異世界へようこそ
いきなり目の前に現れた虹色の龍に、私は驚いて腰を抜かしてしまった。
(私の背中に乗れ。)
乗れと言われても…腰が抜けて動けない。それに、『乗れ』ってどういうこと?
そもそもこれは現実なの?神社で龍に遭遇するなんて…それも、藤本君そっくりな人が…人間が龍に変身するなんて…。
そうよ!これは夢。夢なんだわ!
(夢か現かはどうでも良い。信じられないのか?ならば丁度良い。)
頭の中に声が響いた。
次の瞬間、龍が私をくわえて空に放った。
『キャーツ!!』
今度こそ地面に激突する!
今度こそ、死んじゃう?
それはソレで…良いかも。藤本君の所に行ける…。
固く目を閉じて、死を覚悟した。
ポスン!
『え?柔らかい?って…私、生きてる?』
着地したのは地面ではなく、龍の背中だった。恐る恐る見渡すと、眼下に街の灯りが広がっていた。
(そう簡単には死なせない。私は二度と、お前を失いたくはないからな。)
頭の中に響いた声が、優しく涙腺を刺激した。龍雅の言葉は今の私の心そのものだった。
『藤本君と同じ顔でそんなこと言わないでよ…。私だって、あの人を失いたくなかった!』
涙が止めどなく溢れた。涙は虹色の鱗の上に落ちて、空に飛んで行った。
(安心しろ。少なくとも私は、お前を置いては死なないから。)
『お前を置いては死なない』その言葉が胸に刺さった。胸が苦しくて、涙がドッと溢れ出した。
(時を越えるぞ。しっかり捕まれ。)
言われるがまま素直に従った。背中にしがみつくと、龍雅の体温を頬に感じた。
温かな背中に何故だか懐かしさを覚えた。
ヒュウヒュウと風を切る音を聞きながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
夏草のむせかえるような香りと、忙しなく鳴く蝉の声に目が覚めた。起き上がるとそこは沢の畔で、私は岩の上に寝かされていたようだ。
五月蝿いくらいの蝉の声で目が覚めたけれど、視界がはっきりするにつれて、沢のせせらぎの音や、遠くで囀ずる小鳥達の声が聞こえて来た。
見渡す限り緑色。見えるのは木々と岩と沢の流れだけだった。
『やっぱり夢だったんだ…。にしても、此処はどこ?』
現実かどうかを確かめる為に声に出してみたけれど、何だか馬鹿馬鹿しくなった。
そもそも、龍なんて実在しない。
しかも龍の背中に乗って空を飛ぶなんて…。
ここ数日、藤本君が亡くなったショックで世界が止まっていた。その反動で変な妄想にとりつかれていたのだろう…。
そう結論付けて納得したのだけれど、ふと体に掛かる着物が目に止まった。龍雅の纏っていた薄い水色の絹の狩衣。
やっぱり夢じゃなかったんだ!
そう思った時に声がした。
『目が覚めたのか?』
声のした方に目を遣ると、髪の長い半裸の男が立っていた。透けるような白い肌に、しなやかではあるが、そぐわない筋肉。鎖骨から胸元にかけて古い傷痕があった。
思わず見入ってしまったけれど、半裸の男だ。我に返って慌てふためいた。
オロオロしながら逃げ場を探していると、今度は頭の中に声が響いた。
(沙羅、落ち着け。私だ。)
聞き覚えのある声。
『龍…雅?』
見上げると、優しく微笑む顔があった。昨日見たのは夢じゃなかった…。やっぱり藤本君と同じ顔。また涙が出て来た。
『何故泣くのだ?』
困ったような声。
『だって…藤本君と同じ顔で…』
ゆっくり近付いて、龍雅が直ぐ隣に座った。
ふわりと腕に抱かれて髪を撫でられた。本当なら抵抗するのだけれど、藤本君と同じ顔のこの人には、何故だか抵抗出来なかった。なすがままに髪を撫でられていると、また涙が溢れてしまった。
『私があの男と同じ顔なのが嫌なのか?』
優しく諭すように訊ねられて、余計に切なくなってしまった。
『嫌じゃないけど…よく解らない。』
そもそも問題が多過ぎる。
龍雅が藤本君と同じ顔だという事も謎だけれど、どうして龍に変身するのか、どうして山奥とおぼしき場所に連れて来られたのか…その他諸々…聞きたい事は山程ある。
なのに…死んだはずの恋人と同じ顔を前にすると、どういうわけか何も訊けず…涙が溢れてしまうのだ。
グスグスと鼻を啜ると、クスッと笑われてしまった。
『何の申し開きもせずに連れて来て悪かった。だが、あの時はああする他無かったのだ…許してくれ、沙羅。』
そう言って、龍雅は私の頭をポンポンと撫でた。
『私は冬美、沙羅じゃない。それに、藤本君と同じ顔で変な名前で呼ばない……で…』
身を捩って顔を上げて抗議したのに、涙で言葉が詰まってしまった。
龍雅は目を細めて一層優しく微笑むと、私の頬の涙の筋を指で拭った。
『この世界でお前は沙羅だ。そしてお前は、私と共にこの世界に居たのだよ?忘れてしまったのならそれでも良い。だが、今度は私から離れるな。』
『何を言ってるの?そんな事言われても解んない…。』
龍雅の顔が迫った。目を閉じる間もなく唇を塞がれた。龍雅の唇が私の唇に触れた途端に、頭の中に数多の映像が流れ込んだ。
……なにコレ?
龍の背中に乗って夜空を飛ぶ私…。
広い屋敷の縁側で、龍雅と寄り添う私…。
様々な形の小人のような者達と踊る私…。
天に続く光の帯を、泣きながら昇って行く私…。
強い光と、必死の形相で手を伸ばす龍雅…。
今頭の中に浮かんだ龍雅の顔…藤本君とは違う。
何故?
唇が離れると、一陣の風が吹き抜けた。肩までの髪が風に煽られて頬を打つ。ふと、髪の重みが変わったように感じた。それと同時に風が止み、私は目を疑った。肩までの長さだった髪の毛。風に遊ばれて戻った時には、毛先が信じられない所に落ちて来た。
『え?』
私の髪は一瞬で長く伸びて、太ももの上に艶やかに広がっていた。
思わず見やると、龍雅の顔が変わっていた。
目を疑った。言葉にならないほどに驚いた。
目の前で微笑む龍雅は、藤本君とはまるで別人になっていた。
大好きな、大きな垂れ気味の目も、ふっくらした下唇も…他の何処を探しても、藤本君の面影はすっかり消え失せていた。
目の前に居るのは息を呑む程の美青年だった。
涼やかな目元に薄い唇。美しく整ったその顔は、妖艶にさえ見える。
急に怖くなった。
この場から離れて逃げ出そうと思った。
『沙羅?』
逃げようとしているのに気付いたのか、龍雅が顔を覗き込んだ。
切れ長の美しい瞳と目が合った。すると、金縛りに遭ったように動けなくなってしまった。
(どうしよう…何をすれば良いの?)
ごくりと唾を呑み込んで、オーバーヒート寸前の思考回路をフル回転させた。
その時、ガサッと音がして、茂みの中から小さな生き物が飛び出した。
耳の長いフワフワの……ウサギ?
突然現れた真っ白なウサギは、一目散に龍雅の膝へ飛び込んだ。
『歌丸?』
歌丸と呼ばれたそのウサギは、龍雅の膝で嬉しそうに跳ねて、鼻をピクピクさせた。
『お前一人で来たのか?弥太丸は一緒じゃないのか?』
ウサギに向かって真剣に話しかける龍雅を呆気にとられて見ていると、茂みから再びガサガサと音がした。
振り向くと、柴犬の子犬が小首を傾げて此方を見ていた。
『可愛い!今度は柴犬?』
思わず口にすると、
『柴犬ちゃうわい!』
私を見据えて柴犬が喋った。
(えーっ!?犬が…犬が喋った!!)
驚き過ぎて頭痛がして来た。
そんな私を尻目に、やはり柴犬も龍雅めがけて突進した。
『りょーがーっ!やっぱり龍雅やったんか?』
柴犬は喋りながら走り、走りながらポン!と男の子に変身した。
『匂いは龍雅やのにアイツの顔やし、ホンマに龍雅か解らんさかい、隠れて様子見とったんや。何でアイツの顔やったん?』
柴犬から変身した男の子は龍雅の膝に飛び乗ると、一気にまくし立てた。さっきまで膝に乗っていたウサギは、龍雅の肩に跳び移って鼻をピクピクさせていた。
『弥太丸?やはりお前も一緒だったか。こんな遠くにお前達だけで来たのか?良い子にしていろと言ったではないか!』
『こんな山奥にか弱い子供が二人だけで来れる訳ないやん。鳶の爺さんも一緒に来たんや!』
『誰が爺さんだと?』
再び茂みからガサガサと音がした。恐る恐る振り向くと、凛とした壮年の男の人が、龍雅と同じ狩衣姿で現れた。
一連の流れから、てっきり動物が出て来るのかと思ったけれど、ちゃんとした人の姿でホッとした。だけど、龍雅と弥太丸君の話の内容から推測するに…多分この人は鳶なのだろう。
この世界には、まともな人間…純粋なただの人間は居ないのだろうか?
……目眩がして来た。
鳶であろうその男性は、龍雅の前で膝を折って頭を下げた。
『龍雅様、よう戻られました。ご無事で何よりでございます。』
『雪之丞殿、何故貴方が此処へ?』
『その…誠に申し上げにくいのですが…龍雅様がお戻りになったのを察した鵺めが、喜び勇んで飛び出したと聞き及びまして…後を追って来た次第にございます。いくら改心したとは言え、あの恐ろしい姿で里に下りれば騒ぎになります故…。』
『して、鵺は見つかったのですか?』
『それが、その…』
再び茂みから何かが現れた。
龍雅と雪之丞さんの難解な会話に気を取られていて直ぐには気付けなかった。
黒い大きな影が視界の端に見えた。
そして…。
『!!』
私の意識はそこで途絶えてしまったのだった。




