Example 2-3
二人は白い大きい皿一つと白い皿二つずつを持って帰ってきた。大きい皿には、メインディッシュやその付け合せ、小さい皿にはパンとサラダ、もう一つにはスープがたんまり入っている。それにしても、とお互いに周囲を見渡した。
「それで足りるのかい?」
「そっちこそ。」
他の士官生達に比べて、二人の量はそう多くはなかった。むしろ少ないくらいだ。かといって貧相なわけではない。二人の食事の選び方と乗せ方には、軍人達にはない独特の品があった。必要エネルギーの為に山盛りになどせず、どこかの三ツ星レストランで習ってきたかのように、品と品がきちんと離されて白い皿を彩っていた。
「バスカヴィルはあまり食べないのか?」
「ガツガツ食べられる胃袋は持ち合わせてないのでね。」
今丁度口にしたステーキよりスパイスの効いた皮肉だった。一瞬だけにやりと笑って、バスカヴィルもまたステーキを口に入れた。
「貴族的な仕草が求められていないのは百も承知だけれど、だからと言って品性がないのは関心しない。上層部を狙うのなら尚更。」
成程、とニコライは呟いた。バスカヴィルは軍人が嫌いというより、軍人だからとたかをくくったおかげで出来た荒れ果てた規則を好んでいないのだ。そう話す彼の言の葉は優雅さが滲み出ていた。
「つまり……貴方はROZENの上を目指すと。」
パスタを巻いていたバスカヴィルはまたにんまりと笑ってみせた。ニコライは口休めに水を含んだ。頭もなんとなく休まって、そしてニコライは、そうか、と閃いた。バスカヴィルは軍人達に溶け込めないのではなく、溶け込まないのだ。
「食堂の食事は美味しいね。売店のは分からないけれど。」
彼は一般大衆におけるフランクな語調というのを未だ使いこなせる事も叶わず、更に軍人的な厳しい口調もいまいち学び切れていないのだ。貴族という群衆の中央に置かれ、王宮で皇太子として過ごした彼にとって、軍人には一朝一夕で成れるものではない。
(しかし、接さなければ身に付かないのでは?)
頭の中がぐるぐると、答えのない思考の泥に巻き込まれて行くにつれ、ニコライはとっている食事の味がよく分からなくなってきた。取り敢えず空腹を満たし、味わうのは売店のお菓子にしようと腹を決めた。バスカヴィルもまた音もなく料理を平らげて、白い皿は殆ど白いまま返却台に戻された。
「ニコライはどこを目指してるんだい?」
春の涼しげな風で冷え切った山麓の空気が、食堂を後にした二人を襲う。ローブの前をかき合わせて、身をかがめながら前へ進む。
「私はロシア支部に務めたい。」
食堂を出たすぐの廊下にある地図の売店を示すと、バスカヴィルはそこに寄る事を快く承諾してくれた。二人は寮棟群にある売店へ行こうと、足元を薄く照らす街灯を頼りに歩き始めた。
「ロシア支部? あの、支部ごと諜報部隊っていう謎の?」
ROZENの本部及び各支部には、諜報専門の部隊が置かれていた。指揮をするのは支部中佐、それを更に束ねるのが本部中佐である。が、ロシア支部は支部全てが諜報隊員という異例の支部であった。ロシア地域は、帝國の最北に位置する帝國直轄領と大河を挟んですぐ南に位置しており、帝國直轄領の為の要塞とばかりに諜報の活動が最も活発であった。
「そう、そこの元帥を。」
「それは……とても難しそうだね。」
バスカヴィルには諜報という仕事がよく分かっていなかった。なにをするか、は分かっていたが、どういう風に、という具体的な話を聞かされてこなかったのである。スパイ物の小説は数多く読んできたが、どれも彼にとっては陳腐だった。
「難しいけど。別に、そう苦労するものじゃない。」
「ニコライは生前そういう職を?」
寮棟群の、部屋からあふれる光が見えてきた。外と部屋を分け隔てるカーテンが僅かに揺れたり、かすかな笑い声が聞こえてくる。
「……いや。諜報はしていなかった。」
大通りが終わると、ユニコーン寮に背を向けて売店へ爪先を向けた。足元の、薄紅色の絨毯が点描画のように途切れていく。売店は、町中にあるキオスクのようなもので、六角形の店舗がぽつんと立っていた。キオスクと違うところは、中に入って品を選ぶところである。六角形の半分には、普段寮室に配られない新聞、雑誌や、お菓子からショートブレッドまでが置いてある。
「明日の朝はガイダンスだったかな。」
「私の記憶が正しければ、大講義室五つで。」
普通の講義よりも若干早い時間から、講義の履修の仕方、必要単位や特別講義などの説明があった。ニコライがショートブレッドを小さな木製のかごに放り込むと、バスカヴィルはその隣のショートブレッドをかごに放り込んだ。次にチョコレートを放り込んで、最後に手元の近くにあった雑誌を放った。
「ゴシップ誌。」
「だから読むんだよ。」
ニコライはかごをレジに置いた。ROZENに雇用された仏頂面で太っちょの店員が二人の学籍番号と共に商品の番号をがちゃがちゃとレジスターへ打ち込んでいく。手持ちの布袋にそれが詰められていく中ニコライは、店内をうろうろしてはしごの上を見たり、前かがみになって足元の商品を見ているバスカヴィルが気になってしょうがなかった。荷物を受け取り、ニコライはバスカヴィルを伴って売店を後にした。
「バスカヴィルは、こういうのは……。」
ユニコーン寮に向かって足を動かしながら、ニコライは麻袋を持ち上げた。
「食べた事はないよ。食事なら、食材を買ってきて調理した事はあったけれど、数ヶ月だしね。お菓子がこうやって売られてるのは知っていたけど、こうして買ったのは初めてだ。」
齢十五にして大衆を操ったこの男は、齢十七にして初めて買い物をしたのである。ほお、とニコライは口を開きかけたが、在りし日の自分を思い出して慌ててため息をつくのをやめた。考えてみればどっちもどっちである。
「大量生産品を食べた事がないんだよ。きっと口に合わないだろうけど……。」
寮に戻って、二人は二階の角部屋に落ち着いた。開きっぱなしのカーテンを閉めて、部屋に備え付けられている蝋燭の全てに火をつける。
「ニコライは正教徒なんだね。」
窓際のベッドサイドテーブルの金色を、滑らかに火の影が舐めたのをバスカヴィルは見逃さなかった。見た事があるものより大分小振りだったが、それはまごうことなく正教の独特な画風を持つイコンに他ならない。
「毎日祈るけど。邪魔?」
「いいや? 好きなだけお祈りするといいよ。」
洋服ダンスから綿布のネグリジェを取り出して、バスカヴィルはカゴに入った石鹸類を手にした。ボトルに入っていたり固形だったりする石鹸達は色とりどりで、しかしギガギガと映えるものではなく、目に優しかった。
「私はシャワーに行ってくるから。」
扉を開けて、バスカヴィルは見返った。貧相なカーペットを、ぽい、とサイドテーブルの前に広げて、ニコライは見送る。
「どうぞ。」
ニコライの声に見送られて、バスカヴィルは木製のドアをそっと閉じた。月が高い。特待生に渡される銀製の懐中時計をその灯りの下に持っていくと、午後の七時を指していた。
(消灯時間は……十時だったか。)
各寮の入り口のあるカウンター。その向こうの扉には、キッチンも備え付けられた他の部屋よりも広い監督教官用の宿泊室があった。午後十時になると、その部屋で普段執務をしている教官がランタンを片手に部屋の外の廊下をゆっくり回っていくらしい。シャワーも全て終えて、どんなに試験前であろうとも明かりは一旦吹き消さなければいけない。バスカヴィルは一人で、一本用の燭台を手に薄暗い廊下を進んだ。ちょうど真ん中にシャワー室がある。
(シャワー室……共同の浴場なんて初めてだ。)
脱衣所とセットになった七つのシャワールームが、ずらりと部屋の一番奥に並んでいた。使っている人間がだれもいないのか、聞こえるのは巨大な鏡面の前にある洗面台から滴る水音だけだ。バスカヴィルは一番廊下側のシャワー室に向かった。木の扉は彫りも一切ない無簡素で、僅かに手で押せば向こう側にぎぃと音を立てて開いていった。申し訳程度に赤い薔薇色のマットレスの上に革靴を脱いで上がる。籠に着替えを放り投げて、そそくさと制服のボタンを外し始めた。
(一人のシャワータイム、か。)
今までは必ずだれかがいた。王宮では神官達が、別荘とアパートではクラヴェーリから発される生活音があった。士官学校の世界に来てからまだ一日だが、バスカヴィルにはなにもかもが鮮やかで、なにもかもが荒々しかった。
「はあ。」
シャワールームの中の様子を伺いながら白いスタンドカラーシャツのボタンも外していく。シャワールームに湯船はない。シャワー以外といえば、申し訳程度に手持ちの石鹸類を置く棚が二段あるだけだ。一つ、また一つとボタンが外されていくごとに、日焼けを知らない、しかし皮膚下を流れる薔薇色の血流がよく分かる滑らかな白い肌があらわになった。服を脱ぐ前に、長くうねりのない黒髪を下でまとめていた髪紐を解く。吸い込まれそうな、絡まりを知らない艶やかな髪が背中に広がった。容赦なく服を脱ぎ捨てれば、真珠のような淡く輝く柔肌が白熱電球の下に全てさらけ出された。ゴムでしっかり密閉されたドアを開け、バスカヴィルはまだ湿気の残るタイルに裸足で上がる。ボタンを押すと、シャワーヘッドから暖かなお湯が降ってきた。水滴が筋肉質な肌の上を撫でて流れ、次々と落ちていく。
(ソ連、か。)
とんと縁がない名前である事は分かった。王宮にいた時に勉強した程度である。とは言っても、カール・マルクスの"Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie"やウラジミール・レーニンの"Государство и революция"はよくよく読み込んだ。結論を一言で言うなら、バスカヴィルは馬鹿馬鹿しいと思った。
(ニコライはああいうのをどうだと思っているのだろう。)
おぼろげに思い出せる風景をまぶたの裏に映した。毎日渋滞する土埃が巻き上げられる道路、馬車の駆け抜ける音、もくもくと煙突から湧き上がる見るからに体に悪そうな黒煙、打って変わって煌びやかな貴族達の室内。
(私はああいうのを、一体……。)
帝國に住む全国民が持っている筈の確かな前世の記憶を、この男は持ち得ていないかったのである。
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