私のリンゴを返しなさい
今年二十三歳になる明海は東京都港区にある五階建てマンションで家族と暮らしている。表札に鈴木とだけ掲げられる四LDKの間取りの部屋は、共有スペースを除いて、それぞれが自分の部屋を持っていた。家族構成は両親、二十五歳になるアパレル勤務の姉、中学三年のタケシの計五人家族だ。
明海は電車で三駅先の高級住宅地に構える学習塾で講師をしている。対象は小学生。教科は算数を教えている。少子化の影響で、学習塾に来る子どもの数は年々減少しているらしく、それだけに塾間での生徒争奪競争は激化している。
その情況は明海の勤める学習塾の職員室に張られている方針が物語っている。
「以親の満足為優良経営」。親が子どもを通わせる塾を選ぶのだから、親を満足させることが学習塾の優良経営に繋がるという意味だ。
明海は鼻筋の通った美人であり、清楚な感じだ。だから生徒の保護者、特に父親に受けが良いとのことで、塾長から期待され、この春採用されたばかりだった。この裏話は講師の先輩達の間でよく噂されている。
それでも明海はここで働くしかなかった。残念ながらあまり勉強の出来るタイプではなく、三流大学卒業を卒業しており、大手学習塾の採用面接は全て不採用となっていたからだ。但しやりたかった仕事だけに、やる気は入社後から今のところ保たれている。五月病になることなく、この夏を迎えていた。
夏の夜は蒸しかえる昼間とは違い、多少清々しく感じる。それでも駅から家までの十分間は歩くだけで汗ばんでくるものだ。この日明海は勤務を終えて家に帰ったのは午後十時、玄関から冷蔵庫まで直線を歩き、缶ビールを取り出した。キンキンに冷えたビールを頬に重ねると背筋から全身が冷やされていくのが分かる。緊張した心までほぐされていく。一日一回の幸せを明海は感じていた。
そして塾長から貰ってきたリンゴを一つ、冷蔵棚の真ん中に置いた。高級フルーツ店で買ったというリンゴには金色で産地を示すシールが張られ、白いネットで大切そうに包まれていた。
彼女はビールを二三口で空けると、シャワーを浴びて汗と疲れを流す。
三十分後、明海は浴室から出ると、夜も遅いので夕食にリンゴだけを食べることにした。
「おかしいな、さっきここに入れておいた私のリンゴがないんだけど」
明海は冷蔵庫の中を覗き込み確認する。何ともいえない怒りがこみ上げてきた。
「ちょっとお母さん、私のリンゴが無いんだけど。晩ご飯に食べようと思ったんだけど」
「そうなの?お母さんも知らないよ、誰か食べちゃったんじゃないの?」
明海は冷蔵庫の置かれているキッチンから引き戸で隔たれたリビングにドタドタ進んだ。
リビングでは父親、姉、弟のタケシの三人がテレビを囲みソファーでくつろいでいた。
「はい、この中で冷蔵庫にしまっておいた私のリンゴ食べた人手を挙げて」
明海は冷静を装い、各位に訊いた。目つきまでは冷静ではいられないようで、普段愛嬌のある二重まぶたが鋭く尖っている。
…誰も手を上げない。
「なんなのよこの家族は、私がお風呂の時にコソコソと」
シャワーの後の明海の火照った体が更に熱くなる。背中から汗が噴き出してくるのが分かる。すると明海はゴミ箱にふと目をやった。
「ちょっとこれリンゴの皮じゃないの?」
明海は立ち上がろうとするタケシを捕まえると、白状を促す。大抵こういうことをするのはこの家庭ではタケシだったからだ。
「俺じゃねーって明海姉ちゃん。俺食ってねーしリンゴ。しかも証拠がないだろ」
そしてタケシは手のひらで口の周りを拭った。明海を見る顔はにやけており、目が笑っている。
「ちょっとあんた証拠ったって、その態度が証拠よ。リンゴくらい食べたければちょうだいって言ってくれればあげるわよ。お姉ちゃんそんなにあんたに冷たくしたことないでしょ」
タケシは明海の力説に焦った。「ってかマジで俺じゃないって。ほらリンゴそんなにキレイに剥けないしさ」
「なんでリンゴがキレイに剥かれているってこと知ってるの?誰かが食べるとこ見てたってことでしょ」
「お、おれは…てか違うって明海姉ちゃん何か誤解してるって…」
明海にはタケシが明らかに動揺しているように見えた。そしてタケシの目線はリビングに座る誰かにチラチラ向けられる。明海は目線の先をたどると、キッチンから出てきた母親がいた。
「ちょっとお母さんなのリンゴ剥いたの?」
「そうよ、ちょうど美味しそうだったから」
「何それ、私のリンゴをちょっといない間にこっそりみんなで食べておいてとぼけないでよ」明海は凄んだ。
すると母親はリビングからキッチンに戻っていった。冷蔵庫の野菜室を開けると切り分けられたリンゴが二切れ皿に載せられラップがかけられたものを取り出した。
「明海の分ちゃんと残ってるじゃない。お母さん明海の分を誰かが食べちゃったのかと思ったわ」
明海は天井を見上げた。とっさに家族を疑ってしまった自分の小ささが苦しかった。早とちりをしてしまった。最初母親が言った「誰か食べてしまった」リンゴは1個を指すのではなく、母親が明海のために切り分けた明海の分の二切れに対してのものだと気がついた。
但しリンゴを食べていないなどと、とっさに嘘をついたタケシは許せない。タケシは明海の迫力に負けてしょうもない嘘をついていた。
「タケシあんた…」部屋に逃げ込もうとするタケシを追いかけた。ついさっきの反省はどこへやら、元通りの明海の姿がそこにあった。