GIUSEPPE: 1387
志室幸太郎さまの「コロンシリーズ」参加作です。
フードを被り、鞄を肩から下げた二人の男は、ようやく家の裏手となる中庭に着き、馬から降り、大きく伸びをした。
「やぁ! アラーニャさん!」
一人はフードを下すと、木窓が開いている部屋に向かって大きな声で言った。
「ん、ん、ん」
そう声を出しながら爪先でリズムを取っていると、木窓が大きく開き中年の女性が顔を出した。
「うるさいね! 表で亭主の店が開いてるんだ。用事があるなら……」
女性を呼んだ男は、二頭のロバに担がせた油紙の包みを叩いていた。その顔には無邪気とも思える笑顔があった。
「はぁ…… わかったよ。見ててやるから、さっさと運んじまいな」
「ありがとう、アラーニャさん!」
そこでもう一人を振り返った。
「よし、あとほんの少しだ」
油紙の包みを両腕に抱え、二人は何度か階上へと登り、そして降りた。
最後に、運び残した包みがないことを確認すると、男はもう一人に言った。
「マッティア、それじゃぁ、親方に馬とロバを返してこい。ちゃんと無事に連れ帰りましたってな。保証金を胡麻化されるなよ」
マッティアはうなずくと、手綱を両手に握り歩きだした。
「見ててやったけどさ、少しくらいは礼があってもいいんじゃないかね?」
「アラーニャさん! ありがとう! 今夜はあなたの店で、人間らしい食べものを充分食べることにしますよ! いや、本当に連中はなぜあんな食事で満足しているのか。いや、満足してないのかもしれないけど」
「なんだい、それじゃぁ、うちの人が働いた分の料金じゃないか」
「あ〜…… 食べると言っただけで、支払うとは言ってませんが?」
「また、全部あれかい?」
アラーニャは上に指を向けた。
「そうなんですよ。同業者が増えて来てるからかなぁ。もうみんながめつくて。でも今回はあれだけ頑張りました」
「思うんだけどさ、土産なんかの方が安上がりなんじゃないかい?」
「それも考えたことはあるんですけどね。どの教会も修道院も、自分のとこか親分のとこのワインが一番だっていうのが建て前だから、珍しいのを持って来ましたって言っても、駄目なんですよねぇ。本当にいいって噂のは効くんだけど、むしろ高くつくし」
「まぁいいさ。踏み倒したことだけはないんだから。それにしてもくたびれたもんだね」
男は両手から両足へと目をやった。
「ここのいいところは、アラーニャの店があるとこだなぁ。お湯も貰えるし」
「あぁ、わかったわかった。やかん二つ持ってくから、用意しときな」
「ありがとう、アラーニャさん!」
そう言い、男はまた階段を上がって行った。
「あんた、ジュゼッペが帰って来たよ」
後からアラーニャの声が響いた。
ジュゼッペは階上の部屋に入ると、たらいを二つベッドの下から引きずり出し、二脚の椅子の足元に置いた。ベッドの横の机から距離を取って。机の横に置いてある油紙の包みからも距離を取って。箪笥から四枚のタオルを取り、椅子に二枚ずつ置いた。ベッドの横に置いてあった手桶を取り、階下へと降り、中庭の井戸から水を汲んだ。
「もうちょっとで、さっぱりできる」
そう言いながら、ジュゼッペは水で満たした手桶を部屋へと持って行った。
並べた二組のたらいと椅子の間に手桶を置き、椅子に腰を下ろした。ブーツを脱ぎ、上着もベッドに放り投げた。
「ジュゼッペ、持って来てやったよ」
さきほどの女性の声が入口から聞こえた。
「アラーニャさん、お願い。中まで持って来て」
「もう来てるよ」
すぐ後から応えがあった。
「なんだい。いつにも増してくたびれてるじゃないか」
「うん。段々遠くか、行き難い場所にどうしてもなっちゃうから。でも今回はちょっと無理をしたかなぁ」
「マッティアにはちゃんと払ってやってられてるのかい?」
アラーニャはジュゼッペの前のたらいにお湯を注ぎ、手桶から水も注ぎ、温度をみた。
「マッティアは、筆耕の見習いで僕の弟子だけど。ん〜、僕に金を払っているわけでも、僕が金を払ってるわけでもないんだ」
アラーニャはもう一つのたらいにお湯を注いだ。
「おや、そうだったのかい? ずいぶん荒く使っているように見えるけど」
「僕のパトロンから、マッティアを弟子にして使えって」
「パトロンのご子息かい?」
「いや、そうじゃないみたい。でもパトロンに近しいみたいだけど。それに……」
ジュゼッペは目の前のたらいに掌を入れ、温度を確かめた。
「弟子で、読み書きとか教えてるけど、なんだろうな、むしろこっちが観察されてるんじゃないかって思う時もあるよ」
「パトロンがあんたを観察してるってことかい? 金を出すんだから、そんなこともあるのかもねぇ」
「えーと、アラーニャさん、えーと」
ジュゼッペは自分とたらいを交互に指差した。
「あぁ、そうだね。若い男を見れるかと思ってたけど、気付いちまったかい」
「僕も若くはないですよ」
アラーニャは笑い、部屋から出て行った。
「坊さんの何やらわからないのとは違う、ちゃんとした料理を食わせてやるからね」
そう言い、アラーニャは入口を閉めた。
ジュゼッペは溜息を吐き、下着も脱ぐと、お湯に浸したタオルで体を拭き、足も洗った。
「はぁ、気持ちいい」
両足をたらいに漬け、椅子に座り、ジュゼッペは呟いた。
そこで入口が開く音がした。
「マッティア? アラーニャさんがお湯を用意してくれた。お前も体を拭けよ」
「保証金、受け取って来ました」
「あぁ、あぁ。机に置いておいてくれ。それよりお前も体を拭けよ」
「それじゃぁ、お湯、ご馳走になります」
「あぁ」
ジュゼッペは、アラーニャと話していた時よりも疲れているようだった。
翌日の昼頃、ジュゼッペは目を覚ました。井戸から水差しに水を汲み、机に置いた。油紙の包みを一つずつ開き、検分した。いずれも数十枚から百枚ほどの紙の束だった。一枚ごとに連番が振られ、オリジナルの表紙にあたるところにはタイトル、著者名、翻訳者名、発行年、そしてオリジナルの所蔵場所が書かれていた。
ジュゼッペは鞄から手帳を取り出し、そちらにも書かれている目録を確認した。四十冊ほどの筆写本の目録があった。
「さてと。パトロンがとくにお望みなのは」
目録に指を滑らせ、目録の内容を読み上げた。
「と言っても、聞いてる話が本当で、発行年も本当なら、目録だけで見当をつけるのはやっぱり難しいんだよな」
もう一度、目録を読み上げた。
「いつもどおり興味を惹かれたものからか」
ジュゼッペの指が目録の一冊で止まった。
「これはマッティアが筆写したものか? タイトルがわからないな。そんなつまらないミスをする奴じゃないんだが」
油紙の包みから、その一冊を取り出した。
「タイトルは間違っていない」
ジュゼッペは何枚か紙をめくり、本文の出だしを頭に出し、一文を音読した。
「ラテン文字を使っているが、ラテン語じゃない」
更に半ページほど、朗々と読み上げた。
「あ、これギリシア語だ。ギリシア語をラテン文字で書いてある。さて、こういう場合はどうしたものか。このままの清書、ギリシア文字に戻した清書、ラテン語に訳した清書かな」
ジュゼッペは鞄からインク壺を出した。残りは多くなかった。机の上のペン置きと、そこに並べられているペン軸とペン先も数えた。机の脇にある引出しも見た。紙も残りは多くない。
インクと紙を見ながら訪れた修道院の様子を思い出した。本は書架に、書見机に、あるいは筆写机に鎖でつながれていた。筆写机にないものを筆写したい時には筆耕長に依頼し、筆写机の鎖に繋いでもらってからの作業だった。
ジュゼッペとマッティアは紙を使ったが、それはまだ珍しく、また装飾文字を使わないことにも非難の目が向けられた。筆写を誤った時には、紙の表面をナイフで削り、別の紙を裁断し、そこに貼った。羊皮紙でもそこは同じだった。ナイフで削り、表面を慣らした。
今回も、周ってきた修道院に紙を十数枚ずつ贈ってきたが、あまり受けがいいとは言えなかった。何しろ羊皮紙とは頑丈さが違う。だからこそ、羊皮紙よりも軽くもあるのだが。だがこの数百年から千年、本を守って来た教会や修道院にしてみれば、頼りないものに見えることだろう。
紙、ペン軸、ペン先、インク、ナイフを持参しての筆写のため、これまでにも面白く思わない筆耕長もいた。出来が悪い羊皮紙、ペン先、ナイフを割当て、こちらが困惑する様子を見るという楽しみがないのだから。本来なら教会や修道院の長に話をつけ、礼を渡しているのだから、こんなことは必要はない。だが、一ページの筆写ごとに、筆耕長にわずかばかりの礼を渡すようにしていた。筆耕長だけでなく、筆耕僧にもさらにわずかばかりの礼を渡していた。中には、「これで自分のペン先を買える」と喜んでくれた筆耕僧もいた。これまでの十数回のブックハントで、何人かのそういう筆耕僧がいた。ジュゼッペは彼らとは時に手紙をやりとりしていた。彼らが出世することはないのかもしれない。だが、得がたい人々だ。
「マッティアが来たら、薬局でタンニン酸第一鉄の溶液とインディゴ・ブルーの抽出液を。ペン先を工房から。それと紙も工房の親方から仕入れてもらうか」
ジュゼッペは、マッティアが来るまで、そして仕入れから戻るまで、他に何冊かを検分した。
マッティアが戻ると、インクを調合し、ペン先を研ぎ、ナイフも研いだ。
そうして、十何回めかになる、筆写の清書と、手元にあるものの範囲でではあるが、段落への注釈づけを始めた。
ジュゼッペは更に十数回のブック・ハンティングを終えた。
今、ジュゼッペはベッドに横になり、マッティアが書いていた彼についての記録を聞いていた。
「師匠、以上ですが。なにかあれば」
「それが私の人生か。マッティア、お前はよくやってくれた。私なんかの記録が何の役に立つのかはわからないが」
「それでは、少しばかり血を頂いてもかまわないでしょうか」
「あぁ、好きなだけ取ってくれ。干涸びたこの体にもいくらかは残っているだろう」
マッティアはジュゼッペの左手の親指にナイフを立てた
「“書いた人間の血の署名”と、“表題となった人間の血の署名”か」
ジュゼッペは親指が絞られるのを感じた。
「マッティア、それが君の名前なのかどうかは結局わからなかったな。君は東欧か北欧の出だったかね? そっちでの習慣なのかね? あっちには血を使う魔法や魔物があるそうじゃないか」
親指に布が巻かれるのをジュゼッペは感じた。
「魔法にせよ何にせよ、そんな習慣は止めた方がいい。ペン先を痛めるだけだ」
「ですが師匠、そういう習慣なのです」
ジュゼッペは左手を振った。
「そうか。だがな、ペンを粗末にするな。それだけは師匠として許さん」
「はい。それは心に留めておきます」
マッティアはジュゼッペの最期まで献身的に尽した。アラーニャの店を継いだ娘から見ても、師匠と弟子という以上に、役割を果たした者への敬意だろうものがそこにはあった。ジュゼッペの最期とともに、マッティアも姿を消した。
ある場所で。膨大な蔵書がある、ある場所で。書架の前に一人の男が立ち、さらに数十人がその男を見ていた。その男の右手には一冊の本が握られていた。“GIUSEPPE: 1387”という表題があった。その男は長年マッティアと呼ばれていた男だった。
「彼は、彼らは何をなしたとは言えないのかもしれない。だが、彼が、彼らがいなければ、記録は失なわれたままだっただろう。もし彼が、彼らが生涯に一冊を見付けられたのなら、彼の、彼らの人生には世が思う以上の価値がある。そして、おそらくこれから数百年の最大の探し物は、存在するはずの『ユダの福音書』だろう。そこに至るためにも、彼の、彼らの業績は忘れられてはならないものである。おそらくここより、コロンシリーズは新しい段階に入る。ただのコロンシリーズとして見るのではなく、文献学的処理が必要になる。記録すればいいという時代は終った。対照と分析の時代がやって来る」
そこで男は“GIUSEPPE: 1387”を高く掲げた。
「これがその時代の幕開けだ」
それらを言葉を記し、その一冊を書架に收めた。