琉球騒動
ここで、致徳が生まれる前年。1874年に清と日本が関わった重大事件を見てみよう。日本でいう「台湾出兵」である。
台湾に琉球王国の漁民が流れ着いた。しかし、彼らの大半は、台湾の蕃族により滅ぼされてしまったのだ。このことについて、日本は大清の政府に直談判した。すると、役人はあろうことか言ってはならぬことを言ってしまったのである。
「台湾は化外の地であり、生番が起こした事である。ゆえに、我が大清には責任は無い。」
これを言質として、日本は台湾に出兵し、全島を占領した。
しかし、これでは、従来の流刑地が無くなるばかりでなく、大清の目と鼻の先に日本という東夷の勢力が依拠することとなる。
困惑した同治帝は日本と交渉して、弔意金の代わりに日本軍の台湾からの撤兵を得たものの、日本の行動を「義挙」と認めたことで、琉球王国における日本の支配を結局黙認することとなってしまった。
後知恵から言えば、蕃族を征討する統帥軍でも出していれば、琉球と台湾は二つながらに大清の物となったのである。
この外交的失策を機に、中国は東部海域における勢力の維持、いやさらに増しての勢力伸長を図ることとなるのであった。