Example 2-4
部屋に戻ると、ニコライは既に睡眠に入っていた。シャワールームの開く時間は午前六時から九時までと、午後の五時から十時までだった。恐らく朝に入るタイプなのだろう。バスカヴィルは特に気にもせずに自身のベッドに座った。手提げ鞄のほうに突っ込んでいた、パーシヴァルとの教育の日々が詰められたノート類を取り出す。
(読み直そうかとも思ったが……。)
針は八時過ぎを差していた。消灯までまだまだ時間はあるが、バスカヴィルの睡魔はノートの内容を読み直させる気も抑えつけるかのように脳を蹂躙している。きっちりとリボンで束ねられた本をサイドテーブルに放り出して、ランプの芯を下げて火を消した。カーテンを閉め忘れた窓から、春の霞んだ空気を頼って星がきらきらと輝きを振りまいていた。
(私はどこに行くんだろうか。)
漠然とした問いが胸中に溢れた。考えても無駄だと分かりつつ、バスカヴィルは窓から視線を背けて素っ気のない白い天井を見上げる。今の彼は、なにも持っていなかった。
* * *
翌朝、ニコライが部屋を出ていく音で一度意識が浮上したが、その後また沈没してちょうど今、六時あたりに起きた。在学生の講義は基本八時半から行われるが、新入生のガイダンスは七時から始まる。バスカヴィルはいつの間にか閉められたカーテンの繊維の隙間から、溢れんばかりに輝く春の陽気を辿る。
(朝……。)
意識がしっかり浮上するまで数秒、アパートのベッドに倒れ込んでいる錯覚に見舞われた。起き上がって、裸足のままカーテンまで歩いていく。荒れた絨毯がちくちくと棘毛のように足裏を差した。白んだ日光が一気にバスカヴィルの瞳に差した。
「おはよう。」
同時に入り口の扉が開いて、髪の水気をタオルで拭うニコライが歩いてきた。廊下の外は、昨日最後にバスカヴィルが歩いた時より騒々しい。恐らくニコライと同じ考えの士官生がシャワールームにやってきているのだろう。
「おはようニコライ。」
「硬いマットレスの寝心地はどう?」
湿ったタオルをタオルかけにぐしゃぐしゃに放って、ニコライは白いワイシャツの上に真っ黒い制服のジャケットを羽織った。廊下側にある洗面台と簡易キッチンのほうで、やかんが機関車のような音をあげて沸騰を報告していた。
「そう悪くないよ。」
アパートですっかり慣れきった体では、寮の簡素なベッドも敵ではない。バスカヴィルは綺麗に畳んでハンガーにかけていたスラックスを履くと、ネグリジェをベッドに放った。ふわりと舞う服と打って変わって、しっかりとした筋肉が日に晒された。
「紅茶、置いておく。」
既に身支度をすっかり済ませたニコライが、ベッドの向かい側にあるバスカヴィルのライティングデスクにティーカップを置いた。部屋の備え付けのティーカップはROZENを表す正三角形の薔薇のマークが七宝焼きで施され、真っ黒な釉薬で包まれていた。
「ありがとう。ダージリンかな?」
詰め襟の前を閉める小さなフックを片手で止めながら、バスカヴィルはティーカップを持ち上げて一度紅茶の香りに鼻を近づけた。ニコライはもうすっかり部屋を出る気満々で、ローブを片手に自身のライティングデスクの椅子に座った。
「朝食は食堂で?」
「部屋でも、どっちでも。売店のお菓子がある。」
チョコレートバーをバスカヴィルに投げて寄越して、ニコライは紙袋の中に入れっぱなしのゴシップ誌などもベッドの上に放った。一度考えるように首を傾げて、キャッチしたチョコレートバーも雑誌の上に投げた。
「二日目からこれは感心しないな。行こう。」
バスカヴィルはローブを羽織った。ニコライと一緒にガイダンスに必要な書類や筆記用具の全てを支給された革の鞄に放り込むと、ピカピカの軍靴をまるで鳴らさずに急いで部屋を後にした。
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