Example 2-32
僅かに手を一瞬だけ握り返されて、オーウェンは顔を上げた。うとうとしていて膝に乗せいていた大きな医学書が今にもずり落ちそうだった。
「……目が覚めたか。」
少し枯れた声だった。バスカヴィルのまぶたが震えたのを見て、オーウェンはその手の上から自分の指をどけた。ニコライが見つけた日から一日、バスカヴィルは目を覚まさなかった。心配をした友人二人とハワード、さらに父親もパーシヴァルも一度見舞いに来た。履修している講義の教官の中にも、何人か彼の様子を心配して見に来ていた。
「オーウェン君、大丈夫かい?」
教官棟の中に入っている医療室のヘッドを務める男性に、ぽんぽんと肩を叩かれた。
「ええ、大丈夫です。」
アンソニーから話を聞いて、いても立ってもいられずにここに来た。その頭脳の優秀さのおかげで、いくつかの講義はありがたくも公休をいただいてしまった。寝ずに看病を続けたオーウェンの顔は少しやつれて、父の顔に僅かに近付いている。
「性暴行によるショックと極度の体力消費。まだ秋とはいえ冷えた夜に暖房一つない更衣室で、推定数時間放置された事による体温の急激な低下。その他にも……。命の危険がなかったとは言い難い状況でした。」
「暴行した士官生は?」
オーウェンは首を横に振った。ニコライにいくらか話を聞いたが、相手を特定するまでには行かなかった。
(いや、あの顔は知っているが話さなかったのだろうが。)
恐らく、被害者であるバスカヴィルに話す意思がないなら、ニコライも話す気はないのだろう。
「おー、うぇん……さ、ん。」
ずっと手を見ていたオーウェンは、その絞り出された声でバスカヴィルの顔に視線を移した。
「ここは医療室だ。ニコライが貴方をここに運んできた。」
黄昏色の瞳が周囲を視認すると、バスカヴィルはゆっくりと上半身を起こそうとした。
「待て待て待てまだ早い! 先生、水を持ってきていただけませんか。」
患者の体をベッドに押さえつけて、オーウェンは腰を浮かせた。後ろで白衣が去っていく風が起こると、呆れたようなため息を吐いてオーウェンは長い足を組んだ。
「全く……。」
頼んだのとはまた別の軍医が水をサイドテーブルにそっと置いて去っていった。飾り気の欠片もないそのグラスは人肌の暖かさがある。
「飲みなさい、喉がカラカラだろう。」
差し出したグラスに対して、バスカヴィルが上げようとした腕は震えていた。丸一日半と食べていなければ、点滴を打っていても腹は減る。
「なにか流動食を——」
ぐい、と上に羽織っていた白衣を引っ張られ、オーウェンは立ち上がろうとしたところを引き戻された。コップの水を飲み干したバスカヴィルは既に人の手も借りずに起き上がっていた。
「バスカヴィル! 寝ていろと言っただろう!」
「寝てなんていられません、すぐに講義に戻らなければ……。」
患者服姿のバスカヴィルは、口端から滴った水を手の甲で拭った。
「馬鹿な事を言うな昨日丸一日と寝ていたんだぞ。そんな状態で講義に出たってなにも頭に入らないだろう! 教官には公休にしてもらっている、安心して今日一日は休みなさい。」
まるでもう既に自身が中将になったかのようにも錯覚した。オーウェンは無理矢理ベッドにバスカヴィルを押し戻す。更になにか抗議しようとしたバスカヴィルだったが、からからと車輪の音が聞こえて言葉を飲み込んだ。看護師が食事を用意してきたのである。
「ほら、これでも——」
「お、オーウェン君、多分目を一瞬でも離さないほうが……。」
振り返って食事の用意を手伝おうとしたオーウェンは、その声でまたベッドのほうを振り返った。もぬけの殻だ。どこに行ったのかと思えば、部屋の隅にあった士官生制服を既に羽織っている。
「バスカヴィル!」
怒鳴るオーウェンを見て苦笑しながら看護師は食事を置いてまた別の病室へ朝食を運びに行った。バスカヴィルと言えば、先輩でも師の子息でもあるオーウェンの怒号に見向きも驚きもせずに着々と着替えている。
「いい加減にしろ! 一体何人がお前の事を心配したと思っているんだ!」
「だれがどんなに心配しようが私に関係はありません。」
今にも動悸がしそうだった。徹夜明けで思考が鈍っているのは分かっていたが、取り敢えずバスカヴィルを真っ先に休ませなければいけないという使命が、今までの医療知識と経験から湧き上がっていた。つかつかと寄っていって拳で殴るか張り倒すかぐるぐると選択肢が頭の中を縦横無尽に曲がっていたが、バスカヴィルが見せた薄っすら青白いうなじに思わず足を止めてしまった。
(……。)
強姦された青年相手に一瞬思いやりの欠片もない思考が浮かんだ。息が震える。あのうなじや肌を弄った男は一体どんな気持ちになったのだろう。なぞろうと上げた手で、慌てて眼鏡を掛け直した。
「……分かった。出てもいいが、せめて食事はしっかり食べてからにしなさい。」
返答も聞かずにオーウェンは足早にその場を去った。白衣を専用の洗濯かごに放り投げて医療区画を後にする。
(一体なにを考えているんだ僕は!)
正直眼鏡を床に放り捨てて踏みつけたい気持ちになった。自分に対する苛々とバスカヴィルに対する言い知れぬ感情と、病状に対する労り、徹夜による疲労の自覚と、回らない頭で読んで理解出来なかった医学書の内容への憤りと諸々の感情がすっかり体力的にも擦り切れたオーウェンを襲った。今に倒れてもおかしくない。
「あ! 兄ウェっ!?」
身長が自分より低いとはいえそれなりの体格の弟に真正面からぶつかって、オーウェンは思わず床に腰を打った。眼鏡が反動でずれる。
「あ、兄上! 大丈夫ですか!?」
「すまない、考え事を……。」
片腕で助け起こされて、オーウェンは自分の非力さを感じた。ハワードのもう片方の腕には黄色を基調とした花束が抱えられている。
「ヴィルの見舞いに行こうと思ったんですけど、兄上がここにいるって事は……。」
「恐らく病室で朝食をとっている筈だ。そうだと良いんだが……。すまない、私は今日はもう休ませてくれ。」
すれ違いざまにぽんぽんとハワードの肩を叩いて、オーウェンは自身の寮室へ足早に去っていった。
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