Example 2-8
昼食を終えて、三人は再び教室に向かった。
「パイプの事だけど、筆頭家に会うなら一番最初は無難にリヴィングストンに接触するべきだと思う。あそこの兄は本部の中将を目指してた。多分、力になってくれる。」
「私の目的も知らないのに?」
気まずげなニコライに、くすくすとバスカヴィルは微笑んだ。
「冗談だよ。君の観察眼を持ってすれば殆ど当てはついてるんだろう? 忠告として受け取るよ。」
その言葉が終わると共に教室に着いて、バスカヴィルはクラヴェーリと共に手を振りながらニコライの傍を去った。休憩を挟みつつ、あと夕食まで座学を耐えればガイダンスは終了する。
(あの男の、隣で……。)
肩を落とす。上半身が前のめりになって重々しいため息を吐いた。既にヴァイゼンブルク家の長男は席に着いて、感情を知らない瞳でただただ紙面の講座を読み流していた。
「さて、ガイダンスはここまでです。一日中よく頑張ってくれました。明日明後日はまだ春休みですから、ゆっくりと休んで英気を養い、一番最初の講義に顔を出して下さい。それでは、本日のプログラムはこれにて終了!」
パーシヴァルの終了の声があると、士官生達はまるで糸が切れたマリオネットのように体勢を崩した。閉ざされていたあらゆる口が開き始め。鞄を机に置いてプリントをしまい始めた。ニコライもまた革の鞄に折ったプリントをしまった。特に忘れ物がない事を確認する。少し後ろの席に座っていたバスカヴィルとクラヴェーリの様子を伺うと、二人も話しながら片付けを始めていた。
「関係がないとは言ったが。」
立ち上がりざま、男は再び口を開いた。
「別に手を出さないとは言ってない。」
頭で考えるより先に腕が動いた。拳を、後ろに立っていた男の頬に叩き込もうとした。感情で動いたおかげですっかり当たらなかったが、そのままその筋肉質な胸ぐらを掴み上げる。
「いい加減にしろロベルト・ヴァイゼンブルク! 私の同室者になにかしたら、ただじゃおかないぞ!!」
視線の先のヴァイゼンブルク家の長男はにやにやと笑っていた。ニコライは血の気が引いた。ヴァイゼンブルク家は敵に回してはいけない。なにより先に、この男はそもそも敵に回してはいけなかった。
「怖いなニコライ・アレクサンドロヴィチ。それは宣戦布告か? それともお前の立場の明確化か?」
「私の家まで貴様らハイエナの権力闘争に巻き込むな!」
掴んだ拳でロベルト・ヴァイゼンブルクの巨躯を押し、ニコライは息を荒げた。見上げたロベルトの口元で僅かに舌先がちらついた。
「なにを喜んでいる……?」
「別に? ここにいる間も、そう退屈しないで済みそうだと思っただけだ。」
全身にぶわりと鳥肌が立った。そんなニコライの心も知らずに、ロベルトは自身の革鞄を手に提げてその場を後にしてしまった。綺麗に整えた爪が肌に食い込むほどに拳を握り、ニコライは奥歯を噛み締めながらその背中を睨みつける。慌てて騒動の渦中の下にやってきたバスカヴィルは、そっとその肩に手を添えた。
「ニコライ、大丈夫かい?」
二つの鞄を持って追いかけてきたクラヴェーリは、周囲の群衆に耳を傾けた。後ろにいた士官生達は既に、一人、また一人と群れから離れていっている。
「ロマノフスキー家がヴァイゼンブルクに喧嘩売ったってよ。」
「そうなのか? ヴァイゼンブルクが喧嘩を売ったんじゃないのか?」
「大方、今年のロマノフスキー家の嫡子は皇太子殿下と同じ部屋らしいからけしかけたんだろ……。」
囁きはニコライの耳にも届いていたらしい。バスカヴィルの労る素振りを通り過ごして、拳を思い切り机に叩きつければ群衆は静まった。なにもかも仕舞い込んだ鞄を肩にかけ、ニコライは斜め後ろで驚いていたバスカヴィルの腕を引っ張る。
「に、ニコライ!」
群衆がわたわたと、まるで腫れ物にでも避けるかのように道を開け、二人とその後を追いかけるクラヴェーリを歩かせた。教室を出て、階段を下がって、建物を出て、夜空の下にかすかに舞う桜の下で漸くニコライは足を止めた。
「どうしたんだニコライ……。」
くるりと振り返って、ニコライはバスカヴィルの両肩をがっしりと掴んだ。
「あの男に、絶対、金輪際、一切、近寄らないと約束してくれ。」
「あの男? ヴァイゼンブルク家の?」
肩に当てられた骨々しいニコライの手の甲に指先を滑らせながら、バスカヴィルはそう囁いた。ニコライは視線を合わさずに頷いた。んー、とバスカヴィルは思考を循環させるように声を出す。納得していないようだった。
「……会ってもいい。でも、せめてリヴィングストンの長兄と会ってからにして。」
「まあそう言うなら、会わないように努めてみるよ。」
ばっとニコライは顔を上げた。困ったように微笑むバスカヴィルの顔が目に入る。本当に避けてくれるだろうか、とニコライは疑問に思った。それでも、ニコライはその微笑みを信じる事にした。儚げな微笑みは、夜桜の下で思考が奪われるほどに幻惑的だった。
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