Example 2-16
一年前期の終わりが見えてきた。夏の暑さが傾くどころか勢いを増し、やがて汗を拭いながら士官生達は試験期間の後の夏期長期休暇を迎えた。士官生達は勉学という拘束を忘れたかのように両手を上げて荷物を整え始めていた。
「私はロシアの実家に帰るが……。」
ホールの中央に置かれた巨大な氷の柱も汗をかく午前の終わり。アイスクリームにありついたバスカヴィルは、ニコライにそう答えられた。
「やはりそういうものなんだね。」
上期試験の最終科目で一緒になったガウェインに長期休暇の過ごし方を尋ねると、友人と共に別荘で避暑に励むと言う。ニコライも以前から聞いていた通りの答えが返ってきたので、バスカヴィルの予想のままだった。
「ヴィルは、何処に?」
「クラヴェが持っている屋敷が一つあってね。そちらで過ごそうかなと思うよ。」
成程、とニコライはバニラアイスをすくった。どこにも行かないのならせめて自分の家に誘おうと考えていたが、行き場所があるのならそれで十分だった。
「出発は?」
「今日の最終寝台電車に。ここからロシア地域は少しかかるから。」
昨日の時点で既にニコライはトランクを広げていくつかの荷物を詰めていた。一時帰宅程度の少ない荷物なら今日中には終わるだろう。
「そう。じゃあ私はもう寝てるかな? 気を付けて。」
「ヴィルも、休暇を楽しんで。」
ニコライはまだ試験があった。なんでもロシア支部に入るのに必須の諜報に関する試験らしく、毎期、試験期間の最終日に行われるらしい。実技試験の為、予習の必要性も特になかった。
「そろそろ行く。」
皿をバスカヴィルのほうに押し付けて、ニコライは颯爽と立ち上がった。風のように身を翻して、その筋肉質な痩躯はやがて扉を埋め尽くす夏の白い輝きの中へ消えていった。
* * *
翌日、ニコライのベッドはもぬけの殻で、どうやら窓から出ていったらしく真夏の朝日が部屋の空気を圧迫していた。バスカヴィルはその暑さに耐え切れずベッドから這い出した。夢見は良かったが、空気の回らない寮室で寝起きは最悪だった。
(さて、どうしようか。)
休暇は既に始まっていた。試験を既に終えた士官生の多くは皆、昨日か今日の朝早くの汽車で目的地を目指している。今頃は車窓を脇目に旅路を楽しんでいる事だろう。バスカヴィルは朝支度を済ませると、久しぶりの私服に身を包んでクラヴェーリの部屋を目指した。スカイブルーのワイシャツに紺色のクロスタイ、ライトグレーのスラックスとダークブラウンの革靴という出で立ちだった。
(暑い朝だな……。)
最も北に面する直轄領のほうが涼しい夏だろう。だが、冬は確かに厳しい。バスカヴィルは久しく踏んでいない直轄領の四季を思い出した。もうすっかり緑が美しい季節だろう。寮棟の外に出ると、人はまばらだった。のんびりと過ごしている、どちらかというとノンポリ的な士官生達が、教本や図書館で借りた書籍を脇に抱えて朝のまだ涼しい時間を楽しんでいる。バスカヴィルを見るとやはりドキリと目を大きくする青年が多いが、それでも彼らは会釈を僅かにして気恥ずかしそうに去っていくにとどまった。小走りする彼らへ会釈を返しながら、バスカヴィルは相変わらず見事な黒髪を暑さにうねらせながら歩き続けた。
気まずそうに、クラヴェーリは外に出る気もないラフなシャツ姿でうなじをかき始めた。このような展開になるのなら始めから喋っておけば良かったという気持ちと、こういう展開にならなければ喋らなかっただろうという気持ちが半々だった。
「そう……か。」
とても残念そうなバスカヴィルの顔が一瞬浮かんだ。
「いや、私が悪かったよ。そこまで考えが至らなかった。」
「オレも、言ってないし……。」
つまる所、バスカヴィルは帰る場所をついに失ったのである。
「その……売った理由は学費を出す為で。外部生って首席だけ全面免除だから……。」
クラヴェーリが以前所有していた屋敷は、クラヴェーリ自身が自らの学費の為に売却した。彼は追試験を受けて、全外部生の中で三位の成績に落ち着いた。三位までなら士官学校内で発生した生活費などは全て免除されるが、学費だけは免除出来なかった。
「……クラヴェは休暇はここで過ごすのかい?」
「そのつもりだ。ここで過ごすなら一切金かからないし。」
屋敷を売った金で全年度の学費は賄えた。が、手元に残った金はそう多くはない。士官生として給料が出るとはいえ、クラヴェーリは手を付けたくなかった。
「ごめん、言えなくて。オマエがそういう顔するの分かってて……。」
「構わないよ。今更、帰る場所の一つや二つなくなった所でくよくよしていられないしね。」
じゃあ、とバスカヴィルは会話を打ち切って、クラヴェーリの寮室の前を離れた。虚勢を張っては見たが、やはり心労は計り知れない。ぐるぐると頭の中で考えてもいない思考が空振り続けている。
(どこか、気分を紛らわせられる場所が欲しい。)
無意識に左胸を抑えた。休息が取れないという事実に直面して、バスカヴィルはふらふらと外に出ていく。家を持つにも、バスカヴィルはクラヴェーリ以上に財産がなかった。いや、今年から出る年棒がなければ、彼は既に無一文だった。ふと視界に売店が入って、バスカヴィルは朝からなにも食べていなかった事を思い出す。なにか取り敢えず口にしなければ、とふらふら売店へ近付く。
(情けない、たかだか家を失っただけで、私には寮室というものがあるというのに……。)
世の中には金も家もなく外で寝て暮らしている人間はごまんといる。スラム街に立ち入った事はないが、話を聞くに劣悪な場所で何人も死んでいく子供達がいるのだ。
(それに比べたら私など…私、など——)
「おや、バスカヴィル君。ニコライ君と共に昨日発ったのではなかったのかね。」
それはよく耳に馴染んだ声だった。慌てて汗をハンカチーフで拭って振り返ると、ソフト帽にツイードジャケットといういかにも学者風の姿をしたアンソニーがステッキをついて立っていた。
「てっきりロマノフスキーの屋敷の世話になるのかと思っていたが違うのか。休暇は何処で過ごすのだね?」
「あ、いえ。今年は特に行く場所もないのでここで過ごそうかと。」
斜め後ろについてきていた部下に旅行鞄を渡して、アンソニーはステッキを行儀よく振り回しながらつかつかとバスカヴィルに近寄っていった。
「いや、ロマノフスキーの家で世話をさせてやれと言ったのだが……?」
「それは、……断りました。」
アンソニーは青みがかったグレーの目を丸くした。このままではニコライの面目が丸潰れだと、バスカヴィルは慌てて付け足す。
「いえ。ニコライには行く当てがあると伝えたんですが、その当てが外れまして。」
「あぁ、成程。」
彼は控えめだからなあ、とアンソニーは納得したように髭を撫でた。
「その行く当てとやらは結局どうなったのだ?」
「友人の家だったのですが、金の工面の為に既に売却してしまって、友人も行く当てがないのです。」
聞いているうちに、アンソニーはピンと来た。その友人とやらは、恐らくパーシヴァルがたまに話してくれた海苔色の髪のスペイン青年の事だろう。しかし、アンソニーはその友人自体と面識がなかった。ステッキを抱えて顎に手を置いた。
「……仕方がないな。こんなところで一ヶ月と独りで過ごしていては脳がツルツルになってしまう。私の屋敷に来なさい。」
「はい?」
思わず聞き返した。無礼だと知っていてなお聞き返さずにはいられなかった。
「だから私の屋敷に来なさい。ここからならイングランド地域も近いものだ。私の息子二人もきっと歓迎してくれるだろう。ああ、妻はもう鬼籍に入ってしまっていて男所帯だが良いかね? 君のような美貌に見合う娘はいないのだが。」
「あ、いえお嬢様は別に……。ですがよろしいのですか、閣下の屋敷になどお邪魔して。」
アンソニーは腕時計を見た。
「なぁにを言っているのだ。君は軍人の休暇の過ごし方に対して知見が乏しいだろう。こういう時は言葉に甘えて学びにきたまえ。ではバスカヴィル君、あと一時間で支度をしてプラットフォームに来なさい。時間きっかりに頼んだよ。」
返事を待たずに、アンソニーは再びステッキを愉快そうに振って正門の方向へ歩みを始めた。
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