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最終章

 クルスが死んだ後、僕達は抜け殻のようだった。心にぽっかりと穴が開くようだ、とよく表現されるが、まさしくその通りだった。心が丸い形だとするならば、そこに融合していたクルスというもう一つの心が剥がれてしまったような気持だった。

 いつもの公園、いつもの場所で僕達は何を見つめるでもなく、ただ黙っていた。

「ワタル、話があるんだ」

 どれだけ時間が経ったかわからないが、マルクがポツリと言った。僕にはその話の内容がわかっていた。

「俺は、また旅に出る。今度は、一人で。ワタル、君とはここで、お別れだ」

 僕は、頷いた。そうなることはわかっていた。始まりがあれば、終わりもある。始まったものには、いつしか終わりが来なければならない。人生のように。

「そう、だね。ここが分岐点だ。……僕はあなたに言い表せないほどの感謝がある。でも、僕にはその感謝を表す術がないから、一言にまとめさせてもらう。ありがとう、マルク」

 マルクは小さく笑った。その顔には、何かを吹っ切れたような、そんな清々しさが見えた。

「こちらこそ、ありがとう。楽しかったよ。君には、色々と助けてもらった。……縁があったら、また」

 マルクは立ち上がって、一歩ずつ踏み出した。その背中を見送った後、僕も立ち上がった。僕のやることは、決まっている。





 僕は、地元の小さな美術館で個展を開いた。

 マルクとの衝撃的な旅から幾年かの歳月が流れ、僕もあの時のマルクと同じくらいの年になった。そして、僕は画家になった。

 自分で言うのもなんだが、売れないし、画家として天賦の才能を持っているわけでもない。だけど、僕は描かないわけにはいかなかった。心から湧き出る「描きたい」という欲求を抑えることができなかった。

 美術の学校を出ているわけではない。絵はすべて独学だ。理由は、マルクの絵の前にはどんな学術も敵わない気がしたからだ。僕は、教本を百冊見たところで学ぶことのできない大切なものを、マルクから学んだ。

 絵に制限はない。あるのは自由だけ。

 僕は、そんな信条に基づいて絵を描き続けた。そしてやっと、田舎の美術館で個展を開けるまでになった。

 僕は絵を描くことによって、美味しい空気を見出していた。

 今まで苦しくて仕方がなかったこの世界の空気が、美味いと思うようになったのは、間違いなく彼のおかげだ。だから僕は今、生きていられる。

 今僕が世界に融合してうまくやっていられるどうかは知らない。だが、わざわざ世界と歩調を合わせてやっていく必要もないと、感じるようになった。僕は僕の形で。僕は、僕らしく。絵を描くことによって、僕という人間を少しずつ描き出せたらいいし、それによってつながりができれば、言うことはない。


 個展には、毎日少しずつの人が絵を見に来た。僕は時間の許す限り美術館に足を運んで、絵を見てくれる人とふれあった。

 僕は、自分の絵を見てくれる人と繋がりを持ちたかった。どんな形でもいいから、絵と心をつなぎたかった。

 考えた結果、僕は部屋の出口に一冊のノートを置いておくことにした。どこにでも売っている自由帳。線も何も入っていない、ただ真っ白な紙のノート。そこに、来館者の声でも絵でも、何でも書き込んでほしいと思って置いた。それは意外と好評で、来た人の八割近くがそのノートに好きなことを書き込んでいった。それは僕への応援や励ましであったり、今度はどういう絵が見たいとかのリクエストであったり、時には厳しい指摘であったりした。

 僕はそれらをありがたく思いながら、ノートに書かれた様々な言葉や絵を一つひとつ丁寧に見た。

 最後のページに差し掛かった時だった。僕は信じられない気持ちになった。最後のページには、筆記体の「Mark」の文字。

 忘れるはずもない。今まで一時も忘れることはなかった、この名前。

 このサインは、マルクがいつも絵の右下に入れていたものだ。僕は最初これを「マーク」と読んでマルクに笑われたことがある。これはドイツ語読みだと「マルク」になると、教えてもらった。

 そのサインが今、僕が置いたノートの一ページにある。

 僕は、ノートから顔をばっと上げて辺りを見回した。しかし、当然周囲にマルクの姿はなく、来館者が僕の絵を見ているだけだ。

「マルク……」

 僕は、ここがどこであるかも忘れて、涙を流した。気付いたら、流れていた。

 僕はそのノートを抱きしめて、一枚の絵に目をやった。この個展のメインの絵である「スマイル」。僕が描きたいと思った、マルクとクルスの笑顔だ。

 僕の根源であり、今もしっかりと心に残っているあの笑顔。僕は、あの笑顔があったからこそ自分で絵を描きたいと思った。

 僕はもう一度「スマイル」を見た。淡い黄色とオレンジ色の陽光が二人を包み、幸せの限り笑っている。

 その二人が、一瞬だけ本当に笑っているかのように動いた気がした。


 ありがとうマルク、僕はこれからも描き続けていくよ。だから、縁があったら、また。



ワンダーウォールを最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

少しでも楽しんでいただけたら幸いです。


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