新生
ここは、大清の港町、広州。かつては、帝国唯一の貿易地であったが、今や光緒帝の御代が始まる1875年。多くの外国人が居住し、繁栄していた。時に、劉坤一が両広総督にご就任なされた年である。
そんななか、ある客家の家で一人の少年が生まれた。姓は汪。名は…
「あなた、見てください。元気な男の子ですよ。」
「そうか…ようやく、うちにも男の子が産まれたな。」
「早くこの子の名をつけんとのう・・・「中華に徳失くして久し(中華久無徳)」じゃ。この子には、この大清を、中華を担ってもらわんと・・・」
「では、じいさん。「久徳」とするかのう。」
「「徳が久しき」か・・・わしは、徳は常に在るものではなく、次第に修得せねばならんと考えているのじゃが・・・」
「では、「致徳」では、いかがでしょうか。」
「華蘭よ。それは良い。では、この子の名は「致徳」としよう。」
こうして、汪致徳が誕生したのである。
☆ ☆ ☆
彼の生まれた、汪家は客家の中ではかなり裕福な家庭である。
なんといっても、祖父の威は、広州の公行の女婿である。その影響力から、古く乾隆帝の御代から貿易を取り締まってきた。
威は嘉慶帝に気に入られた。彼は、穏健派の一人で、「アヘンは、厳禁するのが筋だが、イギリスを刺激するのは得策ではない。」と皇帝による専売制を主張した。結局、その意見は通らず、厳禁派の林則徐が欽差大臣に任命された。
しかし、林則徐の厳禁策がイギリスとの戦争を引き起こすと、皇帝は即座に威に訓令し、広州総督の補佐を命じた。そのおかげで、アヘン戦争にて公行が廃止されてしまったが、他の公行が貿易から影響力を弱めるのに対し、汪家だけは広州における対ヨーロッパ貿易で活躍し続けた。
父の至誠は、今は地方官である。名は、『孟子』の章句に由来する。温和な性格で、部下からの人望はあったが、同僚からは嫌われていた。中央から左遷されたのもそのためである。
しかし、本人は気にしない。持ち前の温和さのためか、あるいは裕福な家庭環境のせいか、「あせりや怒りを見せない」と有名であった。
母は、董華蘭。致徳の名付け親である。若いころからお転婆で、外では男子と交わって遊び、家では書物を読んでと、女性らしからぬ振る舞いをしていた。そのため数々の見合いで失敗しているが、かといって「男勝り」なのかといえばそうではなく、むしろ繊細な性格であった。
嫁ぎ先が久しく無かったが、至誠とは馬が合った。
アロー号事件で、キリスト教が解禁されると、真っ先に聖書を求め、教会にも通った。しかし、改宗はしなかった。というよりも、自分に合う宗派が無かったのである。自分なりに、聖書を解釈し、信仰は自分のうちにのみ秘めるタイプであった。
祖母は、馬緑英。この「馬」という姓は、「マホメット」を表す色目人の家系に多いらしく、かの鄭和提督もかつて名乗った姓であった。
彼女は、古くから広州に移り住み、この地の趨勢を見守ってきた数少ない証人である。
名前にもあるように、瞳が翡翠のような緑をしており、美貌であったことから、「広州の翡翠」とのあだ名がついた。
1815 祖父・汪威生まれる。
1818 祖母・馬緑英生まれる。
1837 汪威任官。道光帝に「アヘン専売」を奏上。このころ、緑英と結婚。
1840 汪威、広州総督を補佐する。
1850 母・董華蘭生まれる。
1853 父・汪至誠生まれる。
1873 汪至誠と母・董華蘭、結婚
1875 汪致徳生まれる。