚いて声も出なかった。

今の美術はここまで進歩したのかと…

呆気にとられた。


絵画に見惚れていた彼女は、初めのうちは気づかなかったが、絵画の下に何か金属の様なプレートが嵌め込まれていることに気が付いた。


『安楽死』


プレートにはそう書かれていた。

プレートを見てやっとその絵の意味を理解したヒカリは、再び絵に目線を戻すと、体の奥の方から込み上げてくるものがあることに気が付いた。

悲しみ、哀しみ、恐怖、不快感…そういった負の感情の波が押し寄せてきた。

彼女は絵画から目を逸らし、胸を押さえて自分を落ち着かせた。

何を自分はこんなに感情的になっているのだろう。

ただの絵ではないか、と。

しかし、あの女性はさっきまで生きていて、まるで今、この瞬間に息を引き取ったようではないか。

ヒカリはもうそれ以上、『安楽死』と題された絵に目を向けることができなかった。

それぐらい、彼女にとって衝撃的だったのだ…


そんなに怖いのなら、見たくないのなら帰ればいいじゃないか。

そう思うかもしれない。

だが、ヒカリはその個展の独特の雰囲気に飲まれて、まるで中毒症状の様な物を起こしていた。

これは一種のホラーと同じだ。

怖くて見ていられないが、気になってついつい薄目を開けて見てしまう。

それと同じことがヒカリに起きていた。

ヒカリは既に、隣に展示された絵画へと移動していた。


次の作品は、先程よりも過激だった。

十字にして、縄できつく結んだ木材が地面に突き刺さり、周りを囲む人々を見下す様に聳え立っていた。そしてその十字には、青年が磔にされていた。

両手足には、手足の形が崩れてしまうのではないかというくらい大きな釘が減り込んでいて、首と胴体には身動きが取れないように縄が食い込むぐらい力強く結ばれていた。

そこだけでも目を逸らしたくなる光景だが、ヒカリは目を逸らさなかった。

その青年の足元よりも少し下に、戦慄を覚えた。

火が青年に向かって悪魔の手の様に、赤黒い火柱を伸ばしていた。

悪魔の手は、彼を容赦なく焼き、燻し、焦がしたに違いない。

人の焼ける臭いがしてきそうで、ヒカリは思わず鼻を摘まんだ。

この青年は相当苦しかったに違いない。

顔の元の形が分からないくらい大きな口を開けている。叫んでいるのだろう。熱い、熱い……と。

勿論、ヒカリ精々味わったことがあるのは火傷くらいのものだが、想像するだけで体のあちこちがチクチクと痛くなる。

この題名は何となく想像がついた。

プレートに書かれた文字は、


『焼死』


だった。題名を当ててもちっとも嬉しくなかった。

寧ろ、心が痛んだくらいであった。


次の絵画はどこか見覚えがあった。

確か、美術の教科書に載っていた……だまし絵。

塔の上の段差を永遠に上り下りしていくという絵だった。

その絵の中に、見るからに重たそうな荷物を背負った男性が複数いた。

苦悶の表情を浮かべ、今にも倒れてしまいそうな人が何人も居た。

彼らはずっとそこで上り下りを繰り返しているのだろうか…

足の皮が剥けて、そこから真っ赤なリンゴの様な肉が垣間見えた。

ヒカリにも、何度も皮が剥けた経験があったが、あの真っ赤な肉を見ると、何だか胸の内がぞわぞわしてきた。自分の皮の下にはこんな物が隠されていたのか、という驚きと、このまま放置して大丈夫なのかという不安。それが入り混じってぞわぞわになったのかもしれない。

題名が書かれたプレートには


『過労死』


と書かれていた。何だかヒカリは居た堪れない気分になった。


次の絵画の中には、鈍い輝きを放つ、鉄製の真四角の牢屋があった。

そしてその中に、薄汚れた白いワンピースを一枚だけ身に着けた少女が体育座りで鎮座していた。

目からは、汚れた顔を洗い流すように涙を止めどなく流していた。

一瞬、その少女がヒカリに助けを求めるような目線を送ってきた気がした。

大きく心臓が跳ね上がり、動悸が早まる。胸に手を当て、自分を落ち着かせる。

そんな筈はない。だってこれは絵なのだから。

幾ら精巧に作られていたとしても、絵は絵であって、動画みたいに動いたりはしないし、話もしないのだから。

絵から目線を落とし、先程と同様に題名を確認する。


『牢死』


と書かれていた。


個展の中には壁中に絵画が所狭しと並べられていて、数は予想よりも遥かに上回っていた。

『溺死』『圧死』『縊死』『毒死』『餓死』『爆死』

『震死』『事故死』『病死』 ……

覚えきれないほど様々な死の場面が描かれていた。


段々気分が悪くなってきた。

やはり絵であっても人間の死の場面は、気分の良いものではない。

頭が鉛でも入ったかの様に重く、吐き気がした。

車酔い、に似た症状だった。

そろそろ出ようかな……ヒカリはそう思った。

その時だった。背後に気配を感じたのは。


「こんにちは、お嬢さん」


後ろから不意に声を掛けられ、背筋を伸ばす。

振り向くと、そこには背景に溶け込んでしまいそうな、藍色のスーツを着た、線の細い美しい顔立ちをした女性が立っていた。


「私、この個展を開いた藍染と言います。如何ですか?私の作品」


私の作品?ヒカリはその言葉を胸の内で反芻した。

つまり…この人が絵画の作者、藍染さんなのか。

あの過激な絵からは、一番遠く離れた場所にいそうな人だった。

物腰の柔らかそうな態度。端正に整った顔。

だが、どこか病的で肌が綿の様に真っ白だ。男性はきっとこういう儚げな人が好きなのかもしれないとヒカリは思った。

いやいや、そんな事よりも、だ。

恐れていたことが現実になってしまった。

しかも作者本人から聞かれるとは予想だにしていなかった。

ヒカリは脳をフル回転させ、適した言葉を必死で探した。

探して、探して、探した挙句…


「す、凄かったです!」


ヒカリは口篭もりながら、なんとか答えた。

これが今の彼女にとって精一杯の感想だった。

おそらく、藍染さんは彼女のことを馬鹿だと思ったに違いない。

もしかしたら、余りにもあっけらかんとした感想に、肩を落としたかもしれない。

そう思った。

だが、ヒカリの予想はあっさり裏切られた。


「ほ、本当!?本当に本当にそう思ったの!?」


目を宝石の様にきらきらと輝かせ、問い詰められる。


「は、はい……えと、その、色遣いって言うんですか?それが凄いなぁって思って観てました。何か本物の人間がそこに居る……って感じがして……凄かったです」


目を泳がせながら、体をもじもじさせて答えた。

そういうと藍染さんは嬉しそうに身悶えた。


「嬉しいわ!みんなキモいとだけ言い残して帰っていくのよー。でもわかる人にはちゃんとわかるのね……ありがとう」

「そ、そうなんですか……酷い、ですね」


彼女は私の手を取って涙した。

こんな私の稚拙な褒め言葉で涙してくれるなんて……

もしかして、私は案外良い感想を彼女に言えたのかもしれない。

でも、何だか余計出ずらくなってしまった。

そして藍染さんの演説が始まった。

勿論、オーディエンスはヒカリ一人だ。


「私の作品って死に関した物ばかりでしょ?何でか分かる?」


ヒカリは首を横に振る。分かるわけがない。

分かっていたらもっと上質な感想を献上出来た筈だ。


「私は昔、目の前で父親を失ったの。交通事故で、呆気なかったわ……でもね、その時私はショックを受けるよりも先に、綺麗だって思っちゃったの。変?別に変と思ってくれて構わないわ。お父さんの死んだ瞬間、楽しかった周りの景色が、一気に哀しい景色に変貌したの。赤が青になった感じだったわ。死はね、凄まじいエネルギーがあるのよ。惚れ惚れしちゃう位強くて、美しい力が。それを私は絵に表現したの。見て、皆美しいでしょ?」


言っている意味がよくわからなかった。

正直、この人には凡人の私には理解できない思考回路を持っているに違いないとヒカリは思った。

でも、彼女は誇らしげな顔をして言うから、ヒカリは思わず相槌を打ってしまった。

それが藍染の中の情熱を燃え上がらせたのだろう。

先ほどよりも熱弁をふるった。


「死っていうのは刹那の華なのよ。誰もが、死には敏感でしょ?死は全てを魅了するのよ。勿論、格言う私も、その一人なんだけどね。私には絵の才能が在ったの。だからこそ、私は使命を感じたわ。私こそが死の華美を表現しなくちゃってね」


可愛らしく微笑んでくるが、ヒカリはそれに対してぎこちない苦笑いしかできなかった。

どのくらい、そうしていただろう。もう彼女の声も聞き飽きた頃だった。

ヒカリはとある作品の前で、彼女の説明を聞いていたのだが、何だか違和感を覚えた。

その絵には背の高いビル立ち並ぶ、街の中で1人の少女が血だらけの服を身に纏って道端で倒れている……おかしい。

首を傾げて、しげしげと絵を眺める。

絵の中の少女がどうもヒカリ自身に似ているのだ。

服装も、目を凝らしてよく見れば今の服装とよく似ている。

白いブラウスに、後ろに大きなリボンのついたネイビーのスカートを履いている。

下を向いて、今自分が身に纏っている服を確認する。

全く一緒なのだ。

体の奥底から沸々と、黒く粘々した不安が、恐怖が湧き上がってくる。


一歩下がると藍染さんが私の腰に腕を回し、耳許で吐息を混ぜながら猫なで声で囁いた。


「どうしたの?ヒカリちゃん?」


驚いて心臓が跳ね上がった。

彼女に名前を教えた覚えはないからだ。


「ど、どうして私の名前を?」


そう尋ねると彼女は艶然と微笑み、ヒカリの唇にほっそりとした人差し指を当てた。


「私、あなたのこととても好きになっちゃったの。美しい、健全な心をしているわ。正義感が強くって、思いやりもある…」


腰に回した腕が巻き付く蛇の様に徐々に這い上がってきて、ヒカリの乳房に触れた。

体中に電気が駆け巡り、体がびくっと大きく仰け反った。

思わず声が漏れそうになる。


「ねぇ、ヒカリちゃん。私の作品に絶対に必要なものってなんだと思う?」


色っぽい吐息が耳にかかるたびに、ヒカリの体が震えた。


「わ、わかりません……」


心の中で助けを求める。

誰か、誰でもいい…助けて…

しかし、周りを見回しても誰もいない。

そう、彼女は一人でここに居たのだから。


「そ・れ・は・ね……生身の人間よ」


藍染の腕を振り払い、逃げようとする。

ここに居てはいけない。ヒカリの本能が、そう言っていた。逃げろ、と。

しかし、思いの外、藍染の腕力は強く、手首を捉えられた。


「離してください!警察呼びますよ!」


藍染に向かって、怒鳴り散らした。

あわよくば、外に居る通行人に聞こえれば良いと思って。

必死に彼女の手を引き剥がそうとするが、余裕の笑みを浮かべたまま、悠然と佇んでいる。


「ダメよ。あなたは私の作品になるの。そして、絵の中であなたは死を何度も演じるのよ。そして、皆に魅せてやりなさい。死の美しさを…あなたにはその才能があるわ。健全であればある程、死の衝撃は大きいんだから」


藍染は唇を舌でペロッと舐めた。

そして、もう片方の手でヒカリの首根っこを掴み、全身を使って思いっきり絵画に叩きつけた。

不思議と、痛みはなかった。

田んぼに背中から落ちたように、沈んでいった…ゆっくり…ゆっくりと。

手を、足を使って必死にもがく。

だが藍染の表情を見ればそれが無駄だと理解した。

彼女は沈んでいく私を見て、まるで性的な快感を味わっているかのような、厭らしい顔をしていた。



そしてヒカリは絵画の世界へと堕ちていった。



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