Verse 2-22
談笑を楽しんでいたバスカヴィルは、ジークフリートがレイと向かい合って座っているのを見つけて中座した。靴音に気付いてレイとジークフリートはほぼ同時に立ち上がる。バスカヴィルが右手を差し出した。
「今日は素晴らしい演奏をありがとうジークフリート。感動したよ。」
「ありがとうございます。閣下も、本日はわざわざ足を運んでくださって感激致しました。」
元帥の右手に応えて、ジークフリートは朗らかに笑う。バスカヴィルは一瞬だけレイに目をやって、すぐにジークフリートに戻した。
「ところでレイ、少し席を外してくれないかな。彼と少し二人で話したいんだ。」
驚いたレイは、瞠目した瞳にジークフリートを映す。
「大丈夫だ、レイ。」
一歩退いて、レイは苦々しい表情のまま一礼して人混みへ去っていった。バスカヴィルに座るように促され、ジークフリートは先程まで座っていた椅子に座り直す。左手に持っていたシャンパンをあおって、バスカヴィルは指を組んで机の上に置いた。
「さて、ジークフリート君。この間は私の至らないところまでレイに教えてくれてありがとう。」
低く低く、敵意に満ちたその声にジークフリートは目を見開いた。姿勢を正そうとして俯いたまま、ジークフリートはバスカヴィルの前に置かれたシャンパングラスを見つめている。
「なんの……事でしょうか。」
掠れた声はきちんとバスカヴィルの耳に届いた。片眉を吊り上げたバスカヴィルの顔から表情が消える。
「とぼけるつもりかい? 処分されないから私が知らないとでも? 証拠不十分で君だけ退学に出来ないだけだ。」
「元帥、それは……!」
思わず立ち上がったジークフリートの目の前には、憮然とした顔の元帥がいただけであった。
「何か、私に言い訳が?」
ジークフリートの中でガラスの割れる音がした。紙の破れる音か、積み上げられた石が瓦礫になる音だったかもしれない。
「いえ、失礼……しました。」
そっと目を閉じると、ジークフリートの目尻から涙が一つだけ零れ落ちる。立ち上がって一礼し、彼はホールに来る前までいた準備室へ足早に戻る。背中を呼び止める友人の声も振り切った。一瞬、扉に鍵をかけようかと考えたがそれだけはやめた。ジャケットを脱いで簡素な机の上に置いてあったワインボトルを掴みグラスにワインを注ぐ。血のような色をしたワイン、まさに今の彼の心情そのものであった。遠慮がちなノックとともに、磨き上げられた靴がその中に踏み込んでくる。
「レイ。もうこれからは、僕の部屋に……僕の所に来ないほうがいい。」
ワインをあおって、ジークフリートはレイに背中を向けたまま言った。扉のを閉めて、レイは鍵をかける。
「どうしてそんな事を……親父に何か言われたのか!?」
白いシャツが皺になる程掴んで、レイはジークフリートを振り向かせた。孔雀の瞳から、今まで堪えていた涙が堰を切ったように止めどなく流れ出す。
「お願いだ、お願いだ。僕の身を破滅させたくなければ!」
今まで積み上げてきた友情や描いてきた思い出を全て切り裂くような悲痛な叫びが部屋に木霊した。レイの胸を両手で鷲掴んで、ジークフリートは俯く。
「レイ、僕達は恋人未満だ。」
「知ってる。」
「……ただのなにもなかった友達だ。」
弱々しく震える声はレイの耳に辛うじて届いた。
「レイ、僕は謝らなきゃいけない。感情的にお前を殴った事、殴られた報復としてお前を集団で強姦した事……。」
まるで懺悔するように、ジークフリートは両膝を石畳につく。その肘を掴んで、レイは彼をどうにか立たせようとした。
「そんな事はもういいんだジークフリート。俺はお前をもう……許してる。」
ジークフリートは顔を上げようとしなかった。掴んでいた手を離してレイの腕にそっと触れ、彼は弱々しく言い放つ。
「行ってくれ、もう行ってくれレイ。」
縋るような手は、レイが後ずさると見事に滑り落ちていった。まるで魂が抜けたように、ジークフリートの体はただ床の上に膝をついているだけの空虚な抜け殻であった。ドアノブが回る音がして、ジークフリートは顔を上げる。
「レイ、これだけ約束してくれ。今日から僕の事を、もし呼ぶ事があれば、ジークフリートではなくジークと……呼んでくれ。」
振り返ってレイは、立ち上がったジークフリートを見上げた。鍵を開けようとしていた手を止める。ドアノブから手を離し、彼はジークフリートに近付き、その左胸に手を置いた。
「ジー、ク。」
辿々しく自らの愛称を呼んだ友人にジークフリートはゆっくりと近付く。一歩踏み込まれる度に、レイは一歩後ずさった。レイの掌が冷たい壁に当たる。熱い吐息が絡み、湿った唇が重なり合った。
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