Example 2-20
揃えてあげよう、と言われたその日に、晩餐の前にバスカヴィルが部屋に戻るともう一式揃っていた。お召し替えを、とドロシーが言うので、バスカヴィルは言われるがままに服を脱いだ。
「……貴女は、異性の体を見てなんとも思わないのですか?」
無言に耐えきれず、思わずバスカヴィルは尋ねた。女の前に肌を晒すのは、思い返してみればこれが初めてだった。
「小さい頃の坊っちゃま達のお着替えを奥様から仰せつかっておりましたので。幼年学校の上級学生になるまではずっと身の回りは私がお世話をしてまいりました。」
「そうなんですか。」
幼年学校の上級学生と言えば士官学校に入る二年前くらいである。人間の体がよく変化する年頃ではあるが、そんな年まで二人の身の回りを世話していたのが女性だというのは、少し驚いた。
「まあ、ハワード坊っちゃまはやんちゃでいらっしゃったので私も苦労させられる事が多かったですが……。」
「手慣れているので驚きました。ジャケットの渡し方とか。」
その時、ドロシーは漸く口元を緩めた。
「この十数年間、坊っちゃま達のお世話ばかり仰せつかっていたので、逆に夫人や令嬢のお手伝いの仕方を忘れてしまっています。もう後輩達に教えた後ではありますが、私もきちんと覚えておかないと欠員が出た時に大変な事になりますので。」
十数年、とバスカヴィルは眉を上げた。目の前に姿見を差し出され、初めてホワイトタイを纏った我が身を見た。
「よくお似合いです。AURORAに今日まで数日で誂えていただいた一品ですので、着れなくなるまで大切にお使いください。」
「なに? この服はAURORAが仕立てたのですか!?」
ドロシーは驚いて大声を上げたバスカヴィルを見てくすくすと面白げに笑って見せた。成程、彼女はリヴィングストン家の夫人のお付きであっただけあって、ROZENの事情をよくよく知っているようだった。
「奥様もドレスも全てAURORAに仕立てていただいておりました。今度お時間があれば、ご主人様の許可を得てお見せする事も出来ます。」
「なんだって……?」
リヴィングストン家が親皇帝派である事はよくよく知っていたが、まさか五大財閥の、しかも首魁であるAURORAとそこまで密接に関わっている家だとは思いもしなかった。軍人であるにも関わらず、とバスカヴィルはその生地を興味深げに見つめた。
「ドロシー、ご主人様のお着替えがそろそろ終わるそうよ。」
扉の向こう側からそのような言葉が聞こえてくると、ドロシーは失礼します、と一礼して姿見を下げた。
「ダイニングルームまでの行き方はご存知でしょうか。」
「いえ、まだ案内はいただいてません。」
かしこまりました、とドロシーは扉を開けた。バスカヴィルは先に出て、ドロシーを伴って廊下を歩き始める。
「後で屋敷の間取り図を手配させます。持ち出しは厳禁ですので屋敷内でのみご使用下さい。」
壁にかかった燭台の蝋燭が、すれ違うたびに揺らめく。
「ありがとうございます。あ、あの……。」
ダイニングルームの前に到着すると、バスカヴィルは踵を返そうとしたドロシーに声をかけた。
「ドレスの件ですが、もしよければ都合のいい日にでも……。」
「……かしこまりました、ご主人様にご伝言致します。」
ドロシーの姿が廊下の角に消えていくのを見送って、バスカヴィルはダイニングルーム開いた扉の前で待っている使用人のほうへ振り返った。アンソニーに休暇を誘われてから縮こまっていたばかりに、ホワイトタイを纏った事への自覚がふつふつと湧いて、胸を張った。
(しっかりしなくては。)
ダイニングルームの人影は一つだった。オーウェンが椅子に横向きで座りながら、縦長のメニューが書かれた短冊を読んでいた。
「まだ兄君だけですか?」
はっとオーウェンはメニューから顔を上げた。隣についていた使用人にメニューの束を押し付け、立ち上がる。
「ハワードは少し時間がかかるので。」
どうぞ、と向かい側の席を示して、オーウェンもまた自分のいるべき場所についた。皿とナフキンが用意されていくさまを脇目に、オーウェンは手を組んでテーブルの上に置いた。
「……何故ROZENに来られたのですか? 争いの種になると、聡明な貴方ならご存知の筈だ。」
壁に掛けられたボタニカルアートを一通り見て、バスカヴィルは席に着いた。
「そういう運命にあるのだと思ったからです。」
「それが、帝室に代々伝わる神の定めたものですか。」
オーウェンは帝室に対して博識だった。
「そうかもしれませんが、私は自分でその運命に従う事を選びました。」
「ではゆくゆくは元帥に……父の後につこうとお考えですか。」
そうですね、とバスカヴィルは瞳を僅かにまぶたで覆った。その黒いまつげが、少し痩せた頬に影を落とす様が美しく、オーウェンは若干たじろぎつつもじっと見つめてしまう。
「私はROZENをあるべき姿に戻したいと考えています。」
真っ直ぐとした眼差しだが、オーウェンはその瞳に危なげな雰囲気を感じた。いくら聡明とはいえ、王宮と隠居先という温室暮らしの青年は今、政治闘争という陰湿な戦争の前線に立とうとしているのだ。いや、既に立っていた。その危険性は計り知れない。オーウェンは幼い頃からその恐ろしさを植え付けられた。彼の父親であるアンソニーも、ハワードも等しく。
「美しいですね、貴方は。」
その美しさのままではきっと生きていけないだろう。その内、翅をもがれて醜く変貌してしまうか、運が良ければ美しさのまま蛾のような毒々しさを纏うに違いない。
(僕はこのままで良いのだろうか。)
オーウェンはじっと見つめてきた視線から瞳を逸らした。自分も彼のように、父親が示した運命に従うべきなのだろうか。
「お待たせしまし……ってあれ? 父上は?」
「まだいらっしゃってない。……セーフだったな。」
ハワードを迎える為に立ち上がったつもりだったが、オーウェンはその肩の向こうへ辞儀をした。ハワードが上を見上げると、若干背の高い父親がその両肩に、ぽん、と手を置いた。
「相変わらず着替えが遅いなあお前は。」
「セーフ! セーフだよ!」
逃げるようにオーウェンの隣に駆け寄って、ハワードは軍人のように胸を張って肩をいからせた。アンソニーが最も上座の椅子の前に立つと、使用人が四つの小さなグラスを持ってやってきた。持ち手にはドラゴンがとぐろを巻き、葡萄の房が描かれが揃いのものだった。
「本日の食前酒は一七六一年製の我が屋敷で熟した林檎酒です。」
「殿っ……ヴィルが生まれた年のワインだ!」
晩餐を用意したオーウェンが林檎酒を紹介するや否や、バスカヴィルはハワードがはしゃぐ言葉よりすぐ隣で一瞬沸き立った殺気のようななにかに身を竦ませかけた。アンソニーがきっとオーウェンを睨んだのだが、オーウェンは涼しい顔でグラスに酒が注がれるのを見ていた。
「……。では、新しくバスカヴィル君を迎えての夏季休暇だ。なにかしたい事はあるかね?」
四つの各々のグラスに林檎酒が満ちたのを確認して、アンソニーは少し感情の抜けた顔でグラスを持ち上げた。ハワードが威勢良く挙手する。
「はいっ! ヴィルと仲良くなります! あっ、あと今度あったらヴィステンバッハのガキを——」
「支部中将試験に向けて勉学に励みます。」
オーウェンはバスカヴィルの番を促した。
「……家庭というものを、学びたいと思います。」
一つの目標だった。行く行くは自分も妻を娶り子供を育む立場になるとして、バスカヴィルにはその完成されたモデルケースを見た事が一度もなかった。パーシヴァルが伝えた貴族としての男、軍人としての男、そして父親としての男の三つの像は未だ離れてバラバラのままだ。
「成程……。では私は一層節制と教育に励むとしよう。乾杯!」
グラスを高く掲げた後、食前酒を一気に飲み干す。甘く、柔らかい味だった。炭酸性はなく、林檎以外には蜂蜜の溶けるような味があって、シナモンのスパイシーさが少し後から来た。
「今年の夏は暑いので、前菜にマッシュルームのマリネ、スープは村の畑で取れた枝豆の冷製スープ、パンは少し酸味のあるバゲットを。メインディッシュには焼いた後に常温に戻した牛の赤身肉のカルパッチョにいたしました。カルパッチョのドレッシングはパンにつけていただいても美味しくいただけます。」
「流石兄上、考えてる!」
バスカヴィルは手元にあったメニューを開いた。端正な字が並んでいる。飾り気はないが繊細で神経質なイメージがあった。決して貧相という訳でなく、引き締めた上で質素で、誠実な文字だった。
「生真面目な文字を書かれるんですね。」
カンバスのように少し凹凸のある紙の上を撫でるバスカヴィルは、とても愛おしそうにも見えた。
「そう……ですか。あまり自覚はありませんが、速筆でカルテを書くのでだれでも読めるような文字にするよう心がけています。」
文字を眺めるその顔はあまりに大人びていた。人を品定めするような、文字から人格を見透かすようなその表情をどう表現すべきかオーウェンは迷った。
(これは蛾に化けるほうだ。)
それだけは確信出来た。それ以上の事は、考えられなかった。
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