言えなかった言葉
言えなかった言葉が喉に引っかかっている。
もし、言えていたら、今彼は隣にいてくれただろうか。
胸の奥がじくじくと痛む。弱い私。弱いこころ。
夕陽が沈む王都〈アストリア〉の空は、薄い灰色を帯びていた。
遠くで鐘が鳴り、城門が閉ざされる音が響く。
今日も一日が終わる。だけど、私の世界は止まったまま。
「……アレン様」
彼の名を口にすると、喉にひっかかった棘が、さらに深く刺さる。
近衛騎士として、誰よりも強く、真っ直ぐな人。
それなのに、私はその手を一度も掴めなかった。
言えなかったのだ。「行かないで」とは。
風が、肩にかかる髪を揺らしていく。
私の沈黙ごと、塵のように吹き散らし、攫ってしまえばいいのに――
遠くの戦場は激しいと聞く。
「どうかーーご無事で」
祈りの形に手を組んだ。
ひたひたと恐怖が押し寄せてくる。
誰それが戦地で消息を絶ったとか、そんな噂が今日も城下をかすめていく。
「……アレン様」
名を呼ぶだけで、胸がつまる。
ずっとそばに居た。兄のようだと思っていた。
そう騙していた。思い込んでいただけだったのだと、今さら気づく。
言えなかった想いだけが、今日も育つ。
胸の奥で、きしむような鈍い痛みを立てながら。
痛い。
けれど、手放したくない。
この苦しみだけが私を満たしている。失ってしまえば、私はきっと空っぽになる。
これが恋じゃなくて——
「……なんだと言うのでしょう」
夕暮れを失った空が、灰色に沈んでいく。
城門近くの石畳を、風がさらさらと撫でて通った。
誰もが家に戻る刻限。
ただひとり、私は立ち尽くしている。
胸の奥の“答え”に触れるのが怖い。
触れれば崩れる。
認めた瞬間、戻れない。
ましてここに、あの人はいない。
だからまだ、言葉にしない。
ただ、脈打つように熱だけが胸に灯り続けている。
遠くで、鐘が一つ鳴った。
沈み込むような音だった。
まるで、消息不明の噂を確かな影へと変える合図のようで——
喉が、ひゅっと狭まる。
「アレン様……まさか……」
もし、この噂が彼のことなら。
もし、もう二度と会えないのだとしたら。
気づいた。
伝えられなかったまま終わること。
そんなのは、嫌だ。
胸の奥で弱い私が泣いている。
唇が震えた。
それでも、声にはならない。
鐘の音だけが鳴り響いていた。
「……嘘」
その言葉が、誰の声だったのか分からなかった。
自分の口からこぼれたのか、ただ頭の中で響いたのか。
昼下がりの城下町に、ひそひそとした噂が流れ始めた。
——北方戦線で、近衛がひとり帰らなかったらしい。
——名は、まだ正式には出ていない。
——重傷者は多数。生存は絶望的、と。
足元から、何かが抜け落ちるような感覚がした。
私は石畳に影を落としたまま、動けなかった。
「……アレン様?」
呼びかけた声は、ひどく静かだった。
驚きも叫びもなかった。ただ、深い井戸の底に落ちていくような沈黙。
胸の奥で張りつめていたものが、ぷつん、と音を立てて切れる。
もう彼はいないのだと——
その未来だけが、やけに鮮明に思えた。
視界が滲む。
涙が出ているのかどうか、それすら分からなかった。
夕暮れが近づく。
鐘が鳴る。
ひとつ、またひとつ。
その音が、彼の死を肯定するかのように胸に刺さった。
ゆっくりと世界が灰色に沈んでいく。
私は静かに目を閉じた。
「……もう、会えない」
小さく洩れた声は震えていた。
言えずに終わる苦しさが、ようやく私を貫いた。もう一度、会いたかった。縋りついてでも叫びたかった。大好きだった。
その瞬間だった。
「王国軍、帰還——!」
遠くから兵士の叫びが響いてきた。
ざわ、と城下町の空気が揺れる。
何事かと人々が通りに押し寄せ、旗が翻る。
――帰還?
――帰ってくる?
――誰が?
私の息が止まる。
身体の奥が、勝手に脈打つ。
さっき切れたはずの糸が、また痛いほどに引き戻される。
「……そんな……」
彼はいない。
いないはずなのに。
それでも足が、勝手に前へ出た。
信じたくないのに、信じてしまう。
怖いのに、期待が胸を焼く。
もしかしたら、もしかしたらと。
凱旋の列が近づいてくる。
歓声と、松明のゆらめきと、重い軍靴の音。
そのすべてが、私の世界をかき乱した。
そして——
列の中に、
薄い傷を頬に刻みながらも、まっすぐな瞳で歩く人影が見えた。
一瞬で、呼吸が止まった。
「……ア……レン……様……?」
声が震えた。
世界に一瞬で色が戻る。
名を呼んだ瞬間、世界が止まった。
ほんとうに止まったのだと思った。
風も、歓声も、夕暮れの色さえも、ぜんぶ。
ただ一人、鎧の肩をわずかに揺らしながら歩く彼だけが、こちらへと進んでくる。
その姿を見た途端、胸の奥に空いたはずの大穴が、ひどい音を立てて歪みながら塞がっていくのを感じた。
怖かった。
信じてしまう自分が。
「……アレン、様……」
もう一度呼ぶ。
今度は確かに、自分の声だと分かった。
かすれてひどく弱い声だったのに、人混みのざわめきの中で、その音を拾い上げたようにこちらを見る。
視線が真っ直ぐにぶつかり、アレンが、立ち止まる。
もう、耐えられない。
「……ふっ」
涙腺が決壊する。
彼は目を丸くした。
列の流れから、そっと一歩だけ外れる。
癖のある前髪が風で揺れ、夕陽に焼けた頬の傷がうっすらと光った。
ボロボロと泣きながら、心臓が跳ね、痛みと安堵が一気に押し寄せてきた。
――生きている。
その事実を、言葉にする前に胸が詰まって何も言えない。
アレンの足が一歩、また一歩と近づいてくる。
かつてと同じ、まっすぐで揺らぎのない歩幅で。
足音が近づく。
自分の呼吸だけが乱れていく。
届いてほしくないようで、でも、どうしようもなく届いてほしい。
そんな矛盾が胸を締めつけ、喉を焼いた。
やがて、目の前に影が落ちる。
傷だらけのまま、でもアレンは、凛として立っていた。
私の前に、立っていた。
「……よく……ご無事で……」
言いかけて、唇が震えた。
声にならない。いくら言葉を探しても、胸の奥で溢れてしまって形にならない。
アレンの瞳がわずかに揺れた。
それは戦場の兵士の目ではなかった。
私の名を呼ぶ前のような、あの柔らかい揺らぎ。
「……戻った」
低い声が、確かに私の耳をかすめた。
それだけで膝が折れそうになる。
――戻ったと、私に伝えに。
喉の奥に、また言えない言葉がつかえていく。
本当は、触れたかった。
「会いたかった」と言いたかった。
「生きていてくれてよかった」と、泣きながら伝えたかった。
なのに。
ただ、呼吸だけがふるえるだけだ。
アレンが、そっと片膝をつく。
戦場帰りの重い鎧が石畳に当たって、鈍い音を立てた。
そして……
まるで宝物でも守るように、私の手に触れた。
かすかに、温かかった。
「……遅くなった」
沈んだ声に、胸がほどけた。
涙は次々とこぼれる。
頬を熱いものが伝って、止められなかった。
ずっと言えなかった想いが、心の奥で静かに形を成している。
もう、嘘はつけない。
アレンは、生きている。
私の世界に、もう一度光が差した。
灰色の空の向こうで、鐘が遠く鳴っていた。
胸の内の熱を呼び起こすような、柔らかい響きだった。
指先に、確かな温度がある。
あの戦場の寒さを知っているはずの手が、どうしてこんなに温かいのか。
ただ握られるだけで、胸の奥の古い傷がじわじわと溶けていくようだった。
「……泣くな」
小さく落ちた声は、叱るでも慰めるでもなかった。
ただ、私の涙を受け止めるためだけの声音だった。
「泣くなよ……そんな顔、させるつもりじゃ……」
言いかけて、アレンが言葉を切った。
私の手を包む指が、かすかに震えていた。
彼も、怖かったのだと気づく。
戦場で死ぬことより、
私に二度と会えないかもしれないという未来のほうが。
胸が熱くなり、息が乱れる。
「……だって……だって……」
言葉は涙に溺れて、形にならなかった。
アレンが指先でそっと私の涙をすくう。
その仕草がひどく優しくて、胸の奥がまたきゅうっと縮んだ。
「……戻ってきた。……お前のところに」
その囁きに、喉の奥が焼けつく。
ずっと言えなかった思いが、今にも溢れそうで――
少しだけ、ほんの少しだけ、勇気を。
アレンの手を握り返す。
その瞬間、彼はわずかに目を見開き、
でもすぐに、静かに微笑んだ。
戦場帰りの兵士の顔じゃない。
私だけに向けられた、昔と同じ、あの笑顔。
笑顔が、そっと世界の形を変えていく。
灰色だった空に、ようやく夕暮れの名残が戻り始めていた。
橙色の欠片が、遠くの雲をほんの少しだけ照らしている。
「……アレン様」
名前を呼ぶ。
今度は、震えていても、確かに届く声で。
アレンは膝をついたまま、まっすぐに私を見ていた。
その瞳の奥に、私の泣き顔だけが映っている。
――生きていてくれてよかった。
喉まで出かかったその言葉を、私は飲み込む。
アレンは、生きている。
その事実だけで、世界がこんなにも色づくなんて――
代わりに口からまろび出たのは。
「……好きです」
驚いたような顔をした彼にもう一度、
「好き……なんです」
「……」
アレンは、息をのみ込んだように黙り込んだ。
まるで、私の言葉が彼の胸の奥の“どこか大事な場所”に落ちていくのを、じっと聴いているみたいに。
風が通る。
涙で濡れた私の頬を、そっと撫でていく。
「……そんな顔で……そんなふうに言うなよ……」
低い声がこぼれた。
叱っているようで、震えていた。
押し殺した想いが、どうしても滲んでしまうみたいに。
アレンは、私の手を握る力をほんの少しだけ強くする。
「……好きじゃなきゃ……帰ってこれなかった」
喉の奥でかすれるように落ちた言葉に、心臓が跳ねた。
彼は視線をそらさない。
ただ真っ直ぐに、私を見たまま。
「お前の声が……ずっと……耳から離れなかった」
胸の奥が、ひどく熱くなる。
「帰りたいと思った。……お前のところに」
アレンの表情は、強くも弱くも見えた。
戦場には絶対に見せなかったであろう、ただ一人の前だけで揺れる顔。
「……だから、そんな顔で言うな」
彼は、私の頬に指をかすめながら小さく息を吐く。
「“言えたら満足みたいな顔”で……二度と、言うな」
その言葉の奥底にあるのは、私と同じ恐怖だった。
失うこと。
言えないまま終わること。
もう二度と手が届かなくなる未来。
街道には人がたくさんいるのに、彼は迷いなく私を抱きしめた。
汗と血と旅の匂い。
そして。
「……俺も、お前が好きだ」
その一言は、ささやきよりも静かで
でも、胸の一番深いところまで落ちていくような重さだった。
灰色だった空が、いつの間にか薄く色を灯している。
夕暮れの残光が彼の鎧に淡く反射し、光が滲む。
世界が、ようやく動き出す。
「はい……はい」
私は泣き笑いのまま、彼に抱きついた。もう失わないと、心に決めながら。




