Example 2-14
目が冴えてしまっていた。ニコライの隣のベッドに輝く僅かな反射光が艶のあるまぶたで遮られないまま針は日付を超える。
「寝ないの。」
闇夜に煌々と輝く夕焼けがニコライの方を向いた。
「ROZENには金がないらしい。」
天井に目を凝らせば僅かな無数のヒビが目に入る。寝返りを打つだけでベッドはギシギシと音を立て、鎧戸を閉じなければ寒空に冷やされた風が隙間から入ってきた。天から釣り下がる明かりもなく、夜の帳の中で頼りになるのは部屋を暖めるには小さすぎる簡素な暖炉、二つのベッドサイドのオイルランプと移動用燭台だけだ。
「まだこの時期でも、部屋が寒いからマシな談話室で勉強する士官生のほうが多い。問題と言えば問題かもしれない。」
「談話室は勉強ではなく交流する場所の筈だ。早いところ改築しないと、寮棟がオンボロ屋敷になってしまうよ。」
果たしてその改築が自分の在学中になされるのか、バスカヴィルが慮れる限りでは見当がつかなかった。
* * *
外部生に名を連ねるバスカヴィルとクラヴェーリの一年が忙しくなりそうなのは、大体一週間講義を受けただけで分かってきた。
「ガウェイン! 久し振りに会えて嬉しいよ!」
「殿下。」
しかし、その忙しさを感じた一週間が単調なわけではやはりなかった。五日目の講義を受けるのに教材を机に出していたクラヴェーリは、突然隣で立ち上がったバスカヴィルに若干仰け反った。
「そうだ、もう殿下などと呼ばないでほしい。私はただの士官生なのだから。」
見事な輝かんばかりの白髪は相変わらずすっかり短く整えられていた。
「そういえばどうして髪を切ってしまったんだ。」
「今のご時世、短髪こそが軍人の習わしですので。」
背丈は大体バスカヴィルと同じくらいであった。しかし打って変わって彼よりがっしりと均整の取れた体格は軍人にこそ相応しいものである。
「私の髪より貴方が切らなかった事に安心しました。軍人だからとばっさり行ってたらどうしようかと。」
クラヴェーリを挟んで、ガウェインは同じ机に鞄を置いた。
「へえ、オマエがあのバスカヴィルを怪我させたっていう……。」
「痕は残っていないから本当に気にしないでほしいよ。」
自らを挟んで喋りふける二人を置いて、クラヴェーリは階段教室の上を見上げた。いつの間にか人が増えている。それが、前回の講義よりもだ。
「……随分といるな。」
「最近噂で一杯ですよ。皇太子が外部生として初期講義を受けているのに対して。」
ほお、とバスカヴィルは感心したように呟いた。つまるところ、バスカヴィルの講義の態度だとか、ROZENの知識だとかを興味津々で、もしくはあげつらう為に内部生の一部がやってきたようだった。
(ああ、成程。)
ガウェインは目を細めた。父親譲りのふさふさの巻き毛は否が応でも目立っている。冴え冴えとしたサファイアの瞳、隠しきれない悪徳の微笑みはまさに五大筆頭家の女狐と呼ばれるロッセル家の名を冠するに相応しい青年だった。
「随分な奴に目を付けられましたね。」
クラヴェーリを越えてガウェインはバスカヴィルへ頭を寄せそう囁いた。随分な奴とは言ったものの、この皇太子を辞退した男ともなれば五大筆頭家全員に目を付けられているのは自明の理だった。バスカヴィルが僅かに振り返ると、ロッセル家の次男らしき青年は人懐っこそうににこりと微笑んだ。
「ロッセル家の次男坊です。入学初日のパーティで団子になってるのをたまたま見かけたので覚えてますよ。」
入って来るや否や、教官はぎょっとした顔で突然増えた人数を見つめて、その中にロッセル家の次男を認めると僅かに会釈した。果たして教官の瞳にロッセルの美青年はどう映っただろうか。軍という男臭い環境の中では一輪の瑞々しい水仙のように見えたかもしれない。
「え、えーっと? それでは講義を始めても……よろしいでしょうか?」
吹き出しそうになるのを堪えながらバスカヴィルは眉根を上げて困惑気味に教材を開いた。先日から続いて、この講義ではROZENの歴史を重点的に扱っていた。前身となる少人数の皇帝親衛隊から、皇帝が所有する兵力となり、組織となる過程を追っている。
「えー、では中世の教育面からですね。教科書の五十四ページを開いて下さい。当時もまだROZENには現在のような教育機関はありませんでした。基本は家の中で父親が息子に軍事学や武具の扱い方を教えます。帝國の直轄領土は一〇〇〇年までは現直轄領までしかありませんでしたが、この頃になると現ロシア地域の中央までを手中に収めます。ロシア地域の人間で親衛隊に入ったのは——」
バスカヴィルは士官学校の様々な講義を受けるにあたって、大体三種類くらいの教官がいる事が分かった。今講義をしている講師は、その内の一種類に分類される。つまるところ中庸的な教官だった。ROZEN史をメインとした帝國史を学ぶにあたって、彼は極端な物言いをしない。皇帝と言えるところを帝國といい、ROZENと言えるところを悉く軍と言ってきた。二種類目はパーシヴァルのような教官だ。皇帝は皇帝と言い、ROZENはROZENと言う。バスカヴィルからしてみると最も正統な言葉の使い方だ。三種類目は、皇帝の事を帝國ともいうが大体をROZENと言うような不遜な教官である。
「さて、十六世紀の半ばくらいになりますと、ROZENには帝國の要望で軍事学校が作られます。設立当初の士官学校は直轄領に校舎が存在し、現在のこの校舎は十七世紀あたりに完成しました。名実共に直属軍事機関であるROZENが出来上がりました。現在ROZENには二つの体制が存在しますね。どうですか? バスカヴィル。」
「はい、通常政治と非常事態政治に与する軍事面の二つの軍人が存在します。」
教官は納得のいく答えににこりと微笑んだ。
「その通り。十六世紀半ばまで、皇帝親衛隊に必要なものは軍事的知識のみで、政治は全て側近機関NELKEが滞りなく行ってきました。しかし帝國領土が広がるにつれ、そして文明が発展するにつれ政治職務の量は膨大なまでに膨れ上がり、NELKEのみでは裁き切れなくなった。」
黒板に描かれた円に囲まれたNELKEという文字が教鞭で示される。
「こうして、帝國はNELKEが受け持っていた大部分の政治的職務を親衛隊に分ける事にした。これによって親衛隊の隊長とエリート隊員達は、ROZENには武だけではなく文としての知識も必要とされている事を知り、軍事学校が作られ、ROZENという、政治と軍事の二つの領域を兼ねる直属組織を作り上げたわけです。」
「先生、よろしいでしょうか。」
質問の為に手を挙げたガウェインに、教官は頷いた。
「この頃のROZEN……もとい親衛隊は支部を持っていたのですか?」
「良い質問ですね。明らかに支部となる物は持っていません。なぜなら、ここまでに出てきた親衛隊とはご存知の通り家が任意で、それに世襲で帝國に直接仕える騎士制度を取っていたからです。ですが逆に言えば、その家は当時の帝國領土の各地に散らばっていた。これが、当時の帝國が親衛隊に政治的職務を譲り渡す原因の一つとなり、現在の支部体制に移行されるというわけです。」
これか、とバスカヴィルは目を細めた。ROZENの全指揮権が元帥に渡った原因はROZENそのものの設立だとは知っていたが、領土拡大と文明発展による政治権の委譲が大元の原因になったのだ。
「先生、親衛隊の頃からあった家の世襲伝統はROZENでもやはり長らく根付いていたのでしょうか?」
バスカヴィルの質問に、教鞭をたたみながら、ふむ、と教官はため息をついた。
「根付いていた、というより現在も存在する、と言ったほうが的確でしょう。今でも軍人の多くは当時の親衛隊の家が圧倒的多数です。リヴィングストン元帥閣下もそのうちの一つ、その前のヴィステンバッハ閣下もそうです。」
元親衛隊の家柄の軍籍占有の実態は、バスカヴィルが思っているよりも根深かった。
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