01
東京駅。そこは毎日何十万という人間が利用する、まさに首都の名を背負うに相応しいターミナル駅である。
地下鉄からJR、そして新幹線。
その豊富な交通網が売りである。
更に、地下に潜ったところには様々な商業施設が軒を連ねている。
土産物屋や、キャラクターショップ、本屋。他にもレストランやカフェなどの、飲食店も完備されている。
蟻の巣の様に張り巡らされた、この地下空間には人間の様々な欲望を満たしてくれる商品とサービスで溢れかえっているのだ。
皆が大きな買い物袋を引っ提げて、
地下街を闊歩している。
如何にこの国が平和か判るだろう。
だが、逆説的に言えば、この地下街には様々な人間の欲望が集まってくる。良い意味でも、悪い意味でも…
人気スポットの一角に、黒く穿たれた空間が存在する。
耳を澄ませば、優雅なクラシックミュージックに混じって、人々の囁きが聞こえてくる。
「今日は、個展の開催祝いという事で集まって頂き誠にありがとうございます」
瀟洒なドレスやスーツを着こなした男女が、グラスを片手に中央の美しい女性に注目している。
美しさの中に何処か儚さを感じるその女性は、グラスをゆっくりと持ち上げ、乾杯の音頭をとった。
しかし、彼女は口を付けない。
皆がグラスを傾ける中、彼女は一人、両手でまるで一輪の花を持つかのように、グラスを手に包んだまま動かない。
暫くの間が空き、周囲の人がまるで糸の切れた操り人形のようにバタバタと倒れていく。
一人、また一人とドミノ倒しの様に…
彼女の体は、小刻みに震えていた。
恐怖に慄いている…訳ではない。
笑っているのだ。
周りの人間が倒れていく中、ただ一人で…
まるで性的興奮でも味わっているかのように、頬を赤く染めて、自分の体に手を這わせて…笑っていた。
「最高の気分だわ…」
そして、打ち上げられた魚の様に床に伏せる大衆に向かって彼女はこう言った。
「ありがとう、ありがとう。貴方達のお蔭で私の作品は完成するわ。心から感謝致します」
日曜日の午前。それはヒカリにとって幸せの時間である。
彼女は陽の光をいっぱいに浴び、暖かくなった布団の中で猫の様に丸くなって寝ることが大好きなのである。
この時だけは煩わしい事なんか考えずに済む。
惰眠を貪るヒカリに目覚めを告げたのは、携帯の喧しい着信音だった。
「ん〜、もう誰だよー」
布団から伸びた手が蛇の様に右往左往しながら、音の発信源を探し当て、乱暴に掴み取る。
画面には「ユキ」と表示されていた。
何となく、嫌な予感がした。
超能力者では無いけれど、この電話はきっと私を不幸にする…ヒカリはそう思った。
通話ボタンを押すと、決壊したダムの様にユキの饒舌な喋りがスピーカーから溢れ出た。
「はい、もしも…」
「あっ、ヒカリ!?ねぇねぇ!聞いて聞いてヒカリ!カラプリの葵くんの話なんだけどさ〜」
ユキの勢いに押されて、思わず携帯を耳から遠ざける。非常に興奮しているらしく、鼻息が荒い。
ちなみにユキの言うカラプリとは、カラーオブプリンスというアニメの事で、現在、女子の中でも人気を博している美少年アニメだ。
キャラクターにそれぞれテーマカラーがあり、ユキは青がテーマカラーのクールで知的な葵くんをこよなく愛しているのだ。
趣味は読書。
好きな食べ物はブルーベリーパイ。
好きな色は青。
血液型はB型。
誕生日は2/14の水瓶座。
徹底したブルーっぷりだ。
ヒカリは全く興味がないのに、こんなにスラスラ出て来てしまうくらいユキに毒されている。
ユキがカラプリの話題を出す、ということはだらだらとした至福の日曜日が送れない、ということを間接的に意味している。
「でさでさ、今日から東京駅の地下街キャラクターストリートでカラプリの特設店舗が開店するの。今日だよ!?今日!!トゥデイ!」
時々、英語が混じる時はユキがハイテンションな証拠だ。
こういう時はまるで聞く耳を持たない。
「でも絶対混むよ、休日だしさ。人だらけ!だからまた今度にしない?今日はさ、明日の学校に備えて……」
「ダメっ!!」
即答だった。
「本日購入者限定のポスターがあるの!!ヒカリだって葵くん好きでしょ!?ファンなら当然ゲットしないと!それにそれに、新しいグッズだっていっぱい出るんだから!そこは行かないとダメでしょ!」
「いやぁ、私は別に……」
「ヒカリ!葵の道は一歩からだよ!」
そんな道。入ったら泥沼だと思った。
こうなったら言うしかないと、ヒカリは心の中で決めた。カラプリには興味ないから他の人を誘って、と。
「あ、あのねユキ、私カラプリのこと…」
その先を遮るように、ユキが割って入る。
「じゃあ11時に集合ね!待ち合わせ場所は…銀の鈴だと混むから、地下のクロークの前で!」
それだけ言うと、電話はプツリと切れてしまった。
ヒカリはベッドの上に携帯をぽいっと投げて、肩をがっくりと落とした。
「うぅー、私の日曜日がぁー」
ヒカリの悲痛な叫びが、部屋中に響き渡った。
眠い目を擦りながら階段を降りて、リビングに入ると、父と母が朝食を摂っていた。
木製のダイニングテーブルの上には、花柄のランチョンマットが敷かれ、その上に牛乳、トースト、コーンスープ、ハムエッグにサラダが食欲を唆る香りを醸し出して、ヒカリを待っていた。
唾を一度、ごくっと飲んで席に座る。
相変わらず、母の御飯は美味しそうだ。
盛方も上手いし、彩りも良い…
座席に座って気づいた。
そう言えば隣の席が空いている。
弟のカイトがいないのだ。
「ねぇ、お母さんカイトは?どっか出掛けたの?」
「部活だよー。朝からほんと大変ねぇ」
「ふーん、ご苦労様だね〜」
ヒカリはトーストに手を伸ばし、一口齧った。
すると、香ばしいパンの香りが口腔に広がり、先ほどまで落ちていたテンションが一気に跳ね上がった。
「今日は何処かに出掛けるの?」
斜向かいに座る母が尋ねる。
今朝の事を思い出し、ため息混じりで答える。
「うん、ユキと東京駅で待ち合わせ。なんか新しくカラプリの店が出来るんだってさー」
「あらあら、ユキちゃんカラプリに首っ丈ね」
母が口許に手を添えて、たおやかに微笑む。
「本当困るよ。私は全然興味ないっていうのに無理矢理連れ出すんだよ?たまの日曜日くらいゆっくりしたいって」
「いいじゃない。ねぇお父さん?」
「………うむ」
「わたしたちも昔はよく出かけたわよね」
「………そうだな」
父は無愛想な顔で頷く。
父はいつもこんな感じで、機嫌が悪そうな顔をしている。その上、無口である。
なので、食卓上の会話ではいつも母が率先して喋っているのだ。
「ヒカリはお父さんに似たのねぇ。お父さんも日曜日は何処も行きたくないってよく言っていたわ。家でゆっくりさせてくれーって。でもね、私が連れ出すといつもお父さん楽しそうに笑ってくれるの!ねぇ、お父さん?」
「………う…む」
「こないだなんかね、お父さんが……」
母のマシンガントークが始まった。
弾が切れるまで続くもんだからヒカリからしてみれば、堪ったもんじゃない。
しかも、内容は全て父の事ときた。
仲がいいのは良い事だが、大概にして欲しいと言うのがヒカリの本音だ。
「ごちそうさまー」
お皿を片付けて部屋を出ようとすると、お父さんは私の方に一瞥をくれると、一言。
「………早く帰ってこいよ」
「そうそう今日は日曜日だからね。あの日よ」
「あ、そっか」
うちではきまって日曜日の夕食に、「明日から一週間頑張りましょう」と気合を入れる意味で、外食をするのだ。
ヒカリは面倒臭いふりをしているが、密かにこの習慣が気に入っている。
「はいはい。早めにね」
それだけ言うと、階段を駆け上がって、顔を洗い、歯を磨いて、髪を急いでセットした。時間に追われつつ何とか支度を済ませ、急ぎ足で家を出た。
「いってきまーす」
扉を開けると、日曜日らしい真っ青な空が広がっていた。
そしてヒカリは思った。
きっとユキはこの空を見て葵くんを思い浮かべているに違いない。と。
休日は何処もかしこも人で溢れている。
公園にはレジャーシートを広げた家族連れが。
スーパーには荷物を山ほど抱えたお父さん方が。
地元の駅前でさえも、何か催し物が起る予兆すら感じられる。
券売機でSuicaにお金をチャージして、颯爽と改札を抜けていく。
ヒカリはホームで電車を待つのが好きだ。
人を運んでくる電車が何か新しい出会いを運んでくれる気がして、ホームに車両が入ってきた瞬間、なんだかロマンチックな気分になる。
勿論、今までそんな出会い何て無かったのだが………
精々、スカートが捲れていて、スーツを着こなしたお姉さんに教えてもらったくらいだ。
思い出すだけで恥ずかしくなる。
そんなことを悶々と考えている内に、ホームに電車が入ってきた。
電車内は通勤ラッシュ程ではないが、それなりに混んでいた。
今日はいつもみたいに、制服やスーツを着ている人は見かけられない。
かわりに、カラプリのグッズをリュックにありったけ付けた女性を見かけた。
同じ様な缶バッチや、人形を所狭しと付けている。
一体幾らしたんだろう………
あの人はテーマカラーが緑の葉くんが好きなようだ。
癒しキャラのどこかあどけなさの残る葉くん。
確か、葵くんと葉くんはカラプリの中でも一、二を争う人気っぷりで、いつも人気投票では熾烈な争いを繰り広げている………とユキが言っていたことを思い出した。
彼女も今から東京駅の店舗に行くのだろうと、ヒカリは思った。
「東京〜東京〜」
電車から降りると、タイミングを見計らった様に携帯が鳴った。
ユキだった。
通話ボタンを押して、耳にスピーカーをあてる。
「ごめんヒカリぃ〜」
今にも泣きそうな声だ。
何かあったのだろうか…
「どうしたの?」
「人身事故だって、電車いま運転見合わせてんの。まじ最悪だよー。ああ、葵くーん…」
悲痛の叫びがスピーカー越しに痛いほど伝わってくる。
「本当ショック………私、マタニティーブルーになりそうだわ」
「……あんたいつ子供産んだのよ」
「じゃあ私、適当にぶらついてるから着いたら教えてね」
「うん…ゴメンね」
幸い、東京駅には多種多様な店舗が入っていたので、飽きることはなかった。
だけど、日本人がこの地下空間に全員集合したように混んでいる。
進むだけでも一苦労だ。
まるで急流な河川を遡行しているようで、ヒカリは無駄に疲れてしまった。
「はぁ…」
ジューススタンドでミックスジュースを買って、一息つけそうな場所を探す。
通路の壁に凭れ、一休みしていると携帯が振動した。
携帯を開いてみると、無料メッセージアプリでユキから大量の葵くんの画像が送られて来た。
思わず、画面を閉じた。
「混んでる?」
大量の画像に混じって、ユキの文字が目に入った。
「どこもかしこも人だらけだよ」
と返信すると、すぐに返事が来た。
「カラプリ??カラプリまじ混み!?」
「多分…」
「ヒカリ様。一生のお願いですから葵くんのグッズを買ってポスター貰ってくれませぬか?」
何となく、こうはなりそうな気はしていた。
電車はまだ動いていないらしく、更にポスターも手に入らなかったら、彼女は本当にマタニティーブルーになってしまうかもしれない。
「わかった」
不承不承に返事した。
カラプリの特設店舗は、獲物を喰らう猛獣で溢れていた。
グッズの棚は荒れに荒らされ、食い散らかされていた。
その熱気に圧倒され、思わず一歩退いてしまう。
まるでアニメで見た、婦人服バーゲンのそれだった。
人混みからは無数の手が伸び、グッズを鷲掴んでいく。
目の前の光景を見て、ヒカリは無理だと悟った。
まるで、弱肉強食の世界だ。
温和な草食動物のヒカリには、到底縁のない世界だ。
その時、携帯が振動した。
「買えた??」
催促が来てしまった。
これはもう行くしかないだろう。
髪を後ろで束ね、大きく息を吸い込んで、
ヒカリは戦場へと駆出した。
結果、心身ともにボロボロになったが、ポスターは何とか手に入れた。
足を踏まれ、カバンを引っ張られ、もう泣き出しそうだった。
あのリュックを持った女性や、ユキはこんな争いに身を投じていたのかと思うと、ただただ尊敬する。
「本当……良くやるわ………私」
ヒカリは負傷兵のように足を引きずりながら、ベンチに腰掛け、早速ユキに朗報を届けた。
すると、待ってましたと言わんばかりに、すぐさま返事が来た。
「よくやったヒカリ一等兵!大好き大好き!!」
「お褒めに預かり光栄です」
一仕事終えたが、ユキがここに来るまでには、まだ時間がかかるようだ。
ここで、座って待っていようか。
それとも何処か、カフェにでも入ろうか。
でもこの時間、どの店もすし詰め状態だろうし。
頭を抱えて迷っていると、
目の前の看板がふと目に入った。
「藍染美咲 個展『死の劇場』」
引き寄せられるように、ヒカリの足は個展へと向かっていた。