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神秘学メンズラブシリーズ"nihil"  作者:
第四巻『血を流し死で洗い 命枯らすまで 荊棘たれ。』(CoSH Exc.2)

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Example 2-5

 昨日正門から会場へ歩いたのと同じように、いやそれ以上に桜のはなびらが視界をよく遮った。春風は一段と強く、かすかな涼しさを避ける為に多くの士官達が着ている黒いロングローブをまるで水中に飛び込んだかのようにぶわりと膨らませた。昨日の夜より食堂に向かう生徒も多く、バスカヴィル達は昨日とは少し違う道を歩いた。


「凄い風だね。」


「春は毎日強い。」


 風を切るように身をかがめて素早く歩いていけば、ひっきりなしに入ってくる新入生達のおかげで開け放たれた食堂の扉が目に飛び込んできた。風は温かいが、まだ成長盛りの体躯に強い風は少々堪えた。食堂は、昨夜の閑散とした空気とは打って変わって賑やかだった。男しかいない空間の中で、まだ声変わりの終わっていない微妙に高い声や、すっかり軍人に馴染んだ低くよく通る声が高い天井まで埋めている。いたる所から食器のぶつかる音が聞こえた。


「朝は随分と賑やかだね。」


「今日はガイダンスだから殊更に……。」


 脱いだローブを腕にかけ、二人は周囲を見渡した。強い風でテラスはがらんとしている。


「どうする? 隅なら空いて——」


「皆、皇太子様のお出ましだぞ!」


 席を探していたニコライは体が凍った。どこから発せられたのか、有象無象の頭の中からは判別がつかなかった。一斉にあらゆる音が静まる。


「ば、バスカヴィ——」


「ほらほら、道を開けてやれよ。困っておられるだろうが。」


 呼びかけて、ニコライは舌を止めた。続いた言葉より、見上げた時にじろりと動いたバスカヴィルの瞳に対して、石にさせられた気分だった。決してニコライを睨んだわけではない。バスカヴィルは声の主達を探してうろうろと瞳を動かしていただけだ。しかしその様子がしっかりと蛇のように見えたのだ。


「席も用意して差し上げないと。」


「そうそう、ほらそこの中央の席を空けてやれよ!」


 囁きが瞬く間に聴衆に流れた。士官学校にやってきて一日、バスカヴィルを主演とした舞台の幕が切って降ろされた。


「バス——」


 ニコライは焦った。振り返って再び呼びかけようとして、バスカヴィルの手で制されてしまった。ローブを腕にかけたまま。バスカヴィルは今まさに用意されようとした席とは九十度違う方向に体を向けた。視線に晒された観衆達が一様に身を竦める。


「道を開けてくれるかね。」


 静かに、柔らかに、しかし刺すような声音だった。モーセが海を割った時の感動はこれに匹敵するものだろう。観衆がまるで示し合わせたようにバスカヴィルの前に道を開けた。バスカヴィルの視線に、ふんぞり返ったどこの馬の骨とも知らぬ同期の姿が晒された。石造りの床から靴底を挙げた。騒々しい音もなく、踵が僅かに床にぶつかる音だけが天井まで響いた。まるで滑るように歩いた。しかし生来の皇太子の歩き方は似ても似つかぬ大股だった。


「立ちたまえ。」


 フォークを咥えていた男は、半眼になってやれやれとばかりに立ち上がった。バスカヴィルと同じくらいか、僅かに背丈が高い。一触即発だった。ニコライは頭の先から踵まで品定めするように観察するバスカヴィルをよそ目に近くにいた青年に小声で尋ねた。


「あの男は何処の家の者だ……?」


「ヴィステンバッハ家のご長男ですよ……!?」


 ほお、とニコライは感心したため息をついた。ついつい癖で、口元にかつてあった髭を撫でるような仕草をしかけて、顎に置くにとどまった。ヴィステンバッハ家とは、軍門の家の中で名門中の名門、過激な反皇帝主義を掲げる家の筆頭であった。帝國でも知らぬ者は赤子くらいだろう。ヴィステンバッハという名前を聞いただけで貴族さえ震え上がった。貴族の五大財閥に対抗して、軍門にも五つの筆頭家があり、その中で最も最初に名前を連ねるのがヴィステンバッハである。


(そのヴィステンバッハがついに面と向かって喧嘩を売ったわけか。)


 ROZENの上層部をほぼ総なめしているのがこの五大筆頭家であった。すなわち、ヴィステンバッハ、ヴァイゼンブルク、現元帥を擁立するリヴィングストン、ファラレーエフ、ロッセル家である。


「お父上は第二塔の軍事将軍だったか。その権力に飢えたハイエナのような瞳がよく似ている。歯を食いしばれ。」


 再びバスカヴィルの番だった。言うや否や、高らかに張り手の音が響く。バスカヴィルより何倍も鍛え上げられた体が、その張り手だけで床に転がった。


「死ぬ気もない者が喧嘩を売るな。」


 同じ席に座っていた取り巻きが、慌てて青年に腕を貸した。バスカヴィルはそれには見向きもせずに、颯爽と、自分の為に席を外そうとしていた青年達のほうへ歩いていった。ニコライは周囲を見渡した。凍った空気が多少和らいでいる。ヴィステンバッハ家の嫡子が喚き散らすかどうかでなく、バスカヴィルがどう対応するのか伺っていたのだ。結果、将来軍人としてこの校を卒業する男達は張り手を目の前にして確信したのだ。あの男はいじめの目標としては強すぎ、しかし仲良くになるにはまだ判断材料が足りず、今暫くは傍観すべき対象なのだと。見物群衆は床に転がる皇族に相対した敗戦者になど目もくれず、また各々の行動を取り戻した。雑踏が湧き上がり、会話が再び始まる。


「失礼、そのまま食事を続けてください。私は中央より隅の席のほうが好きな——」


 そのいつもの騒がしい食堂の中で、バスカヴィルは皿を持って立ちっぱなしで一連を見ていた青年に呼びかけた。そしてその白髪に見覚えがあって、言葉を紡げなくなった。


「貴方は……!」


「あの傷は……、きちんと残っていないようですね。」


 あの頃はまだ長髪だった白髪の青年は、もうしっかりうなじを刈り上げていた。僅かに前と横の髪が長いだけだ。頬の傷を受けた事を覚えている。彼もまた、手首をひどくやられて剣を落とした事を覚えていた。


「名前は……そう、あの太陽の騎士と同じ名前だ。ガウェイン、貴方も受かったんですね。」


「はい、覚えていただき光栄です。」


 青年は座り直した。そして皿を置いて、遅れてやってきたニコライに立ち上がって会釈をした。


「彼は私の同室者のニコライだ。」


 ニコライもまた頭を下げた。ガウェインが促すままに朝食を取りに行って、パンとサラダとカリカリのベーコン、とろとろのスランブルエッグとコンソメスープを手に戻ってきた。


「初日から派手ですね。」


「それほどでも。」


 近くの席に座る青年達は時たまちらちらとバスカヴィルの端正な顔を覗こうとしていた。


「ヴィステンバッハの嫡男。彼は横暴な事で有名ですよ。私も、試験会場で突っかかってこられました。」


「過激な反皇帝派であり、軍門に産まれた者のみがROZENに入ることをよしとする……。懐古的排他的で未来のない考え方だ。」


 焼きたてのロールパンをちぎれば、柔らかな白い生地から湯気がゆらゆらと消えていった。


「そういえば、ニコライは軍門の家なのかい? つっかかられもしないし……君は私とガウェインがいた実技試験場にいなかった覚えがあるけれど。」


「私の家は軍門だが直轄領に家はない。ロシア地域の山中にある。親戚も皆そこに。今はロシア支部の七割程度が遠戚を含めた私の家が占めている。」


 ほほう、と目を細めた。ニコライは、少々異質ではあるが軍門であった。この三人の中でたった一人、ROZENの間においては正規的な生徒なのだ。


「ロマノフスキー。貴方の家はロシア支部においては超名門ですが、本部ではあまり話を聞きませんね。」


「我が家は元々諜報特化で人材を排出してきた。競争率が低いところで勝負をしているだけだ。」


 賢いですね、とガウェインは呟いた。バスカヴィルはただ食べる為に口を動かした。


(賢いが、修羅の道だ。)


 諜報部隊になる為に一体どれだけの努力が必要なのか、見当さえつかなかったがバスカヴィルにはよく分かった。そこらの軍人に求められない事を求められる。


「そういえば、試験会場に貴方を迎えに来ていたあの深い緑色の髪の……。」


「クラヴェーリの事かい? 彼が何か?」


 コーンスープに入っていた大ぶりのクルトンを放り込んで、ニコライはバスカヴィルが多めに取っていたバターを拝借した。


「彼がさっき食堂から出ていく姿を見ました。一緒に試験を受けたのですか?」


「……? いや、私は、そのような話は聞いていないけれど……。クラヴェーリが?」


 バスカヴィルは訝しんだ。ROZENへ送り出しただけの友人がここにいる筈がない。しかし、とも思った。パーシヴァルがなにかまだ企んでいるとしたら、ここにいてもなんら不思議ではなかった。

毎日夜0時に次話更新です。

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