記憶に消えた愛する人
これは短編小説『君を守るためなら』の続きです。
「よく頑張ったな、美沙の大好きなケーキを買ってやるから」
「うん、ありがとう」
何かがおかしい。でも、原因はわからない。
確かに、私はケーキが大好き。
でも、この記憶では優哉じゃない誰かと、約束をしていた気がする。
あぁ、お父さんとお母さんかな。
「……本当に、よくやったよ」
ベッドを動かして、起き上がった私を優哉がそっと抱きしめてくれる。
手術が成功したことが嬉しいから、肩とか手が、震えているのかな。
「優哉、あのさ――」
「俺、マジで大切にするから。一生かけて、美沙を守るから」
まるで私に話させまいとするように、言葉を続ける優哉は、なぜか涙声だった。
「この命をかけて守るから、だから……」
そこで、話は途切れた。
若干、私の肩が湿っぽくなっているのは、優哉の涙かな。
泣くほど喜んでくれてるのがわかって、嬉しかった。
嬉しかったけど、何かが足りない気がした。
あぁ、お父さんとお母さんだ。
「嬉しいよ、ありがとう。そういえば、お父さんとお母さんはどこにいるの?」
「……きっと、電話しているんじゃないか」
親戚や祖父祖母も、私の病気を心配してくれていたんだ。
特に疑う理由もなく、そうなんだと納得した。
それが嘘だなんて、思いもせずに。
「ごめんな、美沙。俺、できるならまだ居たいけど……」
「私なら大丈夫だよ、こうして、毎日来てくれるだけで幸せだよ。ありがとう」
「当然だろ、恋人なんだから。じゃあ、また明日な」
そう言って私から離れる優哉は、顔を隠すように、足早に部屋を出て行った。
小さく振った手を下ろすと、私は窓の外に見える景色を見つめた。
既に日が暮れていた。
それにしても、本当に楽しみだ。
医者の話では、退院は一週間後になるらしい。
これで、優哉とたくさんデートもできるし、学校にも行ける。
当分は安静にしなきゃいけないとは言われているけど、外に出られるだけでも嬉しい。
それに、病院食じゃなくて、やっとお母さんの美味しい手料理が食べれるんだ。
あ、帰ったら私の部屋の掃除をしないとな。
きっと、埃だらけになってる。
「あ、父さん」
入ってきたのは、ハンカチを強く握りしめたお父さんだった。
娘の病が快復に向かっている父親のするような表情はなく、どこか浮かない顔をしている。
そして、目の周りが赤く腫れている。
「お父さんも、泣いてたの?」
私の隣に腰をかけるお父さんは、眉間にしわを寄せ、俯いていた顔を上げる。
「……柳くんも、泣いていたのか」
「うん。嬉し泣きだって」
「――嬉し泣き?」
私の言葉に、怒りを露わにするお父さんは、カッと目を見開いて、膝の上に乗せた拳を震わせている。
気に触るようなことでも言っただろうか。
「えっと、ほら、私の病気が治るからさ」
「あぁ……そうだな」
誤解が解けたようで、父さんはふと、肩を下ろした。
力なく浮かべる笑みは、どこか痛々しい。
でも誤解って、何に対する誤解なの?
待って、私、何か大切なことを忘れている気がする。
『――退院したら、ケーキおごってね』
『あぁ、もちろん』
脳裏に浮かぶのは、知らない男性との会話。
私より背が高くて、優しい笑みを浮かべる人。
煙がかったようにぼやけて見えるから、顔立ちがはっきりとわからない。
この人は、誰なの?
◆◇◆◇◆◇◆◇
歩けるようになって、私は病院内を歩き回っていた。
ここは総合病院で、最新医療を徹底に取り入れていることから、かなり有名である。
外には公園があって、患者さんたちの憩いの場となっている。
散々部屋で過ごしたから、外に出れることが楽しみでしかたない。
明日に退院を控えた私は、部屋の扉を開けようとした。
「どんな処分になるのかしら」
「あぁ、双子の担当の医者の話?」
「そうそう、臓器移植手術の。ほら、妹さんの記憶も一部が失くなってしまったし」
「でも、彼女を救えたのが不幸中の幸いよ」
扉越しに聞こえるのは、よく注射を打ってくれた看護婦の声だった。
扉の隙間を覗くと、二人の看護婦が話していた。
聞いてはいけないような話だが、自分が思い当たる節もない。
近くの病室に、双子の患者がいるのだろう。
「こんにちは」
「――っ!?」
いつもの笑顔で、前に立っていた看護婦たちに挨拶した。
次の瞬間、目を見開いて、思い切りひきつった顔をするも、すぐに笑顔になる。
それは、明らかな作り笑いだってことがわかる。
「こ、こんにちは、美沙ちゃん」
「今日は、公園に行くのかな」
「はい、外を歩きたいなあっと思って」
私、何か悪いことでもしたのかな。
このギクシャクした雰囲気は何だろう。
この場を去りたくて、私は頭を下げると、すぐにエレベーターの方へと向かって歩き出した。
角を曲がったところにあるエレベーターホールで、来るのを待つ。
(私って、双子なの?)
ふと浮かんだ疑問が、頭の中をぐるぐる回る。
まさか、そんなことあるはずない。
それなら、私のお見舞いにも来てくれるだろうし、両親だって話すだろう。
……でも、もし私が『妹』なら、話は別だ。
看護婦の話では、妹は記憶を失くしているとのこと。
私が失くしたのは、その双子についての記憶なの?
だって、優哉のことはもちろん、お父さんとお母さんのこともしっかりと覚えている。
もしかして、ぼんやりと浮かぶあの男性が、私の双子なの?
そのとき、エレベーターが開いた。
この答えを知っているであろう、優哉が降りて来た。
視線が合うと、優哉は沈んだ表情を隠して、すぐに笑顔を繕う。
それだけの行為なのに、なぜか確信を持ってしまう自分がいた。
「美沙、外に行くのか? それなら、俺も――」
「お兄さんは、どこ?」
◆◇◆◇◆◇◆◇
手術前日、私は部屋を出ようとした。
優哉が、財布を忘れて行ったから。
今行けば間に合うかもしれないと思って、扉を横に引いた。
廊下に出て、エレベーターホールに向かう。
この病院のエレベーターは遅いから、あの角を曲がれば、きっと優哉がいるはず。
まだいますように、なんて願いながら、歩いていたとき。
「美沙を、よろしく頼むな」
「任せてください」
壁に寄りかかりながらコーヒーを片手に持ったお兄ちゃんが、優哉と二人で話していた。
そして、ズボンのポケットから何かを取り出すと、それを渡す。
「手術が終わったら、両親に渡してくれないか。あと、これは美沙に」
「いいですけど、お兄さんが自ら渡した方がいいのでは?」
「できればそうしたいけどな。大人の事情ってやつさ」
見てはいけないようなものを見た私は、そのまま部屋に戻った。
そのあと、優哉にメールして、財布を取りに来てもらった。
そして、手術が終わった日のことを考えていた。
お兄ちゃんが書いた手紙の内容が気になって、すぐに寝付けなかった。
たった数日前の記憶を、昔のことのように思い出していた。
そっと、胸に手を当てる。
心臓が動いているのがわかる。
この薄い肌の下で動いている臓器を、一つ、一つ感じるように手を重ねる。
私を生かすため、お兄ちゃんは死んだ。
あのときには、すでに決めていたんだ。
ううん、きっと、もっと前から、私を助けるために決意していたと思う。
『美沙は、死なない。絶対に』
いつにない笑顔で、あの言葉を言いきったお兄ちゃんの気持ちなんて、まったく考えていなかった。
ごめんね、お兄ちゃん。
私のせいで、本当にごめんなさい。
実はね、私の初恋の人は、お兄ちゃんなんだ。
小さい頃、いじめられた私をかばって、私を喜ばせるためにたくさんの花を摘んでくれたお兄ちゃんが好きだった。
兄妹としてじゃなく、一人の男の子として。
でも、ある日を境に、お兄ちゃんは私を避け始めた。
理由はわからないけれど、きっと嫌われていたんだと思う。こんな世話のかかる妹は、嫌だって。
あのときは本当に、胸が苦しかった。
大人になっていくにつれて、それがいけないとわかったとき、お兄ちゃんの妹であることをとても憎んだ。
それでも、どうすることもできないから、私はこの想いを消すために、彼氏を作った。
初めての彼氏が、優哉だった。
最初は罪悪感で胸がいっぱいだった。
だって、すぐにお兄ちゃんを忘れられるはずがない。大好きだったんだもん。
ううん、過去形なんかじゃない。
私は今でも、お兄ちゃんが好き。大好き。
彼氏を家に連れて来てから、お兄ちゃんは私を避けるのをやめたよね。
もしかして、なんて思ったこともあるけれど、そんなはずがないと思ってた。
そう、思っていたのに。
「お兄ちゃん、私もだよ。私も、お兄ちゃんが、お兄ちゃんのことが……」
手紙に書かれた文字が、涙で滲んでいく。
そんなことをお構いなしに、私は思い切り泣いた。
両想いだと知った、病院での最後の夜。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「本当に、いいのか」
「うん」
私は、お兄ちゃんの手紙に挟まっていた1000円札で、ケーキを二つ買った。
お兄ちゃんの好きなカシスバニラと、私のお気に入りの苺のミルフィーユ。
これで、約束を果たしたよ。
「ごめんね、優哉」
「俺のことは気にしないで」
私たちは、お兄ちゃんの待つお墓へと向かった。
途中で買った仏花を挿して、枯れないようにと水に延命剤を入れた。
缶コーヒーとケーキも添えて、線香をあげる。
大好きな人の、お墓で。
「お兄さんの分まで、長く生きなくちゃな」
「もちろん! 優哉より長生きするからね」
私は、お兄ちゃんの死を受け止めるため、笑うことにした。
いつまでも悲しんでいたって、お兄ちゃんは嬉しくないだろうし。
優哉は「無理するな」って言ってくれるけど、これ以上迷惑かけられないから。
お兄ちゃん、ありがとう。
私のために、本当にありがとう。
ちゃんと、お兄ちゃんの分まで幸せになるよ。
私は、優哉の手を握って、笑顔で墓地を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
手術成功おめでとう、美沙。
俺は嘘を言わなかっただろ。お前もまだまだ甘いな。
まあ、この手紙を読んでいるなら、もう知っていると思う。
こんな俺だが、お前の兄貴でいれたことを誇りに思う。
最後に、兄貴らしいことしれやれなくてごめんな。
俺からの退院祝いとして、この金で、お前の好きなケーキを買えよ。少ないなんて言うなよ。
さようなら、美沙。
俺は、生まれたときからお前が大好きだ。