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良い芸術作品とはどういうものか


 



 良い芸術作品と良くない芸術作品は見分けがつくだろうか。

 

 現実にはそんな事は困難だが、今、便宜上、そういう事が可能だとして自分の芸術理論について述べてみたい。できるだけわかりやすく書くつもりでいる。


 例えば、一枚の風景写真があるとしよう。それは、あなたの友人が外国旅行した時に撮ったもので、友人はその写真を写メで興奮気味に送ってきた。写真に映っているのはモンサンミッシェルでも、ガウディの建築でもいい、とにかくそういう有名な観光スポットだ。

 

 さて、そうするとあなたの前に一枚の写真が置かれる事になる。では、この写真は「良い」写真かどうかと今、僕が尋ねたら、あなたは不思議な気持ちに陥るだろう。そもそも、こういう写真はそのように「良い」「悪い」、あるいは美的に判断するものではないからだ。しかし、僕はあなたに尋ねよう。ではなぜ、あなたはそう思うのか?


 ここから簡単な芸術理論に入る。僕の考えでは良い芸術作品とは、主体の存在が作品の中に入り込んでいる作品の事だ。別の言い方をすれば「表現」している作品が良い作品だという事だ。「表現」とは「表に現す」と書く。作者が自分の様々な感情や、その存在を表に現しているのが良い作品である。逆に言えば、それができていなければ良くない作品だ。


 ではさて、あなたの前の一枚の風景写真に戻ろう。この写真は良いだろうか、悪いだろうか。…おそらく、この写真は良くはない。なぜだろうか。それは、あなたの友人は、ガウディの建築やモンサンミッシェルを前にして、非常に興奮した気持ちでシャッターを切ったにもかかわらず、その興奮は全然、写真に刻印されていないからである。あなたの友人は、有名な建築物を見て興奮し、ひどく感動して、おもわず携帯で写真を撮ったのだろう。しかしその興奮や感動は写真に表現されていないのである。


 ここから一つの結論を引き出す事ができるだろう。良い芸術作品は芸術単体で成立している。それ自体が一つの世界である、と。なぜなら、あなたが友人の風景写真を決して馬鹿にしないのは、友人が海外旅行に行き、観光スポットに感動したという事を知っているからだ。つまり、あなたが友人の事とか、この写真が取られた前後関係を知っているという事が、この写真に独立した芸術作品とは別の価値を与えているのだ。どんなつまらない作品でも、作者の人となりを知っていれば、多少は興味あるものとなるだろう。


 この事を別の例で考える事もできる。音楽でも似たような例を考えられる。例えば、二十歳前後の可愛らしい女の子のシンガーソングライターという存在は大体、何年かのサイクルで定期的に出てくる。シンガーソングライターでなくても、単に歌手でもかまわない。この場合、彼らの楽曲とか、CDを買う人は曲単体の魅力で音楽を評価しているわけではないだろう。それには、その曲を歌っている歌手がどんな女の子かという事が必ず関係している。これをイケメンの歌手にしても、アイドルソングにしても事情は同じだ。ここでも、先ほどの風景写真と同じ構造がある。つまり、作品そのものが単体で成立しておらず、作品を支える事情がむしろ、作品自体よりも重要になっている。とはいえ、いくらかわいくてもあまりに下手くそなら人は嫌がるだろうから、その辺りのバランスの問題もあるかもしれない。


 今では誰も彼もがアーティストという事になっているが、本当の意味でアーティストと呼べる人は、芸術作品が単体で成立している人の事だ。言い換えれば、本物のアーティストはある意味で、現実廃棄的な精神を持っているとも言える。なぜなら、作品が単体で成立する所まで行くほど努力する人間は、それを支える現実をある程度切り捨てる必要があるからだ。現実を超越しようとして優れた芸術作品が生まれるという事情もここにある。だから当然その逆に、現実におもねる芸術作品も無数にあるという事だ。


 ここまで書くと、自分の芸術理論は吉本隆明「言語にとって美とは何か」の「自己表出」という概念と似ているという事に気付く。自己表出という考え方では、同じように、芸術作品は自己の表出が問題となるのだから、これは先に言った「表現」「表に現す」と同じ事情であると言っても良いだろう。


 では、その自己とは何か、表出とは、表現とはなにか、と言う論理も考えられるが、これはそう簡単には決められない。それは個々の優れた芸術家が開拓すべき問題であって、理論でどうこうできるものではない。理論は現在から過去を見て、全体を整理する事はできるが、未来までは決定できない。自己とは何か、表現とは何かという事は個々の芸術家の手に委ねられるほかない。


 ただ、良い芸術と良くない芸術の違いとは何かと考える事はできる。あるいは、人が本当に芸術家としての道を歩き始める最初の一歩はどこにあるか。それは先に言った風景写真の例で尽きている。つまり、その風景写真では、作者の感情、興奮は伝えられないのである。(言葉の例で言えば、「私は哀しい。私は死にたい」とノートに書きなぐっても、そこに作者の悲しみは「表現」として独立した形では造られていない。詩人が修辞的な言語を持って遠回りするのはこのように、直接的な言語では伝えられないからだ) この「伝えられない」をなんとか伝えようとする事に芸術の努力が本当に始まると言っていい。


 コミュニケーション大好きな世の中に反して言うなら、芸術というコミュニケーションにとってもっとも大切なのはこの「伝わらない」事の自覚に他ならない。そしてこの「伝わらない」を対象化し、客観化しようとする事に芸術家の真の努力がある。つまり、ここでこの芸術家は、自分と世界の溝とを架橋しようとしているのだ。また、この芸術家と世界との間になぜこのような深淵が生まれたかは芸術家自身の運命と関わる問題だ。おそらく芸術家はこの深遠を意図的に選択したわけではなかった。彼は気づけば、世界と自分との間に巨大な溝がある事に気づいた。そしてふとこの事に気づいた時、彼は第三の言語ーーー自己言語でも他者言語でもない、それを超えるような言語ーーーを作り上げなければならない事に気づいた。この第三の言語こそが、本当の意味での良い芸術作品と呼べるものである。芸術家はこのような第三の言語で自分と世界とを同時に越えようと努力し、もがいているのだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 芸術性と商品性。 芸術性を拡大してくと限りなく意味不明になり、確かにレベルは高くなるが、客がそのレベルに追いつけず売れない。 逆に。 商品性を拡大してくと限りなくわかりやすくなり、客は喜ぶ…
2016/01/15 17:17 退会済み
管理
[良い点] 文字数、文体共にとても読みやすいと感じました。 [一言] ヤマダヒフミ様、初めまして。新着一覧からお邪魔しました。 タイトルを拝見し、初めは「私の頭でも理解できるだろうか」と不安だったの…
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