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最終話 一億円よりも価値のあるもの


 俺は、実家へ戻ってから農業を手伝うようになった。


 正直、最初は気乗りしなかった。

 土で爪は黒くなるし、汗で服はすぐにびしょ濡れになる。だが、父や母と共に畑に立ち、種を蒔き、水をやり、草をむしるうちに、不思議と心のざわつきが少しずつ和らいでいった。


 人間不信は完全には消えていない。だが、家族と汗を流す日々の中で、確かに俺は「生きている」と実感できた。


 ――やがて一年が経った。


 夏の太陽は容赦なく照りつけ、畑の空気は熱気で揺れている。

 俺は父と共に、真っ赤に実ったトマトを収穫していた。


「うん。大地! これなんかいい出来だ」


 父がごつごつした手でトマトを持ち上げ、にかっと笑う。

 俺は照れくさくなり、無意識に耳たぶを触った。


 形が少し悪く、出荷には回せないトマトを一人で販売所に並べていた時。

 昼下がりの静かな時間に、ふいに軽やかな声が響いた。


「わぁ……美味しそう!」


 顔を上げると、俺と同じか少し下くらいの年の女性が立っていた。

 麦わら帽子の下できらめく瞳。彼女の視線は、俺の並べたトマトに釘付けになっている。


 胸の奥がじんわり温かくなる。

 自分の作ったものを、こんな風に見てもらえるなんて。


「ちょっと見た目はアレですけど、本っ当に美味しいんですよ!」


 思わず力が入ってしまった俺に、彼女は財布を開き、笑顔で言った。


「じゃあ、一袋ください!」


 その手から硬貨を受け取った瞬間――

 俺の内側に雷鳴のような衝撃が胸を打った。


「……これが……お金……」


 今まで一億円を手にしても満たされなかった俺が、自分の手で育てたものを認めてもらい、その対価を受け取った。その瞬間、体の奥から不思議な『熱』が湧き上がってきたのだ。


「あら、足りなかったですか?」


「いえ。丁度です」


 俺は目頭が熱くなるのを慌てて首を振り誤魔化して彼女に言った。


「ちょっと待ってて!」


 困惑する彼女を置き、収穫した中でも特に形の良いトマトを一つ持って戻る。


「これは……?」


「俺からのサービスです。君が……僕の初めてのお客さんだから」


「ふふっ……ありがとうございます!」


 彼女は満面の笑みを浮かべ、それを受け取った。


 彼女が去ったあとも、俺はしばらく呆然と立ち尽くしていた。

 手のひらで輝く硬貨を見つめながら、胸の奥で震えが止まらなかった。


「お金って……誰かに喜んでもらった証として、生まれるものなんだ」


 そんな当たり前のことを俺は、知っていたようで知らなかった。


 涙がにじみ、思わず空を仰ぐ。


 数日後――


 俺は後から知ったのだが、あのときの女性は、実はフォロワーを数十万人を抱える人気インフルエンサーの光井 陽菜(みつい ひな)だった。

 彼女はとある事情により、一時的に活動を休止中であった。気まぐれに訪れた旅先で俺のトマトと触れ合い、笑顔を取り戻したという。

 

その体験を彼女が久しぶりにSNSに投稿すると、爆発的にインプレッションを伸ばし、たちまち俺の実家の農園は地元でもちょっとしたブームになった。


 田舎の片田舎に次々と訪れるお客さん。


 「甘いですね!」「また買いに来ます!」と笑顔で声をかけてくれる人々。

 家族そろって畑と販売所を切り盛りし、俺も笑顔でトマトを手渡す。


「また来ちゃいました!」


 あれから彼女も何度か再び訪れてくれた。


「じゃあ、またサービスしますよ!」


 トマトとお金を交換しながら、俺は自然に笑っていた。


 * * * 


 俺は久しぶりに電車に揺られていた。


北神戸(きたごうど)北神戸(きたごうど)でございます。お降りの方は――』


 あの駅に停まると、思った通りの人物が乗り込んでくる。


 帽子を深くかぶり、杖をついた老人。

 彼は静かに俺の隣に腰を下ろした。


「やあ、久しぶりだね。おや、その顔……どうやら君なりの答えを見つけたようだね」


 俺はゆっくり頷き、足元のブラウンのトランクを軽々と持ち上げる。ロックを外し、老人に開けて見せた。


「うむ。確かに。で、念願の一億円を使ってみて……何を得た?」


「金は、ただの紙切れでした。……それ単体では人を幸せにするどころか、むしろ不幸にしてしまう」


「だが、君はお金が必要だと言ったじゃないか?」


「はい。お金は必要です。でも――幸せや価値を生んだ延長線上で得たお金じゃなきゃ、そのお金は結局は不幸になって自分から離れていくんです」


 老人は満足そうに微笑み、耳たぶに手をやった。


「もう大丈夫だ。君は、私があげた一億円よりもはるかに価値のあるものを得た。もうこれで、自分で歩いていけるよ」


「うん。だからこのトランクは……返すよ」


「いや、それは君が持っていなさい。いつか必ず、それが必要になる時がくる。今の君なら、もう感づいているだろう?」


(むろ)(むろ)でございます。ご乗車ありがとうございました。お降りの方は、お忘れ物のないようご注意ください』


 車内アナウンスが流れると同時に、電車は速度を落としていく。

 やがて軽い揺れとともに停車し、プシューと音を立ててドアが開いた。


 名残惜しく見ていると、老人は最後に振り返り、こう言った。


「勝又大地くん。人生なんてものはね、案外“なんとかなる”もんだよ」


 そうして、老人は二度と姿を見せなかった。――いや、きっと……


 * * *


 俺は夏空を見上げ、汗で濡れた手をぎゅっと握った。


「働くって……こんなにも気持ちいいんだな」


 ポケットのスマホが震えた。その画面には俺の初めてのお客さんからのメッセージ。


【また遊びに行くね、大地くん!】


「よし、もうひと頑張り!」


 真っ赤に揺れるトマト畑を背に、俺は前を向いた。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

本作は「30分で読み切れる短編シリーズ」の一つとして執筆しました。忙しい毎日の合間や、ちょっとした休憩時間にでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。


また、アキラ・ナルセのページ内「シリーズ」として、同じく【30分読破シリーズ】をまとめていますので、ぜひ他の作品もお楽しみください。


今後も、同じく30分程度で読める短編を投稿していく予定ですので、また気軽に覗きに来ていただけると幸いです。

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