Verse 3-4
「国外追放された者は戻れない。そうだな?」
ロンドンから帝國直轄地に戻ったリチャードとエドワードは、目の前に横たわる女性に驚きを隠せない。彼らが幼い頃に追放された女性、それがメアリーであった。
「その、元帥夫人はどうやって戻ってきたんですか。」
隣に立つ薙は二人の問いかけに頭を振る。皆目見当がつかないのか、それとも知っていて話さないのか、二人には分からなかった。帝國そのものは平面である。その端の端に、世界の最果てと呼ばれる場所があった。そこへ追放を言い渡された者は死刑と言っても過言ではない。そこからはだれも戻る事が出来ないからだ。死刑制度のない帝國ではそれが究極の刑罰である。
「だれも彼女は匿えなかったし、本当に追放されたんだよね。」
世界の最果てへ追放された人物が本当に追放されたか、それを調べるのは分家の仕事である。汚れ仕事だった。その捜査を拒否する人間はすべからく殺害し、隠蔽するのも彼らのこなすところだ。彼らはくまなく探し回る。家の隅の埃から世界の端に至るまで、一つの見落としもなく。
「レイには会わせるの……?」
「少なくとも閣下はそう仰ってる。」
交わす会話があるわけもなく、二人が押し黙ると沈黙が降りた。
「祭司長様はもう数日で目覚めるとの予測ですので、その時に会われるかと。ですが、身の安全の為、外出は——」
「分かっている。」
ケピ帽を目深に被って、リチャードはそそくさと病室から出て行く。エドワードも薙に一礼してリチャードに続いた。長く続く廊下を歩きながら、二人は沈黙している。
「レイは、大丈夫だよね?」
エドワードの心臓の早鐘は鳴り止まなかった。物事が良くない方向に進んでいる、と彼の警察部署トップとしての直感が告げていた。ただ真っ直ぐ前だけを見ていたリチャードは、その不安には見向きもしない。
「知らない。それはレイが決める事だ。」
「そう、だよね。」
一瞬言葉に詰まって、エドワードは漸くそう言い終える。その後、ROZEN本部第一塔に帰るまで、二人の間に会話はなかった。
帝國は真夏を迎えても未だ涼しかった。レイは馬を歩かせながらゆっくりと、久し振りに家へ向かっている。
「お帰りなさいませレイ様。」
「ただいまバトラー。馬を頼んだ。」
出迎えた執事に手綱とピケ帽を渡して、彼は屋敷に上がった。いつもの閑散とした玄関ホールに上がると、その日は珍しく、レイにとっては運悪く、バスカヴィルが階段を降りてくる。
「レイ……その傷は?」
脱ぎかけていた手袋を嵌め直し、レイはボタンを留めた。
「なんでもねぇよ。ただの小さな火傷だ。」
僅かに引いた手首をバスカヴィルは掴む。白い手袋を慣れた手つきで外すと、包帯の巻かれた手が露わになった。無理に手袋をはめていたせいか、既に包帯は所々解けて、痛々しい火傷が見え隠れしている。
「これがただの小さな火傷?」
バスカヴィルはもう片方の手を差し出すように促した。恐る恐るもう片方の手を差し出し、レイはそれを父親の手の上に乗せた。痛みが走る度にレイは顔をしかめて体を強張らせる。
「アルフレッドに治療はして貰ったんだろう?」
「塗り薬は、貰ってきた。」
目を覗き込まれ、レイは顔を背けた。ゆっくりと慎重に包帯を外されると、バスカヴィルは囁く。
「この調子じゃ治るには相当かかるだろうね。アルフレッドには何て言われたんだい?」
「毎朝包帯を変える事。変える時に薬をきちんと塗り込む事。」
そう、とバスカヴィルは満足げに微笑んで手を離した。軟膏だらけの包帯を机の上に放って、彼はレイの頬を撫でる。
「レイ。それで、今日の朝は変えたのかな?」
撫でる指をはらい、レイは不機嫌そうな顔をした。
「汽車の中で俺が包帯巻けると思ってんのか?」
放られた包帯を荒々しく取り上げようとしてレイは痛みに顔を引きつらせる。床の上にゆっくりと包帯が歪なとぐろを巻いていった。
「座って待っていなさい。きっとそれじゃあ碌に服も脱げないよ。」
近くにあったソファーに腰掛けさせ、バスカヴィルはすぐに治療箱を持って戻って来る。渋々両手を机の上に出して、レイは優しく軟膏を塗られる様子を見つめていた。
「親父、包帯巻けんのか。」
「士官学校の頃は自分で巻いていたからね。自然に学んだよ。」
感慨深く笑うバスカヴィルは箱から包帯を取り出してそっとレイの手に巻きつけていく。流石にアルフレッド程とは言えなかったが、バスカヴィルの手つきは非常に手馴れていて、完成も綺麗であった。
「スプーンやフォークは持てるかい?暫くは働かないほうがいいよ。」
「持てる。それに、仕事の書類は死ぬほど溜まってるんだ。家でぐうたらしてられるか。」
レイは綺麗に包帯が巻かれた手をしげしげと見つめる。
「そう。それなら、お前の書類仕事は半分別の人間に回しておくから、手を使わない仕事を一つ頼んでもいいかな?」
床に落ちていた手袋をバスカヴィルはそっと差し出した。
既に空は煌々と燃えるような橙に染まっている。レイがLILIE本部教会に足を踏み入れるのはこれが初めてであった。白亜と水色のガラスで作り出された美しい内装と、鏡のようなクリスタルの床を見ながら、彼はバスカヴィルの後ろについていく。
「すまないね。突然連絡を入れて。」
「いいえ、構いません。後ろの方は……将軍、閣下ですね?」
数度言葉に詰まった薙を見て、レイは軽く会釈した。
「あの、親……父上。ここに俺の仕事が?」
息子の問いかけにバスカヴィルは小さく笑っただけである。そのまま薙の後に続いた父親をレイは再び追いかけた。長い長い廊下を渡って、ついに辿り着いたのは小さな白い木造りの扉だった。
「レイ、ここから先の事は決してだれにも言ってはいけないよ。もしこの秘密が漏れてしまった場合は……私はともかく、お前とその周囲の命を危険に晒す事になるからね。」
バスカヴィルが言い終わるとともに、白い扉は全て開かれた。レイはその部屋のベッドに横たわる女性を見て目を見開く。
「母……上?」
ゆっくりと部屋に一歩足を入れて、なるべく音を立てないようにベッドの脇に膝をついた。
「明日から毎日、母さんの為にここに来て欲しいんだ。もう数日で目を覚ますらしい。だから目が覚めた時にだれか隣にいるように。」
メアリーの血の通った頬にそっと触れて、レイは唇を震わせる。
「もう、もう帰ってこないってあの時言っただろ……嘘だったのかよ。」
細い肩をそっと抱いて、バスカヴィルは目を伏せた。
「戻ってきたんだよ。本当に……奇跡が起きたんだ。」
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