Example 2-9
休日、バスカヴィルとニコライはクラヴェーリの滞在するスフィンクス寮を訪れた。昨夜寮棟群まで帰った後に、次の日の昼くらいから学校の敷地内を巡ろうと約束したのだ。昼食を食堂で食べ終えた後の事である。
「お待たせー。」
士官学校が定めた休日、そして帝國が定めた祝日には学生は私服でいる事が出来た。その他の日は、たとえ自分に講義がなくても寮の外へ行く際には制服を着る事が義務付けられている。クラヴェーリは薄い生地のイエローのワイシャツに、ライトグレーのジャケットと明るい紺色のズボンを履いていた。
「どこに行く?」
「教官棟はどうかな。確か、一部を除いて出入り出来たと思うけど。」
地図を広げるニコライの左右から、バスカヴィルとクラヴェーリが挟み込むようにして顔を覗かせた。
「教官棟の地下にはROZENの成立なんかが分かる博物館があった筈だぜ。」
「他は今後行く予定があるけど、教官棟はあまり機会がないかも。」
地図を閉じて、全員がまっすぐ前を見た。教官棟はこの施設内で一番巨大な建物だった。その大きさはホテル、いやデパートを彷彿とさせる。かと言って極度に華美でもない。ROZENの尊厳こそ守っているが、バスカヴィルが初日に通り抜けた時には美しいアールヌーヴォーの様式が目についた。
「じゃあ、今日はあそこを探索する感じで。」
翌日はなにをしようか、という話をしながら三人は歩き始めた。明後日から講義が始まる為、昨日までは見かけなかった上級生が時たまローブをはためかせて道をつかつかと歩いている。第一、第二教室棟群にある図書館で借りてきた本を抱えている者の姿もいれば、手ぶらで友人と親しげに話している者もいた。
「明日は色んな道を歩くか!」
「ついでに図書館にも入りたいかな。」
上級生達の中には、時々バスカヴィルに会釈する士官生も見られた。三人が会釈し返すと、にこにこと笑ってそのまま歩いていく。
「あの挨拶はどういう意味なんだろうね。」
「馬鹿にしてるのか敬愛なのかさっぱりだな。」
取り敢えず上級生に媚びを売って損はない、と挨拶は続けた。やがて遠くに見えていた建物が首を上げなければちっとも上が見えない大きさになって眼前に現れた。
「でっか。」
「エレベーターがある……。」
視界の半分は建物に遮られていた。中は、士官生が休日であるにも関わらずせかせかと教官や軍人達が歩いている。回っている回転ドアに身を滑り込ませ、巨大な吹き抜けのロビーに出た。豪奢とまでは行かないが、建物の中を照らすのに十分な円形の三段シャンデリアが陽の光を受けて煌めき、その虹色の反射光が大理石の床を照らす。端の二メートルは書くように乳白色の大理石が、その中には金のラインが貼られ、黒と赤の大理石がチェス盤場に敷かれていた。中央には円形の黒い大理石がはめ込まれ、正三角形の赤い薔薇のマークが鎮座している。勇猛・凱旋・名誉・厳粛の四つのモットーがその薔薇を取り巻いていた。
「響くねぇ。」
厳正な静かさがロビーを沈めていて、クラヴェーリの一言もよく響いた。バスカヴィル達以外に士官生の姿は見当たらない。ギリシア式の柱を撫でて、バスカヴィルはロビーの向こう側へ歩みを進めた。一つのブロンズ胸像が立っている。
「アンソニー・リヴィングストン元帥。顔見たことある?」
「私はあるよ。」
カイザー髭と言うには少々サルバドール・ダリ的なとんがった小洒落た髭だった。顔は細く、かと言って長くもなく、背高のっぽな出で立ち。目は鋭く、軍人というよりは少々エンターテイナーな雰囲気があった。
『一七六一年元帥就任。一七四九年士官学校卒業後、英支部軍事少佐、独支部官僚少将、本部軍事中将、本部官僚少佐、本部官僚少将を歴任。』
はめ込まれた真鍮のプレートを読んで、バスカヴィルはもう一度今の元帥の銅像を見上げた。実技試験の時に見た少々子供っぽいはしゃいだ笑みと、それとは別の元帥として威厳のある出で立ち。その使い分けが上手かった事をバスカヴィルはよく覚えている。
「おや君達。こんな所で何をしてるんですか?」
聞き覚えのある暖かな嗄れた声。銅像を見上げていた三人は一斉に振り返った。モノクルをかけ直しながら、パーシヴァルがにこにこと微笑んでいる。片腕に沢山の紙束を抱えていた。
「休日を満喫しているようでなにより。今日は教官棟の見学をしに?」
「はい、校内を散策がてら。」
ニコライとクラヴェーリに視線を向けて、再び歩み寄ってきたバスカヴィルをゆっくりと眺めた。久し振りにこの元皇太子を間近で見た。十五の時に別れて以来、彼の体はすっかり出来上がりつつある。程よく筋骨隆々、それに見合う女性らしくもあり男性らしくもある顔。
「ちょうどお昼も過ぎた頃ですね。私の仕事部屋に来ますか? 少々散らかっていますが、お茶をご馳走しますよ。」
巻いた紙を右手に持ち替えて、パーシヴァルは自分の仕事部屋がある階を指さした。入り口とは反対側の、三階の一室だった。
「将軍閣下さえよろしければ。」
「勿論ですとも。エレベーターでは混みますから階段で行きましょう。」
快く答えて、パーシヴァルはロビーから二階に伸びる階段へ向かい始めた。
「閣下。荷物、持ちますよ。」
「おや、よろしいですか? では頼みましょうか。老体には骨が折れる。」
バスカヴィルが差し出した手に紙束の三分の一が渡された。次にニコライ、次にクラヴェーリが髪束を請け負って、パーシヴァルの片腕が自由になった。
「私の隣の部屋は元帥用の仕事部屋です。本日は多忙の後で寝ていらっしゃるのであまり騒がずに。」
「今年度は本部官僚将校がよくいらしてますね。」
二階に上がりきって三階へ。足を動かしながらニコライはパーシヴァルの隣でそう口にした。言われてみれば、本部の人間は学校が開いている日でも本部で仕事をしている筈だった。わざわざ教官としてスイス地域に足を運ぶことはない。
「まあ、普通の年度ならここにはいないのですが……。」
ちらりとパーシヴァルは斜め左を行くバスカヴィルの顔を見た。話は聞いているようだったが、紙面の内容が気になるようで抱えている紙をじっと読んでいる。
「確かに……。」
真後ろで階段を登っていたクラヴェーリは僅かに笑った。たとえバスカヴィルがどんなに王宮から離れても、彼が皇太子であった事に変わりはない。もし彼になにかあった時、非難を真っ向に受けるのはROZENだった。王宮という最大の鳥籠から放たれた時点で、バスカヴィルは最早歩く火薬庫だった。
「それでも賭けるんですか。」
「賭けなければ何事も始まりませんからね。……さ、ここですよ。」
湿った話を打ち切って、パーシヴァルはポケットから、あてがわれた教官室の鍵を取り出した。ガチャッと重い音が鳴ると、扉がゆっくりと向こう側へ開いていく。少々散らかっているとは言ったが、彼の教官準備室は小綺麗だった。落ち着いた赤のペルシア絨毯が敷かれ、扉側には軽めの雰囲気の、装飾がふんだんに掘られた広いデスクが置かれている。向こう側の扉には白いシンプルなレースカーテンが二段になって降ろされていた。部屋の中央には低めのデスクと揃いの低いテーブル。その向こう側には絨毯と似た赤一色の三人がけソファーが置かれていた。
「そうですね、抱えている書類はデスクに置いておいて下さい。並べて置いてくだされば順番や向きは気にしませんよ。さて、紅茶を用意してくるのでどうぞ座っていてください。」
鞄をポールハンガーにかけると、パーシヴァルは手のひらを合わせながらデスクを超えて向こう側にある簡易キッチンへ姿を消した。
「……バスカヴィル、さっきからなにを読んでるの。」
紙の束を置いたかと思えば、バスカヴィルは読んでいた最初の一枚をぺらりと捲って別の紙を読み始めた。
「このプリント、多分オレ達の最初の講義で使う奴じゃねぇかな。」
「基礎軍事学……? 私は免除されてる。」
ぽんぽん、と紙束の上を叩いて、クラヴェーリもまた座ろうとしないバスカヴィルの方へ視線を注ぐ。士官学校には、大きく分けて二つの学習ルートがある。一つは、幼年学校の課程を全て終了した者の為のルート。彼らは基本的な講座を全て免除され、最初から応用的な講座の必修を受ける事が出来た。もう一つは、全くの外部から入学してきた者、もしくは幼年学校を中退したか転校して卒業した者の為のルート。
「リヴィングストン閣下時代の年表?」
「私のはROZENの組織図だよ。」
そう言ってバスカヴィルは紙を置いた。青い線で彩られた粗い紙面の上には、様々な役職や部署が書かれている。
「最近のROZENは随分と複雑化してますね。」
バスカヴィルは声を張り上げた。同じ空間にいるニコライとクラヴェーリだけでなく、パーシヴァルにも声をかけたのだろう。ちょうどお湯が湧いて、ティーポットにそれが注がれる音が聞こえた。
「そうですね、ROZENは皇帝に対して試行錯誤して内部事情を見られないようにしてきましたから。」
イタリアで作られた美しいトレーの上に、ウェッジウッドのティーセットが乗せられていた。ソーサーには二つずつ、ジャム入りのクッキーと一口サイズに切り分けられたスコーンが置いてあった。ミルクピッチャーにシュガーポット、ティーポットとジャム瓶にクロテッドクリームの入った皿がカチャカチャと音を立てている。
「さ、どうぞ。ジャムは実家から来た木苺のジャムですよ。」
金色の蓋が開けられると、春に沿ったような甘酸っぱい苺の香りが広がった。注がれたティーカップを引き寄せて、ニコライは飲む前に少し口の前で傾けた。
「キームン……。」
「よくご存知ですね。」
ボソリと銘柄を呟いて味を嗜むニコライに、パーシヴァルはにこにこと微笑んだ。きょとんとするクラヴェーリの隣では、バスカヴィルもにこにこと微笑んでいる。
「キームンって中国だっけか?」
「三代銘茶の一つだよ。」
ふーんと興味なさげにしげしげと茶の色を眺めながら、クラヴェーリは茶菓子を頬張った。
「さて、組織図でも見ていたんですね?」
「えぇ、やはりROZENは複雑化しすぎです。上層部はともかく、下士官は把握出来ているんですか?」
苦笑しながらパーシヴァルは紅茶を置いた。
「逆に貴方が下士官なら把握出来ますか? する必要は? バスカヴィル。」
「こんな巨大な組織図把握出来ませんよ。」
クッキーを食べ終えたニコライは冷静に呟いた。
「する必要はあるかと思いますが。」
「何故です?」
パーシヴァルの言葉に嫌味はなかった。彼はどうやら新入生達とディスカッションをしたいらしい。浮足立ったような愉快な顔で三人を見つめている。
「下士官が自分の上司より更に上の上司を把握しなければ、自分の上司や部隊の状況について訴える場所を失います。」
「上の構造を理解出来ていなければ、自分の所属している部署がどういう位置にあり、どういう連携を取らなければいけないのか分からないではないですか。将軍、下士官を下士官のまま終わらせてはいけないと私は思います。」
ほう、とニコライとクラヴェーリは度肝を抜かれたように呟いた。
「素晴らしい。下士官を下士官のまま終わらせてはいけない、とはつまりどういう?」
「向上心があるのであれば、そして特に才能があるのであれば積極的に上層部へ取り入れるべきです、ROZENが今ゴシップ誌なので取り沙汰されている話題は全てこれが出来れば解決出来ますよ。」
ニコライはバスカヴィルが歩いている最中に持っていたゴシップ誌をその背中から引きずり出した。特集が組まれているのはバスカヴィルだ。帝室の情報を売っただの皇帝に対する反逆だの色々な記事が書かれているが、その根底は現在の国民のROZENへの支持率低下が原因だった。
「一世紀前の支持率はもっと高かった筈……。」
「当時のROZENは情報統制がとてつもなく上手でした。王宮内の情報を国民からシャットアウトし、そのブラックボックスの中でなにが起こっているのか、ある事ない事を多くのゴシップ誌に書かせていました。王宮はそのおかげで権威が失墜し、国民達を宥める為にROZENに殆どの支配権を、要するに統率権を元帥に譲り渡しました。しかし今までになかった絶大な権力を手にしたROZENはその後、今のゴシップ誌が言うように凄まじい腐敗がある。汚職もあり、管理体制も劇的にずさんになっている。皇帝という最高管理者がいない以上、元帥の仕事が特大に増えてしまったのが第一の原因ですよ。」
パーシヴァルはクッキーを一口割ってかじると、席を立って先程の組織図と年表を持ってきて三人に見せた。
「特にそのずさんな管理体勢が続いてきたのは五大筆頭家のヴィステンバッハが三代に続いて約半世紀元帥を歴任した時です。これには勿論元帥位の買収とかそういう話がありましたが、まあそこは置いておい——」
「三代目ヴィステンバッハって確か暗殺疑惑が……。」
言い出した所で、クラヴェーリの声が徐々に萎んでいく。
「あれは本当。死んだのは退役した後だけど。リヴィングストンがロマノフスキーを買収した。」
「ほー、すげぇじゃん……。」
感心したようなクラヴェーリの声に、バスカヴィルが僅かにむせた。
「それで今のリヴィングストン閣下が……?」
「えぇ、現在のリヴィングストン閣下はその三代の後に就任なさいました。齢三十八歳、記録が残っている中では歴代元帥で二番目にお若い就任でしたね。」
ペラペラと雑誌を捲りながらニコライは眩しそうに目を細めた。バスカヴィルの記事に出てくる写真はどれもこれも若い、いや幼い時のものばかりだ。
「リヴィングストンは五大筆頭家ですが反皇帝派からは最も離れた家です。五大筆頭家の中で特に反皇帝派運動に尽力して名を挙げたのはヴィステンバッハとファラレーエフ。元々ROZENで官僚の軍門として随一に扱われていたリヴィングストンはその運動にどこ吹く風の態度を崩していませんでした。対して同じく以前より軍門と扱われていたロッセルは反皇帝派に同調したわけです。」
「暗殺があった後、ヴィステンバッハのヴァイゼンブルク家、リヴィングストンのロマノフスキー家はよく言われる。」
ぱたん、とゴシップ誌が閉ざされると、レースカーテンがゆっくりと春風を運んできた。勢いもなく、生暖かな風が程よく部屋に舞う。
「ロマノフスキーはノンポリに見えて凄まじい穏健派ですからね……。国民に反感を買われない為ならなんでもする家で。」
「リヴィングストンがあそこで元帥位を獲得しなければROZENの根はもっと腐り果ててた。今はまだ幹が朽ちて枯れるのを食い止めているだけで、腐った根を切り落とすまでは出来てない。」
バスカヴィルは腕を組んで組織図を眺めた。実に複雑だ。パーシヴァルにナチスの組織図を見せてもらった事があるが、あれはあれで簡単すぎだ。もう少し複雑性は必要だろうと思ったが、ROZENはもっと簡略さが必要だった。
「リヴィングストン閣下の第一改革で革新的だったのは、金が絡んだ取引は私用公用全て提出させるというものでした。」
「そ、それは流石に反対の声が……上がるのでは?」
流石にどよめいた三人に、パーシヴァルは紅茶が溢れそうになるのを堪えながら笑って続けた。
「勿論ですとも。ですがここで閣下は面白い事をやり始めた。最初は公用私用共に一日に一回、必ず各支部元帥に帳簿上げろという事でしたが、これで猛反発。公用は以前は半年に一回でしたし、私用である家の帳簿は任意でした。次に出した提案が、公用私用共に週終わりと週初めに一回。これでも反対意見がありましたが、僅かながら反発は緩和されました。更に次の要求は、公用を週終わりと週初めに一回、私用は半月に一回になりました。まあそれならという軍人もいましたし、それでもちょっと、という軍人がいました。このやり取りを続けて、最終的には公用が週終わりと週初めに一回、私用は月終わりと月始めに一回になりました。ゴシップ誌はROZEN叩きの妨げになる為、大々的に取り上げませんでしたが、真っ当な新聞社はこれを大きく取り上げました。」
「大きく取り上げたと言っても、批判もあったんですか。」
ニコライの問いに、パーシヴァルはその通り、と二度頭を縦に振った。ティーカップのハンドルを持っていた手の人差し指を上げる。
「勿論、これでは軍に所属する多くの人の私的な家計簿が全て丸裸です。特にROZENに寄っている新聞はこれに批判的な論調が強く、左は歓迎していました。」
「それに元帥部署の仕事も増えますね……。」
疲れたようなため息が紅茶の上に吐き出された。
「劇的に汚職が減ったのは火を見るより明らかですがそれでも全てを根絶出来ず、更に軍事費が圧迫され始めました。元帥部署……要するに経理・会計部門ですが、あそこは人員を増やさなければいかなくなり、更に年俸を上げざるおえなくなった。リヴィングストン閣下は自身や上層部の、一世紀の間に跳ね上がった年俸を一世紀前までに削りましたがそれでも全体的な削減には乗り出せませんでした。」
三人は集中力が切れたのか各々のタイミングでソファー背もたれに埋め尽くされたクッションに身を投げだした。重々しい吐息が部屋中に放り出される。
「なんでこんな話にしたかと言いますと、部署を削減したり整理するというのはこの削減という所に大きく繋がってくると思ったのです。人員はそのままに、各々の部署を統合したり職務を見直す事で年俸を含めて予算をある程度下げる事も出来ますし。」
「将軍閣下、でもそういう話はきっとこういう場所でしか出来ないのでしょう?」
パーシヴァルは苦笑した。バスカヴィルはよく分かっている。ROZENを根底から変えるなら、教育から変えなければいけなくなってきたのだ。しかし元帥はROZENの中身で既に手一杯だった。
「そうですねえ。」
揺れるレースカーテンを見ながらパーシヴァルはそう疲れたように言った。春の始まりといえど、冬の続きである。
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