Verse 3-8
途中で書類仕事を放棄して、バスカヴィルは馬を走らせていた。無論、書類放棄をしたのには理由がある。皇帝フランシスに王宮へ召還されたのだ。白亜の吊り橋を渡り、巨大な透かし細工が施された門の前でその手綱を引く。
「帝国直属軍事機関ROZEN所属、元帥のバスカヴィルだ。門を開けて頂きたい。」
下馬しながら神官にそう告げると、ゆっくりと門が向こう側へ動き始めた。庭の中央ではロビンが待ちくたびれたように噴水の縁に座っている。バスカヴィルの影を見とめ、彼はゆっくりと立ち上がった。
「お待ちしておりました元帥閣下。」
刀をロビンに預けると、その畏まった態度にバスカヴィルは苦笑いする。
「随分と他人行儀だね。」
ロビンはなにも言わなかった。王宮内を歩み進めていくと、バスカヴィルはいつもと様子が違う事に気付く。フランシス帝が私的な用事で元帥に会う時は常に応接間に通されていたが、今回通っている通路は謁見の間に続くものだ。
「ロビン、どうしてここに——」
謁見の間の豪奢な観音扉が、重い音を立てて開いていく。しかし、皇帝はいなかった。ロビンは更に歩みを進めて謁見の間に隣接する温室まで歩いていく。先程の観音扉とは打って変わって、乾いた音とともに蛇腹状のドアが開かれた。フランシスは白い大理石の上にしゃがんで、花壇の手入れをしている。
「あぁ、来たか元帥。ロビン、下がれ。」
無言で一礼して、ロビンは温室の扉を閉めた。それを見つめているバスカヴィルを一瞥すると、フランシスはゆっくりと立ち上がった。白い装束についた土を払い落としながら、彼はバスカヴィルに近付いた。
「まさかまた貴方と相見える日がくるとは思いませんでしたよ、陛下。」
酷く他人行儀な言葉がフランシスに降りかかる。
「そうですか兄上。それでは、ここに呼ばれる理由もとんと皆目、見当がつかないと?」
「ないな。」
フランシスは首を傾げて青い瞳でゆっくりと微笑む。紅茶の置いてあるテーブルへ振り返り、マントを翻しながらそこまで歩いて行った。
「兄上。貴方は件の出来事以来、私の王宮召還に背き、塔とご自宅に籠りきりだった。そんな貴方が、なぜ今頃私の命令を聞こうとお思いになったのですか。」
ティーポットを高く高く掲げて、フランシスはゆっくりとそれを傾ける。紅茶が音を立ててティーカップに注がれていった。あぁそうだ、とフランシスは首だけをぐるりとバスカヴィルに向ける。
「私の息子と妻は、元気かな?」
バスカヴィルは一瞬鼓動が止まったように思えた。いつの間にか煌々と薄暮に染まったフランシスの瞳は目と鼻の先に来ている。持っていたティーカップをソーサーごと床に叩きつけて、皇帝はバスカヴィルに詰め寄る。
「兄上、まさか貴方が法に背くとは思っておりませんでしたよ。幾ら体裁的な追放と言えど、世の政治に犠牲は付きもの。」
「違う、彼女は……妻は追放されて、帰って来たんだ。」
軍服の胸倉を掴んで、フランシスは温室のガラスにバスカヴィルを叩きつける。
「世界の最果てから人が帰ってこれるとでも。例え祭司長であろうと、所詮は……、我々とは違う!」
ぱっと手を離し、フランシスは一歩その場から退いた。バスカヴィルの体がガラス板を伝って大理石へ落ちていく。
「そう言えば貴方にも残っていましたね、瞳が。嘆かわしい事だ、それを抑えるのにその体たらくでは直系の血が泣きますな。」
ガラス板に手をついて漸く立ち上がったバスカヴィルは、詰襟をほんの少しだけ緩めてフランシスを睨んだ。
「なんだ、マリアに結局愛して貰えなくて、私に嫉妬してるのかな。」
「いや、彼女はさして問題ではない。世間に広まってはいけないからさっさと片付けるのみだ。問題は——」
角砂糖をかき混ぜていたフランシスは、スプーンを放り投げて笑った。
「息子だ。」
次の瞬間、バスカヴィルはフランシスに掴みかかっていた。先程やられたように胸倉を掴み上げて、彼は低く低く、唸るように怒鳴る。
「レイに、私の息子に指一本でも触れてみろ。貴様のその腕切り落とす!!」
その姿にフランシスは一度鼻で笑うと、次は高笑いを始めた。持っていたティーカップをゆっくりと机の上に置いて、彼は心底嬉しそうに胸を震わせた。
「なぁんだ。兄上は結局、彼が好きなんだな。そうですよね、あれだけ溺愛していれば、私なんぞに触れさせたくもないでしょう。もう、あの惨劇を二度と起こさないように!」
黒い軍服が、更に湿った黒に染まっていく。バスカヴィルは目を見開いてゆっくりと自らの腹部を見つめた。綺麗に磨かれた銀のナイフが、深々と突き刺さっている。
「貴方が憤怒に染まる姿は本当に素晴らしい。だがもう遅い。貴方の息子と分家当主は既に接触してしまった。もう手には追えないでしょう。」
白い大理石に赤黒い血溜まりが広がっていく。フランシスがナイフを引き抜くと、バスカヴィルはその場に崩れ落ちた。
「あぁ、本当は兄上の命も食らってやりたいのですが、生憎それを許してくれない奴がいるので。」
血に染まった銀食器が音を立てて床に転がり落ちていった。
どうやって戻ってきたのか、もはや蒼白な顔をしたバスカヴィルには分からなかった。何事か怒鳴るロビンから太刀をもぎ取って、白い手袋が真っ赤に染め上げられて重くなっていくのを感じながら、彼は衛兵が止めるのも聞かずに馬に乗ってROZEN本部第一塔まで帰った。退勤時間をすっかり過ぎた本部には、もう人はいなかった。塔の最上階まで直行エレベーターで辿り着いた時には、既に視界がぼんやりとしている。
「元帥閣下。一応お戻りになるまで——閣下?」
エレベーターの鐘の音に気付いたのかロベルトは退勤姿でバスカヴィルに駆け寄った。体をくの字に曲げて今にも崩れ落ちそうなバスカヴィルを抱えて、ロベルトはその掌にべったりと血が付着したのに気付く。
「閣下……?」
「だ、れも……呼ぶな。」
肩と膝を抱えて、ロベルトはバスカヴィルを元帥執務室のソファーに寝かせると、仮眠室から濡らしたタオルを持ってくる。そのタオルで、詰襟と真っ赤に染まったスタンドカラーのワイシャツの前を開けて腹部についた大量の血液を拭った。その片手間、探り当てた受話器を肩で押さえながらダイヤルを回す。
『はいもしもし。軍医部署です。』
「こちらはロベルト元帥補佐だ。緊急事態が起こった、アルフレッド中将が執務室にいるなら繋いでくれ。」
血だらけになったタオルを執務机に放って、軍服のポーチに備え付けてあるガーゼを取り出した。回線の切り替わった音とともに青年の声が聞こえる。
『アルフレッドです、どうしましたか?』
「元帥が重症だ、大至急執務室まで来てくれ。」
返事もそこそこに、受話器は急いで降ろされた。
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