Verse 2-3
この青年にとっては、実に退屈な講義であった。彼には類まれなる知性があった。無論、それを持て余さない程度の知識と情報もあった。家に恵まれ、財産もあり、顔も良かった。しかし、それ故に自らより知才のある者に対して非常に嫉妬深かった。今、目の前に座っている青年の頭をじっと見つめながら、ジークフリートは退屈な講義が終わるのを待っている。通常の大学とは違い、士官学校の講義は一コマ百分であった。無論、早く切り上げる軍人は数多くいたが、それでもジークフリートはこの講義がつまらなかった。万年筆の尻で目の前の青年の黒髪を少しだけすいてやると、青年は迷惑そうに後ろを向く。印象的な黒曜石の瞳が金髪碧眼の青年を映した。
「つまらないだろ?」
小さく囁いたジークフリートに、レイはしかめ面を返す。後ろの席に座っているせいか、教官が二人に全く気付かないのををいい事に、ジークフリートは軽々と机を飛び越した。音もなく着地したジークフリートはすぐ隣に座る。軍人が板書から士官生達に振り向くまでの短い時間で、見事やってのけたのだ。
「お前、あの試験の時にお坊ちゃんの所に駆け寄った奴だろ? 名前は?」
「レイだ。」
薄笑いを浮かべるジークフリートを、レイは軽蔑するような視線を送る。
「この講義つまらなくないか?」
机の上に突っ伏して、ジークフリートはそう投げかけた。大抵の女性はこれだけで落ちるだろう。美しく細い金髪が黒い軍服にかかる様、孔雀色の瞳はどこかサディスト的な雰囲気を漂わせて、更に非常に弁舌に長けていた。
「別に、つまらなかったら聞かなけりゃいいだろ。」
ジークフリートは片眉を吊り上げる。体勢を戻し、机の下にあるレイの手を覗き見た。文庫本が開かれている。面白そうにジークフリートは笑いながら視線をレイに戻した。
「面白い奴だなお前。」
「だけど、俺はお前の態度がいけ好かない。」
軍人が終わりの声を上げると、士官生達は一斉に話し始める。しかし、レイとジークフリートの間だけは時が止まったようであった。二人は向き合ったまま一ミリたりとも動かない。
「ジャンに暴言を吐いた事忘れてないだろ。俺はお前が嫌いだ。」
きっぱりと言い放ったレイは、すっきりとした顔で立ち上がった。
「嫌い? 僕を? それはまた面白い奴だな。どうしてだ?」
不機嫌なレイの顔をジークフリートは見上げる。不快そうな表情は微塵もなかった。レイは机の上にあった道具を全て鞄に入れると、きっぱりと言い放った。
「ジャンを馬鹿にしたからだ。お前こそ貴族との溝を深める典型的な頭の固い軍人だ。無駄にプライドの高い、古典にしがみつくしみったれた野郎だ。」
立ち上がったや否や、ジークフリートは手を挙げる。派手な音が教室に響いた。軍人と士官生のだれもが二人に注目した。机の下に倒れこんだレイは、目を丸くしてジークフリートを見上げる。
「お前もあのお貴族の味方か、馬鹿馬鹿しい。」
レイは駆け寄ってきた軍人に抱え起こされて、漸く立ち上がった。ジークフリートは吐き出すだけ吐き出して、急いで荷物を押し込むと取り巻きを連れて颯爽と教室を後にする。我に返ったように、レイは後ろを振り返った。
「ありがとうございますパーシヴァル将軍。」
後ろに立っていたのは現在ROZENで最高齢の軍人、パーシヴァル将軍であった。穏やかな笑みを浮かべて、パーシヴァルはレイの肩についた埃を払う。
「いいんですよ。ただ、レイ。あの子には気をつけたほうがいい。その……非常にプライドが高くてね。馬鹿にされたり嫌ったりする人間はいじめるから……。」
苦笑するパーシヴァルに、レイもつられて苦笑いした。
「大丈夫ですよ将軍閣下。俺はあんなのに目をつけられるほど突飛な奴じゃないですから。」
ならいいけども、とパーシヴァルは教室の扉に目をやる。どうやらレイが思っている以上にパーシヴァルは彼を心配しているようであった。レイが少し悩ましげな顔をしていると、パーシヴァルはその表情に気付いてまた穏やかな笑みを浮かべる。
「まぁ、まだ寮生活は始まったばかりだからね、楽しい日々を送りなさい。」
「はい!」
レイは力強く頷いた。
昼食を終えてジャンが部屋に戻ると、消毒液の匂いが鼻を刺激する。顔をしかめて扉を乱暴に閉めると、朝の失態を叱ろうと一歩踏み出して仁王立ちした。しかし、そこには血のついたフィリップのコートがあるだけでもぬけの空である。
「一人で仁王立ちしてナルシかよお前。」
音もなく入ってきたフィリップは上半身全裸であったが、所々包帯を巻いていた。驚いたジャンはその姿をまじまじと見つめる。
「おいおい、年度早々喧嘩でもおっぱじめたのか……?」
「はぁ? 頭沸いてんのかお前。」
すたすたとベッドまで歩き、そこら辺に散らかした救急用具を鞄に詰める。少し湿った艶のある黒い髪を見て、ジャンは先程までのフィリップの居場所を察した。
「巻き込まれるのはごめんだよ!?」
「勝手に話進めんじゃねぇぞ。喧嘩じゃねぇって言ってんだ。」
ジャンは閉口する。ここまで言うなら同室者の言う事を信じなければならないだろう。口をへの字に曲げて救急箱を机の上に放り投げたフィリップは、近くに落ちていたコートを持ち上げる。
「ったく早々に破れたな……。」
洗濯籠にコートを放り投げて、フィリップは別のトップスを衣装箪笥から取り出した。一連の行動をただ突っ立ったまま見ていたジャンへ、フィリップは気味悪げな視線をやる。
「何しに帰ってきたんだ? まさか俺の話を聞きつけて笑いに来たわけじゃねぇんだろ。用事終えたらさっさと出てけこの……。」
言葉が思い付かなかったのか、フィリップは途中で頭を振って着替えを始める。ジャンは、ただただその行動を見続ける事しか出来なかった。
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