Example 2-13
本部官僚元帥や将軍が軍事学校で士官生を教える、という年はなかなかなかった。あるとすれば、それは特定の人間に対して期待がある時くらいで、そう頻繁に起きる事象ではなかった。
「おや君、私の講座では見な——」
本部元帥が教鞭を取ればなかなか噂が立つものだが今年度ばかりは違った。あの皇太子が入学したとなれば噂どころではなく最早暗黙の了解である。アンソニーやパーシヴァルが教壇に立つ事に対して上から下までだれも反論出来なかったし、する事もなかった。
「こんにちは元帥閣下。」
水曜日の四限。見慣れない黒髪に声をかければ振り返った顔は美貌だった。男とは思えぬ睫毛の長さ、残された艶やかな黒髪が縁取る血色の良い肌には、真珠のような煌めきがあった。
「お、おお。君は流石に私の講座に履修登録していなかったのでは……?」
「ええ、ですから聴講しに来ました。」
シルクのような滑らかで穏やかな声に、どうぞ、と言われてアンソニーは壊れかけたロボットのような足取りで教室の中に入った。
「……おはよう諸君!」
アンソニーは他の教官に比べて五分早く教室に入る人間だった。理由は、生徒を驚かす為だ。挨拶されて驚いて立ち上がり始めた士官生達に、アンソニーは、まだ座っていたまえよ、というのが楽しかった。
(いやしかし、彼らより驚いたのは僕だよ……。)
バスカヴィルは遠慮がちに、いや始めからそう決めていたかのように一番後ろの端の席に荷物を置いた。講座名は経理・会計入門一である。教材を配っているうちに五分が経ち、アンソニーはなるべくバスカヴィルを視界に入れないように生徒達のほうを向いた。
「この講座は経理・会計入門一だ。単位が欲しいが履修登録を行なっていない者は来週までに速やかに行うように。本部支部元帥の試験を受けるにあたって必修講座だ、気を付けたまえよ。異論のあるものは? ……よろしい。」
畳み掛けるような英語に声を上げる者は一人もいなかった。そして、どうやらだれもバスカヴィルがいる事に気が付いていないようだった。皆五分前に入ってきたアンソニーしか視界になかったのである。
(成程、目立ちたくないと。)
「さて、一年次のガイダンスや受付で耳にタコが出来るほど聞いたかも知れないが、これは経理だけでなく会計に関する講座だ。将軍以下の人間は経理のみの講座がある。経理と会計の違いが分かる者は?」
しん、と静まり返った教室の中では誰一人として挙手する者はいなかった。
「なんだ、君達のお父さんとお母さんは経理をしていないのかね。私は義務付けている筈だが……まあいい、じゃあ君そこのダークブロンドの。そうそう、当て勘で違いを行ってみなさい。」
当てられた不運な士官生は立ち上がった。
「え、えと、経理は……お金を管理する事……。」
「どういう風に?」
しどろもどろになって隣の友人に視線をやったが、友人は視線を逸らした。
「ではそこの視線を注がれた君。会計とは何だね?」
「え、えーあ……。」
指先で二回教壇の机を叩くと、アンソニーは不機嫌に、しかし満更でもなさそうな顔で二人を着席させた。
「そこの一番後ろの美青年君。会計と経理の違いは分かるかね?」
その尋ね方に今までの厳しさはなかった。どちらかというと挑発的で、それを抑えるように柔らかい。全員の視線が一番後ろに集まった。美青年と言われてその顔を一目見ようとした。ゆっくりと、机に指先をつけながら立ち上がる青年の顔に、表情はない。唇が静かに開いた。
「経理とは、帳簿にその日の金銭の出し入れを全て記録する入手管理の業務です。請求や支払いもします。会計は、経理を含めた資金の管理の全体を行います。」
「素晴らしい。では財務は知っているかね?」
バスカヴィルは視線を逸らした。
「財、務は……。」
周囲が息を呑む。答えられなければなにがあるというわけでもないが、彼が答えられるかは、ROZENの人間達にとっては娯楽だった。
「財務は……、分かりませんが資金繰りをする業務でしょうか。会計が提出した決済書から当面の資金計画を立てる業務、かと……。」
「よろしい、座りたまえ。」
言われるがままにバスカヴィルは席についた。アンソニーが黒板の方へ向くと、僅かな囁きが耳につく。黒板がチョークによって三つに分割された。
「では教本の六ページを開きたまえ! 経理とはまさに帳簿に日々の出納を記録する事だ。あらゆる帳簿に該当するあらゆるものをつける。これはROZENにおいてどの部署でもつきまとう。尉官以上の者は必ずここで使う複式簿記を身に付けてもらわねばならない。複式簿記はこれから君達が習う第一の壁だ。」
カッカッとチョークの音が教室に響く。
「次に会計! これは経理の作った帳簿を元に金勘定をしたり管理をしたりする。経理の日々の業務が間違っていないか、会社にとってその出納はどういう動きをしているのか。ま、小企業までなら経理がやる事もあるがね。締め日に忙しいのが会計だよ。貸借対照表や損益計算書を作成するからね。」
再びチョークの音が響いた。
「最後に財務だが、バスカヴィル君の言葉は当たらずしも遠からずと言ったところか。確かに資金計画を立てるが、それだけでは資金繰りは出来ない。彼らは社債の発行などをして資金を集めるのが主な業務だ。」
全員が筆を置くのを待って、アンソニーは続きを始めた。
「この話をした理由は、君達が志望する元帥という役職がどこに値するかだ。我々は会計と財務をする。本部や支部にあるあらゆる部署から上がっている経理の帳簿を全てまとめて決算書、貸借対照表、損益計算書を作成し、報告する。」
アンソニーは何処に、とは言わなかった。が、バスカヴィルは報告する相手に大方の見当がついていた。
「ここ一世紀、私が就任するまでの三代の元帥は最も果たすべき職務を果たさなかった為にROZENの金銭的信用は地に堕ちた。君達にはその二の舞になってほしくないから、元帥という役職が持つ責任の重さをしっかり学んでいってくれたまえ。」
全員が教室を出るまで、バスカヴィルはゆっくり片付けをしていた。
「経理や会計については元々知っていたのかね?」
「え? はあ……まあ、貴族達の話で年度末によく持ち上がるので、おのずと。」
隣の席にアンソニーが座ると、バスカヴィルは少し緊張した面持ちで向き合った。
「君の事だ、こういう講義では質問しづらいだろう。なにかあったら今遠慮なく聞きたまえ。」
「では、果たすべき職務とは何ですか?」
はあ、とアンソニーは肩を落とした。指を組んだ両手を机に置く。
「それはね、会計責任だ。」
少し落ちくぼんだグレーの瞳がバスカヴィルをちらりと見上げた。
「ROZENにとって皇帝とは監査役だ。監査役というのは、その会社が不正をしていないか監視し、調査する身分の者を言う。ROZENの元帥というのは、年度の最後に金をどういう風に使って、どういう財政状況なのかを皇帝に報告する義務を持っていた。だがどういうわけか……いや、全指揮権が元帥に移ってしまってからROZENは報告しなくなった。一世紀……つまり約百回、我がROZENは会計責任を果たす事はなかった。ROZENは様々な裏取引で肥え太り、その金で豪遊をしてきた。私が元帥になった時ROZENはその不正のおかげで汚れた金しかなかった。つまり、持ち金はほぼゼロだ。」
「ほぼ、ゼロ……?」
絶句して、バスカヴィルは周囲に人がいないか確認した。
「ほぼゼロだよ。私は……極端だと分かっていてその汚れた金を全て片付けた。そしてリヴィングストン家の持っていた財産の半分をROZENに寄付した。パーシヴァルの家、ジャルディーノ本家も投資という形で多額の金を寄越してくれた。ROZENは今まで税金のみでやってきたが、その国防費では今までの罪を清算するだけですぐに空っぽになってしまう。ROZENは今のところもうビジネスに手を出さなければもう機関を維持出来ない状況なのだよ。」
毎日夜0時に次話更新です。




