Example 2-33
目を丸くした元帥に対して、バスカヴィルは椅子に座ったまま一礼するにとどまった。相変わらず聴講している経理関係の講義での事である。
「え、え~。始める。」
言葉少なにそういって、アンソニーは何度かバスカヴィルに視線を寄せたが彼はいつものように教本を覗いているだけだった。正直、講義の内容は上期にバスカヴィルと私的に話し合った放課後と殆ど被っているので、そんなに必死になって出る意義はほぼなかった。
(……オーウェンはどうしたのだ。)
自分の健康はさておいて患者の健康を第一に考えるオーウェンが、起きてすぐの状態のバスカヴィルを外に出し、あまつさえ講義に出席する事を許すとは考えづらかった。講義中ずっとバスカヴィルの容体を気にしてしまって、アンソニーが士官生の質問を聞き逃す始末にさえなった。
「体はどうだね? 講義に出てももう大丈夫なのか。」
講義が終わって生徒の殆どが退出すると、アンソニーはチョークを木箱にしまいながら階段を上っていった。
「はい、もう大分良くなりました。ハワード先輩から花も見舞っていただいて……。」
「そうかそうか。てっきり今日も病室で休んでいるものだと思ったから来た時は驚いたよ。」
微笑むバスカヴィルの顔は力がなかったが、表情筋を動かせるくらいには体力も戻っているようだった。
「今日は、もう寮室に帰って休みなさい。突然動いては体も驚いてしまう。」
「……分かりました。お気遣いありがとうございます。」
よしよし、と頷いて、アンソニーは肩を下ろした。
寮室に戻った時のニコライの言葉のかけづらさに、バスカヴィルは思わず気圧された。
「た、ただいま。」
「ただいま?」
その様子と言えば、不倫した夫が帰ってきたら不倫を知った妻がカンカンに怒って離婚裁判を突きつけようとしているかの如くだった。
「だからあれだけあの男に近付くなと言ったのに! お前という奴は一体全体……人の言う事は聞け!!」
「事件になったのは謝るけど、そうそう悪い事ばか——」
流石のニコライも言い訳するバスカヴィルにはついつい手が出た。病み上がりと分かっていても平手で頬を打つくらいには憤っている。
「悪い事ばかりではないだと!? 冗談も大概にしてくれ……。」
あの日の夜どれだけ肝を冷やして、[シシャ]の力を密かに使ってまでして居場所を特定した自分が阿呆らしく思えてきた。一通り怒って体力をぶちまけたニコライは椅子に体を放り出した。
「一体どれだけ心配したと……。私もクラヴェもガウェインも胸が潰される思いだった。オーウェンは取り乱しかけたしハワードは泣きそうにまでなって……。」
肩を落とし、ため息を吐き、ニコライはシャンパンゴールドの眩い髪を乱暴にすいた。
「……すまない、謝るよ。」
謝ってどうこうなるものではないとバスカヴィルは分かっていたし、だから呆れて顔を背けたニコライの反応も受け入れた。
「夕食は?」
「もう食べてきたよ。今日は大人しく寝る。」
そう、と短く返して、ニコライはもう一度ため息を吐いた。シャワーを浴びに出ていったバスカヴィルの姿を、直視する事はどうしても出来なかった。
* * *
それからバスカヴィルの様子は少しずつおかしくなっていった。取り敢えず単位の安寧が許されたのでニコライは一度、バスカヴィルとロベルトが同じになったという講義に潜ってみたが、バスカヴィルは離れた席に座っていた。そこまでは安心したのだが。
(……また起きてるのか。)
夜、バスカヴィルは寝付けない日が多くなった。いや、多くなったどころか殆ど毎日だった。講義がある日は疲れてすぐ寝る事もあるが、休日は特にだった。日中も、休みの日は一緒にトレーニングをしたが、なにかしていなければぼんやりと上の空だ。
「ヴィル。眠れないの?」
意を決して声をかけた。バスカヴィルの被る布団が僅かに浮き上がる。
「……眠れるよ。」
僅かに上ずった返答が聞こえた。ため息と舌の震えが混じった声だった。ニコライは彼の声がまた聞こえるまで暫く沈黙を守る。語りたくないのなら、無理に語らせる必要はない。
「ああいう事をしたのは、初めてだった。」
シーツを握りしめて、バスカヴィルは背中を見せてぼそっと呟いた。
「だから夜になると思い出して耐え切れなくなる。暫くしたら収まって眠るから……。」
泣き疲れて眠れるほうがまだ楽だった。永遠と頭の中で熱を理性とかき混ぜて、漸く冷めてきた所で寝落ちる。バスカヴィルはそれを繰り返し続けた。
「私は、どうする事も出来ない……。」
苦い言葉だったが、バスカヴィルは頷いた。ニコライにどうこうしてもらおうとは思っていなかったし、自分でどうにかしようとも思っていた。
「ありがとう、聞いてくれて。」
むしろ感謝するのはニコライのほうだった。しかしバスカヴィルが眠りにいくのを妨げるのはどこか気が引けて、ニコライはそのままバスカヴィルに背中を向けた。
* * *
何度かバスカヴィルに体を求められる事もあったが、ニコライはその全てを断り続けた。時にきつい言葉も言ったが、バスカヴィルはむしろその言葉を待っていたようだった。友人を傷つけたくない、その感情が顔から溢れ出ていた事は言うまでもなく、ニコライが心を締め付けられながら断ると、彼は決まって感謝した。
「毎回すまない……。」
「これくらいならいくらでもする。」
そんな事より、とニコライは隣で項垂れる友人の姿を見た。最近押し倒される時にいつもいつも覆いかぶさる影が大きくなる事を実感した。彼の毎週の体作りのおかげだろうか。まだロベルトほどとは言わないが、体つきがしっかりしてきたのは言うまでもない。
「そろそろ冬だけど、休みはまたリヴィングストンの家に?」
人々が待つクリスマスは、夏季休暇を思えばたちまちにやってきた。
「……いや。今年は、一人で。」
手当たり次第に教本を膝に乗せて開いて、バスカヴィルはそう呟いた。まだこうして友人の叱咤の世話になるほど自分を律し切れていないのに、他人の家で過ごすのは気が引けた。
「どうにかするよ。」
出来れば孤独を味わいたかった。隣にこうして常に温もりがある環境も良いが、今年は少し一人の時間が欲しくなった。
「分かった。」
ニコライは友人をそっとしておく事にした。窓の外を見れば、濃紺の世界に雪がしんしんと舞い散っていた。
* * *
試験期間の最後の日、バスカヴィルはたまたまアンソニーとすれ違った。
「そうか、では今年はまた家族だけで過ごすとするか……。」
「申し訳ありません、わざわざ誘っていただいたのに。」
頭を下げて、バスカヴィルは年末年始に想いを馳せた。今度こそ本当の一人のクリスマスだった。ツリーも、そこに飾るオーナメントも、リースも、プレゼントも何一つない。
「いや、構わんのだよ。君がそれでいいのなら。」
年末年始は、夏季休暇以上に士官生達が帰省する。木々の葉一つない侘しい士官学校の風景と相まって、その寂れた雰囲気は増す事だろう。
「では、良いクリスマスを。」
「はい、閣下も良いクリスマスを。ご家族によろしくお伝え下さい。」
微笑んで、アンソニーはバスカヴィルの頭をぽんぽんと撫でた。もう最初に見た時より大分上に来ている。まだまだ育ち盛りの年頃は背が伸びるだろう。来年の春には、在学士官生達もまた新しい制服を仕立ててもらうのだ。
* * *
毎日夜0時に次話更新です。




