Verse 2-23
ジークフリートがホールに戻った頃は、まだ夜も更けたばかりである。客人達は少し酒の入った滑らかな舌である事からない事まで噂を立てていた。
「あら、レイ様は?」
歓談に加わったジークフリートに一人の婦人がそう問いかける。
「彼なら長く話し込んだせいで疲れ切ってしまいまして。今少し準備室で寝ていますよ。」
準備室の扉に視線をやりながらそう言うと、婦人はすっかり信じ込んで歓談へ戻った。
一向に準備室から出てこないレイにそろそろバスカヴィルは堪忍袋の緒が切れそうであった。歓談に耽る事もなく長時間座ってただシャンパンだけをあおっていたバスカヴィルは、酔いを感じさせないほどにしっかりと立ち上がる。
「ジークフリート君。明日少し早いので帰ろうかと思ってね。」
たまたま近くを通りかかったジークフリートに、バスカヴィルは懐中時計を見ながら言い放った。ジークフリートは近くの机に空になったグラスを置く。
「分かりました。レイを呼んできます。」
視線から逃げるように小走りで準備室へ向かう。ドアノブをそっと回し中に入ると、レイは未だ夢の中であった。少し乱れたシャツと黒髪は非常に扇情的である。
「レイ、起きてくれ。そろそろ帰る時間だ。」
微睡みからゆっくり意識を取り戻したレイは、まるで酒を飲み過ぎたような溶けた表情をしていた。
「お前の父上が呼んでる。」
レイの瞳が見開かれる。慌てて辺りを見回して、時計を探す。午前一時に差し掛かっていた。ジークフリートが近くの椅子にかけていたジャケットをレイに渡す。ゆっくりと袖を通したレイは、小走りでドアに駆け寄った。扉が小さく開いた時、ジークフリートはそっと囁く。
「今日は、本当に……ありがとう。」
戸惑ったようにホールへ一歩踏み出して、しかしレイは彼に振り返った。
「さようなら、ジークフリート。」
寂しげな優しい声は、扉の向こうへ消えていく。
馬車の中、バスカヴィルは終始無言であった。レイは目深にシルクハットを被って外套に顔を埋めている。家に着いて馬車が止まった。バスカヴィルが馬車を降り、レイもそれに続く。父親が開けた玄関に入るのをレイは躊躇った。今の彼にとって、自宅は鉄の牢獄である。冷たく、狭い、冷えた獄である。そこには一つの幸せの欠片もなかった。
「お入りレイ。体を冷やす。」
礼服のマントの中にレイを入れて、バスカヴィルは彼の背中を押す。屋敷に入ると、背後で扉が閉まった。シルクハットを専用のハンガーに掛けて、外套を脱ぐ。無言で階段を上っていくレイの背中に、バスカヴィルは声をかけた。
「レイ、服を着替えてシャワーを浴びたら私の寝室に来なさい。」
父親はいつもより命令的な口調でそうレイに言うと、自らの私室へ入っていく。レイも自室へ戻った。ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイとカラーをベッドに放る。シャツを脱ぐと、仄かにジークフリートのつけていた香水が香った。甘い百合の香りである。レイのつけていた香水の臭いはすっかり消え失せていた。出来るだけゆっくりと服を着替えて、レイは浴室へ忍び足で急ぐ。しっかりジェルで固まった髪の毛をほぐして、暖かい湯の中で少しだけ息を吐く。目を閉じると、ジークフリートの奏でたヴァイオリンが耳に蘇っていった。
バスカヴィルの寝室の前で、レイは立っている。扉の向こうから、美しいギターの音色が聞こえてきた。小さい頃から、父が考え事に耽る時は永遠とこの物悲しげな音色が屋敷を満たしていたのである。禁じられた遊び、バスカヴィルは幼きレイにその題名を一度だけ口にした。ノックとともにレイが入っていくと、ギターの弦が切れた。
「シャワーは?」
「浴びた。」
ギターをケースの中に置いて、バスカヴィルは立ち上がる。レイは扉の前で立ったまま動かない。息子に向き合うようにして、バスカヴィルはソファーに深々と腰掛けた。
「レイ、あの準備室で何を?」
レイは本能に従う。反射的に後ろを振り向いてドアノブを回そうとしたが手が滑る。いつの間にか背後に立っていたバスカヴィルは易々と鍵をかけた。
「何をしていたんだい?」
前にも後ろにも、右にも左にも逃げられないようにバスカヴィルは両腕を扉についた。父親に背を向けたまま、レイは震える声を発する。
「なにも……してない。」
何度も首を横の振るレイの瞼の裏には、準備室でのジークフリートとの情事が蘇っていた。
「言いなさい。」
呆れたように囁いたバスカヴィルは、レイの肩を掴んだ。しかし、レイは頭を振る。口を開けないとばかりにその端を引き締め、彼は涙を堪えていた。時間とともに、バスカヴィルの我慢がついに限界へ達する。荒々しく彼の肩を引く。
「言いなさい!」
「俺が、親父のいない所でなにしたって関係ないだろ!」
怒鳴りつけられた時、レイが喉で止めていた積年の思いが流れ出した。バスカヴィルはレイの顎を下から掴み上げて顔を近付ける。
「親の知らない所で男と肉体関係を結んでいる事もか!?」
目を瞑ってレイはバスカヴィルの手を引き剥がした。振り向いて、開く筈のない扉のドアノブを回す。
「開けろよ……鍵開けろよ!」
「毎回講義で会う度に、お前にどんどん色がつくのを見て私は不思議だったよ。たかが一度の強姦で、いくら何人の男を相手にしたとしてもそうはならない。……アルフレッドは人にそういう事をする子じゃない。ジャンもヨハンもお前をそういう目では見ていなかった。フィリップ君はロベルトに聞いたところ夜は毎日学校にいない。ならもう、一人しかいないだろう……。どうして、よりにもよってあんな青年なんかと!!」
最後の言葉に、レイは目を見開いた。力任せに父親の胸を突き飛ばし、レイは怒鳴る。
「ジークを悪く言うなんて、いくら親父だって俺の親友をそう言うなんて絶対に許さない!」
放たれた言葉に、バスカヴィルは愕然とした。最も嫌っていると思っていた青年を、今息子は確かに愛称で呼んだ。自らの部下であるロベルトも、ジークフリートの事をそう呼んでいた事をバスカヴィルは知っている。
「ジーク……だって?」
呆れを通り越して、驚きを通り越して、バスカヴィルの言葉は空虚であった。
「大嫌いだ、親父なんて大っ嫌いだ!! 鍵を開けろよ!!」
怒鳴り声とは裏腹に、バスカヴィルは全てに裏切られたような力ない言葉を彼にかける。
「レイ……お前は私の息子としてやってはいけない事を、したんだよ。」
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