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第1話 電車で出会った老人に一億円をもらった日

 


 俺――勝又 大地(かつまた だいち)、田舎に住む二十五歳。サラリーマン歴三年目。


 カーテンの隙間から、刺すような朝日が差し込んでいた。

 目覚まし時計のアラームを止めたはずなのに、体は布団に沈み込んだまま動かない。頭の奥がじんじんして、眠気がまだ抜け切っていなかった。


「……はぁ」


 ため息をひとつ。しぶしぶ体を起こす。

 六畳一間のアパート。机の上には飲みかけのペットボトルと、読みかけの漫画雑誌。狭いけれど、それが俺の生活のすべてだった。


 青いストライプのネクタイを首に通す。鏡を見ると、わずかに曲がっている。直す気にもなれず、適当にそのままにした。


 通勤の始まり。

 今日もまた、同じ一日が始まる――。

 

 田舎の始発電車は、今朝もがらんとしていた。


 いつものように赤い座席の出入り口付近の定位置に座る。そしてスマホを取り出し、いつものソシャゲを立ち上げて画面を指でなぞる。

 出勤前の気の重さをごまかすには、これくらいしかないのだ。 ガチャの演出が画面いっぱいに広がる。結果は……ハズレ。今日も特にいいことはなさそうだ。


『まもなく北神戸(きたごうど)北神戸(きたごうど)です。出口は右側です。お降りのお客様は足元にご注意ください』


 ガタンゴトンと揺れる車内に、淡々とした女性の声が響いた。

 ブレーキ音とともに電車は減速し、窓の外の田んぼと住宅地がゆっくりと流れていく。


 電車が静かに停まる。


 ドアが開き、一人の老人が乗り込んできたのが見えた。


 その人はブラウンのツイードの帽子を目深にかぶり、まだ九月の終わりで涼しい風すら吹いていないのに、ダブルのトレンチコートを着込んでいる。右手には杖を片手につき、帽子もあって、白髪と髭に覆われた顔はよく見えなかった。


 それより目を引いたのは革でできた深いブラウンの色のトランクケースだった。ずいぶんと年季が入っている。


(……なんか変わった人だな)


 ちらりと横目で様子をうかがった次の瞬間、その老人はまっすぐこちらに歩み寄り、ためらいなく俺の隣に腰を下ろした。左手に持っていた大きなトランクはゆっくりと床に置いた。


(え? なんで? こんなに空いてるのに……)


 それを声に出すわけにもいかず、再びスマホに視線を戻すと、不意に声がかかった。


「ずいぶんと疲れた顔だね。何か悩みごとかね?」


 右隣からのその声に思わず顔を上げる。

 知らない人に、電車で話しかけられたのは初めてだ。


(な、なんだこの人……ヒマなのか?)


 俺は少々気だるそうに答えた。


「悩みなんて、みんなあるでしょ。大人で、社会人だったらこんなもんですよ。おじいさんには分からないかもしれませんけど」

「ふむ。では君の悩みってなんだい?」


(うわ……完全に相談モードじゃん。めんどくせぇ……)


「そりゃあ、仕事に行きたくないとかですよ。あとは……金が欲しいとか。彼女を作って結婚したいとか。普通でしょう?」


 俺が投げやりに答えると、老人は即答した。


「じゃあ仕事はやめて、お金は盗んで、その盗んだ金をちらつかせて寄ってきた女性に婚姻届けを書かせれば解決だね」


(な、なんだこの人……やばい人か!?)


「そんな簡単に辞められるわけないでしょ! それに金を盗むなんて犯罪ですよ!」


「ふむ。だめかね。たしかに、お金を盗むのが犯罪だというのは至極最もな理屈だね。……じゃあなぜ仕事は辞められないのだね?」


「そりゃ、生活できなくなるからですよ。一人暮らしなんで、家賃も食費も光熱費もかかりますし。友達とも遊びたいですしね」


「すると君は“生きるため”に――もっと言えば“金のため”に働いているということになるね?」


 その言葉に少し考え、俺はしぶしぶうなずいた。


「まぁ、そうなりますね。生きるのに金は必要ですから」

「生きるのに金は必要かね?」

「そりゃ必要ですよ。資本主義社会なんですから」

「正解だ」

「……いや、なんの時間ですかこれ」


 俺は苛立ちを隠すように、耳たぶに手を当てこすった。

 するとそれを見た老人は笑った。


「まぁまぁ、私はヒマなんだ。少しだけ私に付き合ってくれないか」


(やっぱり、ヒマなんだ。まぁ、このおじいさんがどこまで乗るのか知らないけど、長くても終点までは二十分くらいだし、付き合ってあげるか)


「……まぁ、いいですけど」

「うむ。では続きを話そう。つまり君は、生きるのに必要なお金があれば、今すぐにでも仕事を辞めるんだね?」

「そりゃそうですよ。今ここに“一億円”でもあったら、すぐにでもあんな会社やめますよ」


 俺は鼻を鳴らし、胸を張ってみせた。


「ははは、なるほどなるほど」

 老人は愉快そうにお腹から声を出した。


「そういうおじいさんはヒマそうでいいですね。これから散歩か何かですか?」

「うん、そうだね。私はヒマだよ。たぶん君が降りる駅の手前で降りる予定なんだ」


(手前ってことは……。でもあの駅の周辺なんて、特に何もなかったはずだけど……どこかからの帰りかな。でも、これが始発だけどな)


 『次は(むろ)(むろ)でございます。出口は右側です。お降りの方は――』


 電車の無機質な案内が流れるとおじいさんは反応した。


「おっと、話し込んでいたらもうすぐのようだ」

「そうなんですね。それにしても、この時期にそんな厚手のコート着てたら暑くないですか?」

「いや、平気さ。これは特別でね」


 そう言って、老人は手に持ったブラウンの革のトランクケースを慎重にひざの上に置いた。


「よいしょっと」

「随分重そうな荷物ですね」


 俺が言うと、彼は笑うとこう言った。


「これを君にあげよう」

「えっ!?」


 電車が減速を始める。

 老人はそのトランクを、当然のように俺の横に置いた。


「ちょ、どういうことですか?」

「私のヒマをつぶしてくれた礼だよ。なに、気にすることはない」


『お降りの方はお忘れ物のないようご注意ください』


 プシューと赤いドアが開く。

 老人は杖をつき、「よっこいしょ」と立ち上がった。


 ぽかんとする俺を尻目に、悠然と電車を降りていく。

 二人のサラリーマンが同時に乗りこんできた。


 残された俺の元には、もらったのか預かったのかも分からない謎のトランクケースのみが残された。


(なんだこれ……異様に重いぞ。十キロはあるんじゃないか?)


 車窓の外に目を向けると、老人の姿はもう改札にはなかった。


「……なんだったんだ、一体」


 やがて目的の駅に着く。俺はトランクを抱えてホームを歩くが、あまりの重さに思わず愚痴が漏れた。


「なんなんだよこれ!」


(せめて中身だけ確認しておこう。食べ物なら腐るし、生き物だったら困るし、爆弾なら警察行きだし……)


 人通りの少ない場所まで足を運び、慎重にトランクを開ける。


 次の瞬間、俺は息を呑んだ。


 中には帯のついた札束。


(な……!)


 まごうことなき現金。それも――『一億円』。


 全身から一気に感覚が抜け落ち、俺はその場に立ち尽くした。


「ど、どういうことだ……本物なのか、これ」


 札束を一枚抜き取り、透かしを確かめる。どう見ても本物の一万円札。

 まだ暑い九月の朝、流れる汗はもはや冷や汗に変わっていた。


 雑踏の音、横断歩道の信号音が耳に戻ってくる。


「と、とにかく……出勤しないと……」



 * * *



 俺はやたらと重たいトランクを抱え、足を引きずりながら会社へ向かった。


 机の下に置いたロッカーの鍵が、ずっと気になっていた。

 中には――あの一億円が入っている。


 会議に出ても、資料を読んでも、同僚に話しかけられても、思考の奥底で「一億円」という言葉がチラついて離れない。

 

 昼飯に同僚の高原(たかはら)が「月末で金がない」と言ったので、俺はあのトランクから一万円を出して彼に上等な海鮮丼を奢ってやった。いつもなら奢ったりなんてしないし、ワンコイン牛丼で済ますのに。


 その夜、自宅のワンルーム。畳一枚ぶんのスペースに鎮座する黒いトランクを前にして、俺はため息をつく。

 カーテンの隙間から差し込む街灯の光に、札束が鈍く反射している。


「……本物なんだよな、やっぱり」


 昼食の時に使った一万円札は、店の券売機に通したが問題なく使うことができた。


 それがなくとも、触れるだけで分かる。重さと紙の感触。冗談でも幻でもない。

 だが、それ以上に胸を圧迫するのは――あのおじいさんが残した言葉だった。



 『君は一億円あれば仕事を辞めるのかね?』



 答えは簡単だ。辞めるに決まってる。

 だけど……辞めた先に何があるんだろう?

 そんなことは考えたことがなかった。


 初めて考える内容に俺の脳はショートを起こした。考えるのが酷く辛かった。

 俺は布団に入っても眠れず、結局、ほとんど徹夜のまま朝を迎えた。


 数日後――


 俺は部長に退職願を出した。


 「勝又、本気なのか? まだ三年目だぞ」

 「ええ、すみません……」


 部長は信じられないという顔をした。

 同期も驚き、引き留められたが、俺の決意は固かった。


 ――いや、正確には、あの一億円が俺の決意を固めてしまった。


 引き継ぎと書類手続き。貸与品を返却し、会社の備品から自分の名前が消えていく。

 流れるように「サラリーマンとしての俺」は片付けられていった。



 十月、俺は有休消化中の身となった。

 小さなアパートのベランダで電子タバコをくわえ、空を見上げる。顎を触ると髭も伸びてきている。

 俺の横には、あのブラウンの革のトランク。


「おれ……これから、どうすりゃいいんだ」


 心が晴れることはなかった。

 それどころか、金に縛られて身動きが取れなくなっている気さえした。

 それは生まれて初めて感じる金の重みだった。



 俺はまた、あの電車に乗っていた。

 やはりここは落ち着く。会社員としての習慣が、体に染みついているのかもしれない。


 そして――思った通り、見覚えのある姿が、また目の前に現れた。

 帽子を深くかぶり、仕立ての良いトレンチコートを羽織り。右手に杖をついた老人。


「あ! ちょっと待ってくださいよ!」


 俺は慌てて声をかけた。

 老人は首を傾げ、ゆっくりと振り返る。


「なんだね?」

「なんだね、じゃないですよ! あの大金、なんなんですか!」


 俺は小声でまくしたてた。「詐欺か何かですか? 俺、もう一万円ほど使っちゃいましたけど……今なら返せます!」


 老人は肩を揺らして笑った。


「いや、あれは君にあげたんだ。どう使おうが君の自由だよ」

「……でも、そんななにか俺に売りつけるつもりですか! どんな詐欺の類ですか!?」

「ちょっと落ち着きたまえ。私は君に何も求めない。あー、ただし、一つ条件がある」

「条件?」


「君は言ったね。――“一億円あったら、今すぐ会社を辞める”と」

「……ええ」

「ならば約束どおり、仕事を辞めたまえ。それがあれの譲渡の条件だ」


(本気だったんだ)


 俺は唇を噛んだ。

 既に退職願は受理されている。


「……辞めましたよ。ほんとに辞めました。正確には有給消化中なので在席はしていますけど、じきに退職します」

「そうか」


 老人は満足げにうなずき、杖の先を軽く床に突いた。


「では次の問いだ。――その金で、君は何をするのかね?」


 ドキリとした。

 昨夜から考えに考えてきた答えを、俺はぶつける。


「とりあえず家を買おうかと思います。今のような賃貸じゃなくて、ちゃんとした持ち家を。安定するし、将来も安心でしょう」


「ふむ……では聞こう。家を買った後、君は毎日をどう生きる?」

「……え?」


 困る俺に老人はにっこり笑った。


「まぁ、あれは君に譲ったんだ。何も言うまい」

「……っ」


 俺は、答えられなかった。

 重い沈黙が、車内に降りる。


 やがてアナウンスが流れ、老人の降りる駅が近づいてきた。

 彼は杖をつき、ゆっくりと立ち上がる。


「考えなさい、若者よ。――お金とは、何なのか」


 その一言を残し、老人はホームに消えていった。

 残された俺は、ただ拳を握りしめるしかなかった。


「……ま、どうにかなるっしょ……」

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